第一章


「見せてやりたかったな、白ヒゲにもよ」


 安い外国タバコをふかしながら、ヤニまみれの歯を見せて笑うヤマさん。

 黙って聞いていた白ヒゲは、


「ふん、そうかい」


 さして興味もなさそうに、集めてきた空き缶の選別をつづける。

 からやや離れた、六地蔵に近い河川敷がだ。

 ビニールシートと段ボールで構築された芸術的な家屋は、外国にも自慢できる出来だ……とまで胸を張るつもりは、アキにもない。


 白ヒゲは、おそらくヤマさんより年下だが、苦労が多かったのだろう刻まれた皺の深さとヒゲの色で、やや年上に見える。

 年じゅう変わらぬ作業着の上下に、くたびれたフェイクレザーのジャンパーを引っ張りだして羽織るほど、そろそろ京都にも冬が迫っている。

 堤防のたもとで死にかけていたアキを拾って、ホームレス村に迎えてくれた恩人でもあった。


「さすが東大出とうだいでアキってか。スペイン語までできるとはな」


 よほど痛快だったのだろう、ヤマさんはまだこの話をやめるつもりはないようだ。


「第二外語でとっただけだよ。まあ学生時代、最低数か月は海外を放浪するって流行があったんで、読み書きよりは話すほうが得意かもな。これでもテキーラとラテンの女には、ちょっとうるさいぜ」


 飄々と答えるアキ。

 全体的にスペイン語と中国語を選ぶ学生が多いというのは、昔から変わらぬ傾向だ。話者が多い、という事情だろう。

 理系ではドイツ語の人気も高かったが、アキは女子が多かったという理由で、なんとなくスペイン語にした。


 プリンガオと聞こえて、注意した。相手をバカにするとき、からかうときに使う。

 親しい間柄ならともかく、表情と視線からして、だいぶネガティブな会話であることは明白だった。


「それよりヤマさん、さっきヤクザが集金にきたぜ。出直せと言っといたが」


 なかば無理やり、白ヒゲが話題を変える。


「ああ、そうか、忘れてた。……いまいましい連中だな」


 ヤマさんの破顔が、瞬時に渋面に取って代わった。

 おどろくべきことに、ホームレスにものヤクザがついている。


 なにもしていないホームレスはともかく、雑誌売りや空き缶拾いには仕事をする場所が必要だ。界隈の露店や飲み屋からミカジメ料を集めていくついでに、目障りなホームレスからも上前を撥ねるヤクザの連中は、ほんとうに度しがたい。

 露骨に反発する者もいるが、揉め事があったときには意外に役立つらしく、ほとんどのホームレスはわずかな金銭を支払うか、むこうのちょっとした「仕事」を請け負ったりもする。


 いわく、警察やチンピラの動きを伝えたり、エロ本をついでに捌いたり、だ。

 そもそも道端で勝手にモノを売るのは道路交通法違反だから、運がわるければ豚箱行きになる。

 たいていの駅員や警官は見て見ぬふりをするが、そうでないときもある……。


 舌打ちしながら、売り上げを数えはじめるヤマさん。

 淡々と空き缶の分別をつづける白ヒゲ。

 そこへ、やや小太りのホームレスが近寄ってきて、ポケットから薄汚れたスマホを取り出し、アキに差し出した。


「アキさん、この端末、具合わるいんだけど」


 お京阪で拾い子をやっている小柄な男だ。

 アキには、ほんのすこしの見覚えしかない。


「ああ、バージョンごとの最適化まではやってないからな」


 テントにもどると、自動車バッテリーに接続したアダプタの電源を入れ、内臓バッテリーのへたったノートPCを立ち上げた。

 受け取った中古端末にUSBをつなぎ、プロンプトを呼び出す。

 ──これが、このホームレス村で彼のやっている「仕事」だ。


 旧来型のホームレス的「資源ごみビジネス」に、ちょっとした「変革」を起こした。

 ターミナルである京都駅を中心に、JR、近鉄、京阪、阪急、市営地下鉄など、飽和した電鉄網で日々消費される雑誌流通の「フロー」を、かすめ取る仕事。拾った雑誌を安値で売る、というホームレスの正業(?)DXだ。


 先行投資にプリペイドの買い切り低速SIMを十数回線、端末は低スペックの中古屋の売れ残りをタダ同然で引き取る。

 カーネルを差し替えて雑誌流通に特化させたアプリだけ入れ、拾い子と売り子に使い方を教えれば、デジタルトランスフォーメーションの完成だ。


 学生が多い街だから、売れる場所は決まっている。

 警察の重点警戒やヤクザのナワバリとの兼ね合いもある。

 弾力的に売り場を変更しても、GPSでリアルタイムに把握できるから便利だ。


 需要と供給のマッチングアプリは、アキが組んだ。

 通信速度も処理速度も遅いからたいしたことはできないが、必要な地図だけダウンロードし、どこの店になにを届けるべきかが瞬時にわかる。


 世界のどこにも居場所を失くしたアキが、ここに居場所をつくるためにやったこと。

 その恩恵に浴しているヤマさんが、首をかしげて言った。


「しかしよ、男前で、東大出て、プログラム書けて、英語とスペイン語もできんのに、なんで河川敷でホームレスなんだよ?」


「それっスよね、おれも不思議だわ」


 小柄な男とヤマさんが、そんな話をはじめた。

 白ヒゲはつまらなそうに、


「転落するエリートの話なんて、そこらじゅうに転がってるだろ。ひとの傷口えぐってやるんじゃねえよ」


「そういうつもりはねえけどよ、諸行無常だねえ。どんだけ頭が良くても、堕ちるときゃ堕ちるってか」


「あの渡会わたらい博士の娘さんと結婚までできたんスから、人生のピークでもおかしくないっスよね」


「おお、京都が誇る大天才、渡会博士か。なんだっけ、ええと、宇宙がミラーの……?」


 イライラして聞いていたアキは、思わず言った。


「多元宇宙再対比ミラー理論(multiversal re-contrasted mirror theory = MRM)だろ」


「それそれ、へへ、長ったらしい名前つけやがってよ、なあ? いや、おめーはその理屈、わかってんだっけ」


「わかんねーよ、あんなもん。みんなが美しいって褒めるから、なるほどそうかもしれないな、って気分にはなるだけだ」


「げははは。おめーもわかってねーのかよ。元嫁のオヤジさんも報われねーな」


 下卑た笑いで、ペットボトルの残りを飲み干すヤマさん。

 アキは静かに、そのことばの意味を噛み締める。

 ──元嫁のオヤジさん、渡会博士だ。


 真の天才数学者であり、事実、世界を変えた。端緒となったのがMRMで、衝撃的なその内容は「来世からきた論文」とも呼ばれている。

 数百ページに及ぶMRMは、数学界はもとより、物理学界隈にも激震を走らせた。

 難解すぎて査読に何十年かかるかわからないと、当初から眉をひそめる向きもあったが、そのくらい危険な領域に踏み込んだ論文だった。


「あんなもん、ただの数学だよ。技術屋が製品化しなきゃ、ただの変態数学者の手慰みにすぎなかった。ノーベル賞をもらったって? 俺らザイオンのおかげだろ、感謝してほしいね」


 だれもが認める天才を腐すという行為は、自分を大きく見せたいからという浅薄な理由が多いが、アキの場合は少しく「個人的理由」をはらむ。


「博士のおかげで、ザイオンがあるんじゃねーのか?」


「……タマゴとニワトリだ、意味ねえよ」


 相補的な関係だとしても、状況からいえば負け犬の遠吠えとしか思われない。

 じっさい特筆すべきは、四部構成で成り立つそのうち「ミラー」部分に注目し、個人認証に応用できるかもしれない、と気づいた一部の技術者たちの活躍だった。


 彼らが利用したのは、鏡面を構成する光学的相互作用を「環」という演算事象に解体し、解体するまえの個人を特定する遺伝的自由度を組み立て直したものを再対比することで、きわめて再現性の高い認証を促進しうる数学的装置の可能性、という部分だ。

 正直わけのわからないその発想を応用する技術者の一部として、アキも働いていたわけだが……。


 ふいに白ヒゲがアキに視線を向け、


「ザイオンにもどる気か、アキよ」


「あいつらが土下座して頼んでくりゃな」


「ははは、もどる気はねえってよ、白ヒゲ」


 代わりに応えるヤマさん。

 年かさのホームレスたちの会話を聞き流しながら、アキは背中を向けたままキーボードをたたき、作業を終えた。


 ようなザイオンの研究開発に比べれば、こんなプログラムはだ。

 再起動をかけた端末の稼働を確認してから、下っ端に渡してやる。

 臭い息を吐きながら欠けた歯を見せて笑い、去っていく薄汚れた男の名前も知らない。


「さてと、飯集めだ」


 横合いから白ヒゲの声。アキは軽く伸びをして、


「たまには呑みたいな、白ヒゲ」


「ぜいたく抜かすな。いまは冬に備えて節約する時期だ」


「だからさ、脂肪でもためようかなと」


「酒で脂肪がたまるかよ。……ヤマさん、西は頼むわ」


「あいよ。んじゃまあ、エサ集めてくっかね」


 ゆっくりと各方面に散る、底辺の男たち。

 ──ここが俺の、居場所だ。


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