9.春の風


……19日の水曜日、午前8時過ぎ。すっかり風邪が治った俺は、長谷川とともに、学校へ向かって歩いていた。


ふと周りを見てみると、いろんな人たちがいた。元気よく走っていく小学生に、のんびりと犬を連れてるじいさん。忙しなく電話をしているサラリーマンに、あくびをしている女子高生。


それぞれの人に、それぞれの1日が始まろうとしていた。


「………………」


アスファルトの割れ目から、名前も知らない小さな白い花が咲いている。


俺はそれを踏まないように、右足を少し大股にして歩いた。その時、踏み出した足首を捻ったことにより、その場にこけてしまった。


「いててっ!う~……いつつ……」


俺は右肩を地面に打った痛みで、顔をしかめた。起き上がろうと試みるが、重心が右側に寄っているため、上手く立てない。右腕があったなら、右手を地面について身体を起こせるが、俺にはその右手がない。


「先輩、大丈夫ですか?」


長谷川がその場にしゃがみこみ、俺のことを心配そうに見つめていた。


「す、すまん長谷川……。ちょっと、起こしてくれないか?」


「はい、わかりました」


彼女は俺の左肩を担いで、ゆっくりと俺を起こしてくれた。右半身にピリピリとした痛みがずっと残っていた。


長谷川は俺を立たせた後、制服についた土埃を、手で払って落としてくれた。


「いつも悪いな、手間をかけさせちゃって……」


「いえいえ、そんなこと。それより怪我はないですか?大丈夫ですか?」


「ああ、なんとかな」


「よかった、それなら安心です」


そうして、俺たちはまた一緒に並んで、歩き始めた。


遠くには、もう校舎の姿が見えていた。あと5分もしない内に、学校へ着くだろう。


(……学校、か)


俺はもうそろそろで、二年生が終わる。来月にはいよいよ……三年生になるんだ。進路とか真剣に考えなきゃいけない時期だ。


(俺は、これからの人生、どうすればいいんだろう?)


片腕というハンデを、突然背負ってしまったこの人生。これから先もきっといろいろ大変な目に遭うのは、簡単に想像できる。


自分一人で生きていくのは、到底難しい。もともとドジを踏みやすい性格で、周りからフォローされてもらうこともたくさんあったのに。それに拍車をかけて迷惑をかけてしまう。


「………………」


俺は横目で、隣にいる長谷川のことを見つめた。


昨日の風邪にしろ、さっきの転んだことにしろ、俺はいつもいつも、彼女に迷惑をかけてばっかりだ。年上として不甲斐ないし、情けない。


「……なあ、長谷川」


俺は視線を前に戻してから、彼女へと声をかけた。横から「はい」と、彼女の返事が聞こえてくる。


「……いつでも、止めていいからな」


「え?」


「俺のお世話だよ。いつでも止めてくれていいから」


「………………」


「毎日毎日さ、俺と一緒にいるのも、疲れるだろう?もう充分俺はお前から……」


と、そこまで口にしたあたりで、俺は言葉を継ぐのを止めた。長谷川が顔をうつむかせて、その場に立ち止まったからだ。


俺は数歩先に進んだところで、同じように立ち止まり、彼女の方へと振り返った。


「長谷川……?」


どうしたんだ?と言おうとしたところで、彼女は顔を上げて、こう告げた。


「ゆず、邪魔ですか?」


「え?」


「ゆずは、先輩のお役に、立てていませんか……?」


「………………」


長谷川は、今にも泣きそうな顔になっていた。


口をへの字に曲げて、眉をひそめていた。濡れた瞳が光っていて、その奥に俺の姿が写りこんでいた。


「あ、ち、違うよ長谷川!俺はお前を邪魔だなんて思ってない!」


「ほ、ほんとですか?先輩、気を遣ってませんか……?」


「違う違う、本当に違う!ただ……俺は、お前にめちゃくちゃ、迷惑かけちゃってるから……。ごめん、言葉が足りなかったよな……」


「………………」


「俺はお前から、充分すぎるほど世話をしてもらったよ。昨日だって、1日つきっきりでそばにいてくれたじゃないか。わざわざ学校まで休んでもらってさ。俺はほんと、お前には頭が上がらないよ」


「それは……」


「俺としては、もうしっかり、長谷川からの気持ちは伝わったから。だからもう、無理して俺のそばにいなくていいんだ。もちろん俺の親にも、その話をするよ。長谷川のことは、許してやってほしいって」


「……先輩」


「だから、どうか自由になってほしい。俺にずっと、付き合わないでほしい」


「………………」


「俺の歪んだ人生に付き合って、長谷川の人生まで歪むのは……忍びないからさ」


「………………」


長谷川は、すっと目を伏せて、顔をうつむかせた。


春の風が、微かな音を立てて、俺たちの間を吹き抜けていく。長谷川の髪はそれに煽られて、ふわりと柔らかく揺れている。


「………せて」


「え?」


彼女は掠れるように小さな声で、何かを呟いた。


俺は「どうした?」と言って、彼女の言葉をもう一度待つ。すると長谷川は、ゆっくりとこちらに目を向けた。


そして、風の音にかき消されてしまいそうなほどに小さな声で、彼女は言った。




「ゆずを、歪ませて」




「……え?」


「ゆずの人生を、歪ませて。先輩の手で、おかしくさせて」


「な、なに?なんだって……?」


「先輩の人生が歪むんなら、その形に合わせて、ゆずも歪みたい」


「………………」


「先輩が不幸になるなら、ゆずも一緒に不幸になる。先輩が死にたくなったなら、ゆずもその時一緒に死ぬ」


「……は、長谷川。お前……」


「だから、どうか先輩の手で、ゆずをぐちゃぐちゃに歪ませて。ズタズタに引き裂いて」




「ゆずの人生は、全部……先輩のものだから」




「………………」


彼女の右目から、すっと一筋の涙が流れた。それは小さな粒となり、風に乗って飛んでいった。


朝の静かな日差しが、その涙の粒を鈍く光らせていた。












……三時間目と四時間目の間にある、10分の休み時間。俺は廊下で1人、教科書を脇に抱えて、理科室へと歩いていた。



『ゆずの人生を、歪ませて』



「………………」


朝方に長谷川から言われた言葉が、俺の脳裏にこびりついている。


彼女の抱える罪悪感は、俺の想像以上に大きい。それこそ、一生かけても消せるかどうか分からない罪悪感だろう。


彼女には自由になってほしい。そう俺は願っている。だが、それはもしかしたら……永遠に叶えられない願いなのかもしれない。


「……長谷川」


俺は唇を噛み締めながら、ぽつりとそう呟いた。


「どうしたの?中村くん」


その時、俺へ声をかけてくる者がいた。それは、クラスメイトの倉崎さんだった。


「もしかして、教科書が重たい?私、代わりに持とうか?」


「ああ、いやいやいいよ。大丈夫だから」


「そう?何か困ったことがあったら、何でも言って。病み上がりなんだし、無理しないでね」


「うん、ありがとう」


俺が学校へ登校するようになってからというもの、倉崎さんは毎日こうして、俺に声をかけてくれる。


クラスメイトで一番俺のことを気にかけてくれるのは、間違いなく彼女だった。


前からそこそこ仲良くさせては貰ってたけど、こんなに気にかけてもらえるとは思ってなかった。それだけ彼女が優しい性格だということなのだろう。


「そう言えば、今日の理科はテストを返すって先生が言ってたね」


「あ、そ、そうだ……。はあ……マジで嫌だあ……。絶対ボロボロだよ、今回のテストは……」


「仕方ないよ、中村くんはしばらく入院してたんだし」


「それはそうなんだけどさ……。はあ……。勉強、頑張んなきゃなあ……」


「……ねえ、中村くん」


「うん?」


「よかったら、私、勉強教えようか?」


「え?倉崎さんが?」


「うん」


彼女は口許に薄く笑みを浮かべながら、そう言った。


倉崎さんは、常に学年の上位ランクにいる秀才だ。彼女が5位以下になったことは、一度も見たことがない。


顔も可愛くて、性格も優しく、そして頭もいい。一体どこに欠点があるんだ?と言わんばかりだった。


「く、倉崎さん、俺なんかのためにいいの?」


正直言って、この提案はすごく嬉しかった。三年生になる前に少しでも勉強を進めたかったし、授業に全然追い付けていないのが苦しかったのだ。


でも、みんなの憧れである、“あの”倉崎さん直々に教えてもらうというのは、俺にとってはおそれおおいことだった。


だがそんな心配を払ってくれるかのように、倉崎さんはにっこりと微笑んで「もちろんだよ」と答えてくれた。


「私なんかでよければ、中村くんの役に立ちたいな」


「そ、そんなそんな、私“なんか”って言わないでよ。こっちこそ、俺なんかのために時間を割いてもらって……」


「言ったでしょ?何か困ったことがあったら、何でも言ってって」


「……倉崎さん」


「困った時はお互い様!ね?」


「………………」


俺は「ありがとう」と感謝の言葉を述べて、きちんと頭を下げた。それを見た倉崎さんは、さっきよりももっと優しい笑顔を浮かべていた。


窓の外には桜の木が見えていて、枝にたくさんのつぼみをつけていた。


「もうすぐで、私たち三年生になるね」


「ほんとほんと。時間が経つのは早いなあ。ついこの前まで、入学式で緊張してたはずなのに」


「ふふふ、ほんとだね」


「いよいよ、高校生活もあと一年か……。青春って一瞬だなあ」


「……ねえ、中村くん」


「うん?」


彼女はこちらをじっと見つめながら、目を細めて告げた。




「私たち、三年生も……同じクラスだといいね」




「………………」


俺はなんだか、言葉にしがたい照れ臭さ胸に抱いたまま、小さな声で「そうだね」と答えた。


微かな風の音が、窓の外から聞こえていた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る