「遠ざかる心、揺れる想い」

夜が更け、キャンパスの街灯が次々と点灯し、ほのかな光が鈴木太白の姿を照らしていた。彼は校庭の端に立ち、きっちりと折り畳まれたメモを手にしていた。その紙には見覚えのある優しい文字が記されていた:


「太白、今日は一緒に図書館で勉強するのは無理そう。ごめんね。」


これは、沖田玉妃が彼の机に残したメモだった。短い文章ではあったが、それが太白の心を一晩中ざわつかせた。彼は校庭を歩く学生たちの姿をぼんやりと眺めていた。耳に届くのは楽しげな笑い声だが、胸には言いようのない孤独感が広がっていた。


「最近の玉妃、確かに少し変だな……」彼は呟いた。脳裏には、玉妃が視線を逸らしたり、急いで立ち去ったりする様子が何度も浮かんでいた。


その頃、千葉夕嬌は街灯の下を通る並木道を歩いていた。彼女の目は遠くの校庭に立つ太白の姿を捉えていた。少し俯いたその姿は、どこか寂しげで、一人ぼっちの星のようだった。


夕嬌は少し躊躇したが、意を決して歩み寄った。「太白くん、こんなところで何してるの?」


「夕嬌?」太白は気づいて顔を上げ、微笑みを浮かべた。「いや、ただちょっと散歩してただけ。」


夕嬌は答えず、彼の隣に立ち、不遠のランニングトラックを見つめた。「なんだか、あまり元気がないように見える。」


太白は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに首を横に振った。「そんなことないさ。ただ、少し疲れてるだけだよ。」


「それって玉妃さんのこと?」夕嬌の声は控えめだったが、どこか確信を持っているようだった。


太白はしばらく黙ったまま視線を落とし、手の中のメモを無意識に指でなぞっていた。ようやく重い口を開いた。「最近の玉妃、ちょっと避けてるような気がするんだ。気のせいかもしれないけど、やっぱり気になる。俺、何か悪いことしたのかな……」


夕嬌は黙って彼の話を聞いていたが、心の中では言葉にならない感情が渦巻いていた。太白を慰めたいと思いながらも、どうすれば自分の気持ちが露わにならずに済むのか分からなかった。


「もしかしたら、ただ忙しいだけかもしれないよ。」夕嬌はできるだけ平静を装いながら答えた。「玉妃さんはそういう人じゃないし、きっと時間が経てば元通りになるよ。」


「時間か……」太白はその言葉を繰り返し、遠くの校舎の明かりを見つめた。「でも、このまま離れていっちゃうんじゃないかって怖いんだ。」


夕嬌は少し間を置いてからぽつりと言った。「もし本当に彼女が距離を置きたいと思ったら、太白くんはどうするの?」


太白は驚いたように彼女を見つめた。「どうしてそんなことを聞くんだ?」


「別に……ただの思いつき。」夕嬌は笑ってごまかそうとした。「でも、何事も無理に求めるのは良くないと思う。大事なのは、後悔しないことじゃないかな。」


太白はその言葉に考え込むように頷いたが、それ以上何も言わなかった。二人は路灯の下で並んで立ち、長く伸びた影が互いに交わることなく地面に落ちていた。


夜が深まるにつれ、キャンパスの喧騒は徐々に静まり返っていった。自宅に戻った鈴木太白は、書斎の机に向かって一人座り、窓から差し込むかすかな月明かりを感じていた。彼はスマートフォンを手に取り、画面を点けた。そこには玉妃のアイコンが映し出されていた。


太白は躊躇いながら、二人のチャット画面を開いた。最近の会話を遡ると、メッセージのほとんどは自分が送ったもので、玉妃からの返事はどれも短く、どこか距離感を感じさせるものばかりだった。彼は何か答えを探すように画面をじっと見つめた。


「玉妃、最近何か隠してることがある?もしそうなら聞かせてほしい。」


そう書きかけたが、これは直接的すぎると感じ、消して書き直した。


「玉妃、今日の夕焼けがすごく綺麗だったよ。明日もいい日になりますように。」


彼はそのメッセージを送信し、「送信済み」の表示をじっと見つめた。時間が経つにつれ、「既読」のマークは現れなかった。


太白はスマホを机の上に置き、立ち上がって窓辺に向かった。カーテンを開けると、月光が彼の顔を静かに照らした。その視線は窓の外へ向かっていたが、どこにも焦点は合っていなかった。彼は気持ちを落ち着けようとし、再び机に戻って物理の問題集を開いた。しかし、ペン先は空白のページの上を彷徨い、何一つ書き進めることができなかった。


「最近の玉妃……」彼は呟きながら、無意識にノートの端を指でなぞっていた。そのとき、ドアの外から控えめなノックの音が聞こえてきた。


太白は立ち上がり、ドアを開けた。そこには千葉夕嬌が立っており、一冊の本を手にしていた。


「太白くん、こんな遅くまで勉強してるの?」夕嬌は静かに尋ね、その目にはどこか優しい気遣いが宿っていた。


「まあ、そんなところかな。」太白は少し疲れた声で答えた。「どうしたの?」


夕嬌は手に持っていた本を差し出した。「今日、図書館で借りたの。物理学の本なんだけど、最近研究してるって聞いてたから、役に立つかもしれないと思って。」


太白は本を受け取り、表紙を見下ろした。それはかなり専門的な物理学の書籍だった。彼は思わず微笑み、「ありがとう。こんなことまで覚えててくれるなんて、驚いたよ。」


「もちろん覚えてるよ。」夕嬌の目が一瞬揺れたように見えたが、すぐに言葉を続けた。「でも、無理はしないでね。ちゃんと休まなきゃ。」


太白は頷き、彼女が去っていく背中を見送った。その姿を見ながら、心の中に複雑な感情が渦巻いていた。彼は夕嬌の気遣いに感謝していたが、同時にどこか申し訳ない気持ちも抱いていた。


机に戻り、夕嬌が持ってきてくれた本を開いた。その中の最初のページに、小さなメモが挟まれているのに気づいた。そこにはこう書かれていた:


「これが、答えを見つける助けになりますように。」


太白はその言葉をしばらく見つめた。そのメモの文字を目にしながらも、彼の心はなぜか玉妃のことばかりを考えていた。


その頃、沖田玉妃は自室のベッドに横たわり、スマートフォンを手にしていた。画面が何度も明るくなり、消えていく。太白からのメッセージがそこにあった。彼女の指は画面の上に止まり、文字を打ち込もうとしたが、結局何も書けなかった。


彼女は長いため息をつき、スマホを伏せてベッドサイドに置いた。目を閉じた瞬間、瞼の奥がじんわりと熱くなった。

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