第3話 幼い弟



「ふぅ~」


 かなり内容の濃い領経営の本を読み終えて息を吐いた。

 集中していたのか、いつの間にか辺りは暗くなっていた。


(家にこんな本があったのか……1度目の人生で読んでおけばよかったな……)


 ふと、隣を見ると「スースー」という規則的な寝息が聞こえて隣を見ると弟のアルフィーが眠っていた。


「寝ていたのか……」


 よく考えれば、幼い子がこんな時間まで本をおとなしく読めるわけもない。

 俺は、すやすやと気持ちよさそうに眠るアルフィーに声をかけた。


「起きろ」


「ん……う、うん……」



 全く起きる様子がないので仕方なく、彼の肩を揺さぶった。

 このままでは、書庫の鍵を閉められない。本は貴重品だ。だから書庫には必ず鍵をかける必要があるのだ。


「起きろ」


「ん……あっ……レオナルド様?」


 ようやく弟が眠そうな目を擦りながら目を開けてこちらを見た。


「ようやく起きたか……何を読んでいたのだ?」


 弟の読んでいた本を覗き込んだ。確か、自分がこのくらいの時には冒険の話ばかり読んでいたように思う。

 本を見ると地図の書かれた本だった。


(地図?? こんな幼い子がもう地図を見て学びを深めるのか?)


 随分と大人びた本を読んでいて驚いてしまった。


「ふふふ。僕……字が読めないから、でもこの本は絵がたくさんあった!!」


 弟は嬉しそうに笑った。


「……は?」


 それを聞いて思わず固まってしまった。どうやら、勉学のために地図の本を読んでいたわけではないらしい。それどころかもっと事態は深刻だった。


(8歳の貴族の子が字が読めないだと!? ちょっと待て……アルフィーが領ではなく王都に来たということは、学園に通うのだろう??)


 平民の子供なら読めなくても仕方がないかもしれない。だが弟の母の家は一応、男爵の家の出身だったはずだ。

 貴族の子供は6歳から読み書きを始め、7歳には読み書きと計算は習得しているのが一般的だ。文字を教えるのは家庭によって、親だったり、家庭教師だったり、執事だったりする。

  父も彼に教育をさせるようにと、それなりの金額を渡していたのを自分で父の後を引き継いだ時に帳簿を見て知った。


(父から教育費を支払われていたはずなのに……文字の読み書きでさえ習わなかったのか?)


 そして、弟がこの屋敷に来た時の様子を思い出した。

 継母は着飾っていたのに、彼にはどこかで探してきたかのような身体に合っていない服装だった。それに弟はこの年の子供にしては痩せこけていた。

 

 きっと継母は自分を飾り立てることばかりに気を取られ、自身の息子の衣食さえ充分に与えていなかったのだということが予想できた。


(あの女……教育費を使い込んでいたのか……)


 俺は弟の肩を掴んだ。


「ど、どうしたの? レオナルド様」


「字が読めないのなら、字も書けないのか?」


「う、うん」


「数字は読めるのか? 計算はできるのか?」


「数字は少しだけ読める。計算はできない」


(少しだけ読めるって、結局読めるのか、読めないのか? まぁ、読めないのだろうな)


 そう思って俺はこれまでの弟の言動を思い出した。


「もしかして、お前が俺に敬語を使わないのは、使わないのではなく、使えないのか?」


「敬語??」


 弟は不思議そうな顔でポカンと俺の顔を見ていた。その様子に思わずこめかみを押さえた。


「なんだ……俺をバカにしていたわけではないのか?」


「バカにするだなんて!! あ、もしかしてこのしゃべり方のせいでイヤな思いをさせてたの?」


 そして俺は御者の言っていた言葉の意味の真意を知る。


 幼いんじゃない――教育を受けていないのだ……


 俺は立ち上がってアルフィーを見ながら言った。


「ついて来い」


「ふぇ? あ、うん!」


 彼は寝起きで驚いたということもあり、あまり口が動いていなかった。

 だが俺は気にせず弟の手を引いて父の執務室に向かった。






+++



 ――コンコンコン。


「レオナルドです」


「入れ」


 俺は弟を連れて父の執務室に入った。


「どうした?」


 弟と手を繋いでいる俺を見て父はとても驚いているようだった。丁度、父と一緒に秘書のオリヴァーも同席していた。


 俺は父の様子は気にせずに急いで執務机の前に向かい、弟の手を離すと、ドンと父の執務机に手をついた。


「父上。早急にアルフィーに優秀な家庭教師を手配して下さい」


 俺の提案に父は怪訝な顔をした。


「家庭教師か……もうすぐ学園が始まる。学問は学園で学べばよい。それに屋敷に来たばかりなのだ。家庭教師について学ぶよりも屋敷や王都に馴染む方がいいだろう」


 父は小さく息を吐いた。

 父の言い分もわからなくもない、弟はまだこの屋敷に来たばかりなのだ。環境に慣れてから勉強を始めさせたいという思いも理解できる。


 だが……。


 俺は大げさに父の顔を覗き込んだ。


「そんな悠長なことを言ってる場合ではありません!! ……アルフィーは字も読めなければ、書けない。簡単な計算や数字を書くことさえできません。それに敬語も使えない。このままでは学園に行っただけで無礼者だという烙印を押されてしまう」


「何?」


 すると父がギロリと弟を睨んだ。弟はそんな父を見て怯えたようだった。


「ご、ごめん、ごめんなさい……伯爵様……」


 父は子供相手だというのに威圧的な声を上げた。


「どういうことだ? お前は自己研鑽を放棄したのか?」


 父は『自分は教育資金を提供している』と思っている。

 まさか、その資金が別の目的に使われたことなど考えられなかったようで幼い彼を責めた。


「じこけんさん? ほうき? お掃除のこと??」


 弟にとって父の言葉はまるでおとぎ話に出てくる魔法の呪文のように聞こえたのだろう。なんのことだかわからないという顔で困惑している。

 俺はその様子を見て思わず頭を抱えた。


(こんな幼い子供相手に、何を言っているんだ? この人は……)


 俺は仕方なく背中で弟を隠しながら父の前に立った。


「父上だってお分かりでしょ? 責めるべきは幼い子ではなく、あなたの女性の方なのでは?」


 昔の自分は父に向かって、とてもじゃないがこんな生意気な口はきけなかった。

 だが俺はこれでも元領主だ。失敗はしたが、領主経験者だ。口もそれなりに回るようになった。それが証拠に父は急に力なく項垂れた。


「そうか……そうだな……」


(ふ~ん。反論はしないのか……あの女の浪費癖をわかってはいるのだな)


 反論されるかと思ったが意外にも父はあっさりとその事実を認めた。父はチラリと弟を見ると、大きな溜息をついた。

 そして俺の方を見た。


「まさか……そこまで教育をされていなかったとは……。新学期になったらすぐに学園に入学させようかと思ったのが……」


「入学……」


 俺はそして以前の様子を思い出した。


 弟は学園に入りいつも落ちこぼれていた。

 だから彼は元々、頭が悪いのかと思っていた。

 俺もできる方ではなかったが、落ちこぼれの弟を恥ずかしく思い、虐めを加速させた記憶がある。


(なるほど、字も書けず、字も読めないところからのスタートだったのか)


 それならば落ちこぼれるのは当然だ。

 8歳と言えば、周りの同級生は皆、文字は当たり前に読めるし書ける。

 さらには簡単な計算もできる。教師もまさか読み書きができない子が入学するとは思っていないだろう。

 そんな状況で皆が学園に入学する。


 つまり弟は学園に入り、読み書きという基本的なことを習得しながら日々の勉強をしなければならかったのだ。

 そして彼はずっと差が埋まらないまま苦しんでいたのだ。

 それでも中学になると中級クラスに入れていたので、中学でようやく追いついたのだろう。


(はぁ、こんな状況では、落ちこぼれるのも無理はないな……)


 俺は静かに後ろで怯える弟を見た。2歳差なので、身長はそんなに変わらない。


「アルフィー。今から学園の入学まで2ヵ月程ある。2ヵ月で基本をしっかりと学び学園に行くか? それとも1年はゆっくりと自宅で学び1年後に学園に行くか? お前の努力次第だ。好きな方を選べ」


 今まで教育を受けていなかった弟には同情はするが、慣れ合うつもりはない。

 それに基本的には学園には学年の途中で入ることはできない。

 やめることはできるが、入ることはできない。だから厳しい言い方かもしれないが、これは彼自身が決めることだ。


 すると弟は俺の顔をじっと見つめた。


「レオナルド様は学園に行くの?」


「ああ」


 『当たり前だろ?』という意味を込めて素っ気なく答えた。するとどういうわけか弟は父に真剣な瞳を向けた。


「僕。これから2ヵ月一生懸命頑張る!! そしてレオナルド様と一緒に学園に行くよ!!」


 力強く言い切った弟の姿を見て父は小さく笑った。


 弟、アルフィーの瞳はとても力強い。

 俺にとっては、彼のそんな力強く輝く瞳は眩しくて近寄りがたく思えてしまう。しかし、普通はこの真っすぐさに触れると応援したくなるのだろう。


「そうか!! ではすぐに最高の教師を用意しよう」


「うん! 頑張る!! ありがとう! 伯爵様」


 父は秘書のオリヴァーに『すぐ教師を手配するように』と叫び、弟は俺の顔を見て「頑張ります」と鼻息を荒くしている。

 部屋を出ようとすると、父が小さな声で言った。


「レオナルド……感謝する」


 あの父がお礼を言った……

 俺にとっては衝撃的な事実だった。


 俺は何も言わずに部屋を出た。

 ここで何も言わないこと……それが俺にとってある種の母を裏切ったこの男への復讐だったのかもしれない。




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