エピソード5 思い出の行き先

「俺の名前は佐々木。長いことこの街でタクシー運転手をしている。昼も夜も人を乗せ、行き先を聞いて走る。ただ、それだけの仕事だと思っていたけど――たまに、人生の不思議を感じる夜がある。」


その夜、年配の男性がタクシーに乗り込んできた。整った身なりの70代くらいの紳士で、どこか落ち着いた雰囲気を漂わせている。


「〇〇丘までお願いできますか?」


「〇〇丘、ですか?」佐々木は少し戸惑いながらも復唱する。街の地図は頭に叩き込んでいるつもりだが、その名前には心当たりがない。


「ええ、昔はよく行ったものですが、最近はどうも足が遠のいてね……少し説明しながらで構いません。」


佐々木は了解の意を示し、エンジンをかけた。


「どの辺りか教えてもらえますか?」


「確か、この道を進んで……ああ、少し左に曲がってください。」


男性は記憶を辿るように指示を出し、タクシーは夜の街を進んでいく。道中、男性はぽつぽつと昔話を語り出した。


「この辺りもすっかり変わりましたね。当時は店もなくてね、妻と二人でただ歩くだけでした。」


「奥様との思い出の場所なんですね。」


「ああ、そうです。あの丘で初めてデートした時、彼女が『空が広いね』って言ったんですよ。それから二人で黙って星を見上げてね。その静けさが心地よかった。」


男性は窓の外を見ながら話し続ける。その表情には、どこか懐かしむような柔らかさがあった。


「プロポーズもその場所でしましたよ。自分、不器用な男でね。言葉もうまく選べなくて、ただ『一緒にいてくれ』としか言えなかった。でも彼女、笑いながら『それだけで十分』って言ってくれてね。」


「素敵な方ですね。」佐々木は思わず口にした。


「ええ、素敵な人でした。あの場所は、私たちの特別な場所になりました。どんなに忙しくても、毎年記念日には必ず行くと決めていましたからね。」


佐々木はその話に聞き入っていたが、どこか不思議な感覚も覚えていた。この男性の話す「〇〇丘」が、まるで過去の景色そのもののように感じられたのだ。


やがて、目的地らしい場所に到着する。そこは街外れの小さな丘だった。特に目立つものはないが、どこか懐かしい空気を感じさせる場所だ。


「ここで結構です。」男性はタクシーを降り、感謝の言葉を述べた後、ポケットを探る仕草をした。


「ああ……困ったな。財布を忘れてしまったようだ。」


「え?」佐々木はバックミラー越しに振り返る。


「すみません、私としたことが……」男性は苦笑いを浮かべた。「今度、必ずお支払いします。今日は本当に助かりました。」


「大丈夫ですよ、気にしないでください。」


「でも……運転手さんの仕事に対して失礼だな。」


「そんなことないです。奥様との思い出の場所までお送りできて、むしろ私も良い話を聞かせてもらいました。」


「そう言ってもらえると、救われます。」男性は深く頭を下げた後、そっと微笑んだ。「ありがとう。本当にありがとう。」


佐々木は男性が丘を歩き去る姿を見送った。


タクシーの窓から見える男性の姿は、どこか遠い昔の記憶に溶け込むようだった。

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