少し苦手だった会社の同期に酒の勢いで抱かれた話

 仕事。仕事。仕事。仕事。仕事。仕事。仕事。

 東京は待ってくれない。

 仕事。仕事。仕事。仕事。仕事。仕事。仕事。

 東京は私を置いていく。

 仕事。仕事。仕事。仕事。仕事。仕事。仕事。

 東京は私のことなど気にも留めない。

 仕事。仕事。仕事。仕事。仕事。仕事。仕事。

 まるで大きな水槽の中にいるみたいだ。息もできずにひたすら泳いで行き止まり、息を吸おうと藻掻いても天井があって、頭を押さえつけられる。

 仕事。仕事。仕事。仕事。仕事。仕事。仕事。

 もう私は、息の仕方を忘れてしまった。


§


 「お先に失礼します」


 私────上野アヤカが上京して三年経った。現在二十五歳、恋人もおらず、毎日毎日仕事に勤しんでいる。家から仕事場までを往復し、休みは寝て潰す。泣く暇も無く、こんなはずじゃなかったと考える間も無く、強制的にこの環境に慣れさせられた。

 東京がキラキラして見えたのは外から見ていたからだ。中にいると、ここがどれだけモノクロなのか分かる。ビルの明かりも、ヘッドライトの往来も、早足の人々も、まるでミニチュアみたいに滑稽だ。そして私もその一員だった。

 今日も仕事を終えて足早に帰ろうとしたその時、私に声がかかる。足を止めた。


 「待ってよ、上野さん」


 声を掛けてきたのは同期の神田カヲリだった。同期の中で成績トップの有望株で、有名私立大学を卒業していて、しかも愛嬌のある美人と天が三物を与えている。何かこう、別に他意は無いけれど、酷い性癖でもあったらいいのにと思う。


 「この後、同期みんなで飲みに行こうって話になってるんだ。明日休みだし、良かったら来ない?」


 神田からそう尋ねられて、私は怪訝な顔をする。


 「……そんな話あった?」

 「今さっき盛り上がったの! 他の部署の同期も誘ってるから、どう?」


 神田は同期たちとの繋がりも大事にしているようで、よくこうやって飲み会を企画する。本当に良くできた人間だ。よくそんな余裕あるな、と思う。


 「今日は……ちょっと疲れたからパスかな」


 私がそう断ると、神田はその大きな目を潤ませ、いかにも残念です、見たいな顔で私を見つめてきた。


 「ええー!? 上野さんがいたら絶対楽しいのに!」

 「私がいてもそんな変わらないでしょ。みんなあんた目当てで来るのよ」

 「そんなことないよ! わたしは上野さんが来てくれたら嬉しいな」


 神田は「ダメ?」と猫なで声を出す。清楚に整ったパーツから放たれる絶妙な愛嬌と守ってあげたい感がぐわっと襲ってくる。私はその顔に弱い。というか、勝てる人間はいない。私はため息を吐いた。


 「……美味しいとこなら」


 雰囲気を一変させて、神田は「うん!」と明るく頷いた。


 「最近いいとこ見つけたの! しかもリーズナブルなんだぁ、一緒に行こ!」


 神田はそう言ってすぐさま自分のデスクに駆け寄り、荷物をまとめて私の元まで戻って来た。


 「他の人たちは待たなくていいの?」


 私がそう尋ねると神田は首を横に振った。


 「仕事が終わってから各々合流って感じ! ライングループに場所送ったから大丈夫!」


 神田はスキップでもするみたいな軽い足取りで私を先導する。どうしてこんな元気でいられるんだろう。本当に不思議だ。


§


 「ちょっと……神田。ねぇ。ねぇってば」

 「うひひひ、上野さん、手あったかいねぇ」


 飲み始めて三時間ほど経った。同期がほぼ全員集まった和やかな飲み会で、神田カヲリはらしくなくべろべろに酔っぱらっている。


 「指も細くてすべすべで良いなぁ。私なんて小っちゃいから羨ましいよぉ」


 神田は滅多に酔わない。酔った姿を見せない、という表現の方が正しいかもしれない。自分が酒を飲むより、その場を回すことに尽力している。来ている全員のペースが分かっていて、追加で酒を頼んだり料理を注文したり、あるいは積極的に話を振ったり、聞き役に徹したり、あっという間に空気を裏から掌握してしまう女だったはずだ。


 「あー、上野さん……良い匂い……」


 私の腕に抱き着いてしなだれかかっているのが、その神田だ。周囲の同期たちがニヤニヤと私を見ている。


 「どんだけ飲んだのよ……」


 頭を抱えた。神田の前にはハイボールのグラスが五つほどある。下げられた分も含めればその倍以上だ。おかしいくらいにがぶ飲みしていた。そりゃこうなる。


 「はぁ……帰りたい」


 思わずそう漏らすと、隣に座っていた同期が「じゃあカヲちゃん送ってあげて?」と言ってきた。私は顔を顰める。


 「マジ?」

 「だってこのまま寝かせておくわけにもいかないでしょ? それにアヤカちゃんから離れそうにないし」


 腕にしがみつきながら言葉にならないうめき声をあげている神田を見て、私はしぶしぶ頷いた。数人の男の同期が何とも言えない顔をしていて、お前らにゃやらんぞ、と誰目線だか分からないことを思った。

 私は神田の頬をぺしぺし叩く。


 「ほら、起きて。神田」

 「ほえー」

 「ほえーじゃなくて。帰るよ」

 「えぇー、まだ飲み足りなぁい」

 「こんなに飲んで? いい加減にしなさいよ」

 「帰りたくなぁい」

 「寝かかってるのにわがまま言わないの。みんなにも迷惑かけちゃうでしょ」


 そう言われた神田は目を開けて、やっとよろよろと立ち上がった。


 「迷惑は……かけちゃだめだ。うん……」

 「でしょ? ほら行くよ」


 私が席を立つと、神田は「ん」と私に手を差し出してきた。私はその意図が分からず、ただその手を見つめる。


 「何?」

 「立たせて」


 私はため息をぐっとこらえた。酔っぱらい相手に本気になっちゃダメだ。


 「……赤ちゃんじゃないんだから」

 「赤ちゃんだからぁ」


 もうやけくそになって、手を引っ張って歩かせる。私も酔っぱらっていたかもしれない。普段の私ならこんなことしなかった。


§


 手を握ったまま店を出て、すぐタクシーを捕まえる。神田をタクシーに押し込んで、私も乗り込んだ。


 「神田って家どこだっけ?」

 「千代田区……」

 「それだけじゃ分かんないから」

 「神保町駅の近く……です……」


 神田だけに神田神保町ってか。つまらん。


 「すいません運転手さん。とりあえず神保町駅までお願いします」


 タクシーが出発する。移動中、神田は「うーん……」と頭を振ったり「へへへへ」と笑ったり「あたまいたい……」と苦しんだり忙しかった。そんなこんなで神保町駅に到着し、タクシー代を払って神田を引っ張り出す。


 「ほら、駅着いたよ。家どこ?」

 「ここ、うちから一番遠い出口だよぉ……」

 「寝てたやつが文句言うなよ?」


 神田を半分抱えながら道を進む。神田の身体の軽さに驚いた。腰を触ったら「ひゃ」という甘い声が聞こえたので慌てて目を逸らす。神保町って本とカレーのイメージしか無かったけどこんなに車多いんだ。

 しばらく歩いて、一個路地に入ったところにマンションに着く。パチンコ屋と日本酒の居酒屋に挟まれている少し古めかしい、という表現はオブラートに包んでいる。路上喫煙禁止のくせにお酒を飲んだ人たちが煙草を吸っていた。私は息を止めてマンションへ急ぐ。


 「ほら、鍵出して」

 「カバンの中ぁ……」

 「ああ、もう」


 神田のカバンを漁って鍵を取り出し、エレベーターに乗って四階に行き、神田の部屋の扉を開ける。典型的なワンルームだ。脱ぎ散らかした服に、いくつかのゴミ袋に、読みかけの本と重なった空き缶と、あまり片付いてはいない。


 「……ほら、神田。お帰り」

 「ううん……ただいま……」


 神田をベッドに寝かせ、何か飲ませようと冷蔵庫を開ける。食料は何も無く、ただ大量の炭酸水が陳列されていた。


 「業者かよ……」


 ペットボトルの蓋を開け、ベッドまで持っていく。


 「ほら、水飲んで」

 「頭痛い……」

 「だから飲むんだよ。はい」


 神田は億劫そうに身体を起こし、炭酸水をくぴくぴ飲む。ペットボトルの半分ほどになると、「ありがとう」と焦点の合った目で私を見た。


 「ちょっと意識がはっきりしてきたかも……」

 「そう。じゃ私帰るわ」

 「え!?」


 私が自分のカバンを持って玄関に向かおうとすると、神田は服の裾を掴んできた。


 「か、帰っちゃうの?」

 「もう一人で大丈夫そうじゃん」

 「終電ある……?」

 「タクシーでも帰れるし」

 「と、遠くない? お金かかっちゃう」

 「私んち高田馬場だから。そんな遠くない」


 神田は「ええー」と顔をくしゃっとさせ、抱き着いてくる。


 「うわっ」

 「やだぁ。帰らないでよぉ」


 駄々っ子みたいに頭をぐりぐり押し付けてくる神田に、私はついにため息を抑えなかった。あやすように背中を撫でる。


 「まだ酔ってるの?」

 「飲み直そうよぉ」

 「私そんなに強くないから。これ以上飲んだらほんとに酔っぱらっちゃう」

 「泊まってっていいからぁ!」


 またあの目で見てきた。私は神田と目線を合わせる。


 「何? 今日おかしいよ、あんた。いつもはこんなに酔わないじゃん。どうした?」


 神田はあからさまに「ぎくり」とした顔をした。ぎ、ぎ、ぎ、と壊れかけの機械みたいな動きで顔を逸らす。


 「え、ど、どうもしないけど……?」

 「ふーん、じゃあ帰っていいね?」

 「なんでぇ!?」


 神田は私に縋り付いてきた。うるうるした目で私を見上げてくる。私はなんとかその目に掴まらない様に身をよじった。


 「なんでって……わざわざここで飲む理由が無いでしょ」

 「理由が無きゃ飲んじゃだめなの? 上野さん、わたしのこときらい?」

 「嫌いじゃないけど好きでもないよ」

 「ひどいー! わたしは上野さんのこと大好きなのに!」

 「あんたはみんなが大好きでしょ」


 思ったより棘がある言い方をしてしまって、言った瞬間ハッとする。神田の反応を伺うと────何も変わっていない。ただ「そうだね」と薄く笑っていた。


 「みんなが大好きだけど、上野さんも大好きだよ。今日は私に付き合ってほしいなぁ」


 少しトーンを落とした、甘えた声だった。ここまで頼まれてそれでも断るなんて、なんだかかわいそうに思えてしまう。私は諦めて腰を下ろした。


 「分かった、お酒あるの?」


 神田はパァッ! という効果音が聞こえてきそうなほど表情を明るくさせた。


 「買ってくる! うわ────」


 急にベッドから降りようとしたせいで、神田は態勢を崩した。私が慌てて彼女を支える。


 「大丈夫?」

 「あ、ありがと……」


 結局私もコンビニに向かうことになった。


§


 「まじで! もうほんっと東京無理かも!」


 酒を調達して、神田の家に戻って、三十分経った。今度は私が酔っぱらっていた。酒のせいで熱くなったから上着を脱ぎ捨て、ワイシャツ一枚になっている。対して神田は悪酔いしない様にアルコール度数の低い酒しか飲んでいなかった。ずるい。


 「毎日毎日仕事でさぁ、疲れてなんかする気も起きないし、休みの日は寝て飲んで終わりでさぁ! やってらんない……私仕事するために生きてるわけじゃないもん」

 「だって私たちまだ四年目だもんねぇ」

 「分かってるけどさぁ……」


 私はいじけて足の指を弄る。


 「なんか……思ってたのと違う」

 「思ってたの?」


 神田が首を傾げる。すっかり酔いの醒めた顔だ。ムカつく。


 「もっと東京のキャリアウーマンってか……もうこの言い方も古いか。とにかくそういう人たちは、もっとキラキラして日々が充実してるもんだと思ってた」

 「上野さんって就職で上京してきたんだっけ」

 「うん。名古屋からね。地元の国立から」

 「あー! メーダイ? 東京だと明治大学だけどそっちじゃ違うんだよね!」

 「そうそう、ややこしいのなんのって。神田は大学から?」

 「ううん、東京育ち」

 「うげ、シティーガールだ」

 「なんで『うげ』なのぉ? ふふ……」


 私ははぁー、と大きく息を吐いて、その場に寝ころんだ。気持ちよく酔っている感じだ。


 「東京はせわしなくてさ、別に名古屋がのどかだったわけじゃないけど……なんか生きるスピードが速い。私には向いてないかも。もっと自分のペースで生きたい」

 「……上野さん、そんな風に思ってたんだ。知らなかったな」

 「へ?」


 神田がポツリとそう言うので、私は首をぐりんとさせて神田を見上げた。「え? あ、いや。気分悪くさせちゃったらあれなんだけど……」と神田は続ける。


 「上野さんってなんだか、自分の居場所を自分で作ってる感じで。それこそ自分のペースで人と関わって、会社と関わってる。全然一人ぼっちとかじゃなくて、同期の飲み会には来てくれるし、ちゃんと喋ってくれるし」


 思いの外好印象だったことに、私は自嘲する。


 「孤高気取ってるって?」


 神田は手をぶんぶん振って「そんなことあるわけないよ!」と言った。


 「そうじゃなくて、自分を確立してるなぁって。私のイメージしてる東京の大人って感じがするよ。かっこいいよ。向いてないなんて言わないで」

 「……なんか私、慰められてる?」

 「そ、そんな恐れ多い」

 「そう?」


 私はクスクス笑いながら起き上がって缶チューハイに口を付けた。


 「でもありがと。神田にそう言われるとなんか自信付くわ」

 「ほ、ほんとに?」

 「ほんとほんと。ありがとね」


 手を伸ばして神田の頭を撫でると、顔を赤くして俯かれた。酔いが再び回ったのだろうか。


 「でも一人ぼっちだよ。東京に友達いないし、恋人もいないし。いれば良かったんだけどね。はは。ただ金稼いでご飯食べて寝て起きるだけ」

 「……それはちょっと、寂しいかも」

 「寂しいよ。こうやって緩やかに死んでいくんだろうなぁって。東京はキラキラしてるけど、キラキラはしゃぐ地獄だよ」

 「…………」


 神田はただ私を見つめている。私はそこで失言を自覚した。


 「あ、ごめん。なんか重いこと言ってた。えっとごめん、ちょっと酔って────」


 神田の手が出てきたと思うと、そのまま抱き寄せられる。訳も分からず、ただただ良い匂いが鼻をくすぐった。


 「私なら、上野さんを寂しくさせないよ」


 やけに真剣な声音だった。頭の中でクエスチョンマークが躍る。


 「へ? あ、うん。そりゃどーも……」

 「上野さんのこと、好きだから」

 「さ、さっきも聞いたけど。ありがとう……?」

 「上野さんは私のこと、好き?」


 神田は私をじっと見つめる。大きな瞳に私が映っていた。吸い込まれそうだった。


 「えっと、さっきも言ったけど、嫌いじゃないけど好きでも────」


 突然、神田が接近してくる。まるでスローモーションのように彼女の整った顔が迫ってきて、ついにゼロ距離になった。呼吸が止まり、胸が苦しくなる。けれど、なぜか満たされたような心地良さが現れる。


 「んっ……」


 神田の吐息とともに声が漏れた。何をされたかやっと理解する。もういい大人なのに心臓が跳ねた。


 「私、上野さんが好きだよ」


 全く同じセリフを、今度は耳元で囁いてきた。たったそれだけなのにゾクゾクする。甘い毒が空気を伝播して私を犯しているようだ。


 「上野さんは私のこと好きでも嫌いでもないんだよね」

 「そ、そうだけど……」

 「じゃあ、私のこと好きになれる余地があるんだよね」


 湿気った耳に、息が吹きかかる。ダメだ。次は耳にキスされた。ダメだ。舌の柔らかさと湿っぽさが敏感に伝わる。腰がぶるりと震えた。


 「ちょっ、待って、やめて。変な感じするから……っ」

 「だめだよ。自分を好きな人の前で、いつもは見せないような顔見せちゃ。自分の部屋じゃないのに無防備な姿しちゃ。『恋人がいればいいのに』なんて言っちゃ」


 神田は私の目を覗き込んだ。


 「抱きたくなるよ?」


 キスをしてきた。容赦のないキスだ。リップ音が部屋に響く。私は抵抗できなかった。酒のせいか、神田から漂うこの甘い匂いのせいか分からない。神田の唇は柔らかく、水っぽいのに弾力があった。時折唇から漏れ出る色っぽい声が聞こえる度に心が溶ける。私は幾度も唇を許した。


 「やだ、待って。神田。キス、やめて」


 このまま身を委ねてしまうギリギリのところで理性を取り戻し、神田を押しのける。しかし神田はそれをものともせず、逆に押し倒してきた。


 「なんで? 上野さんってばこんなに気持ちよさそうな顔してるのに」


 また耳元でささやいてくる。


 「ウブな反応。上野さんかわいいね。もしかして初めてなのかな」

 「……そ、そんなワケないでしょ」

 「へぇー?」


 目を逸らした私に、からかうように私を伺う神田。


 「じゃあ、今までの人生でいっちばん良い夜にしたげる、ね?」


 そう言いながらまたキスしてきた。肩を撫でられ、背中を摩られ、力が抜けていく。唇を通して彼女に力が吸い取られているみたいだ。唇を食まれ、ちょっと吸われ、足りないものを補い合うみたいに重ね合わせる。何度も何度も。漠然とした幸福感だけがそこに残った。


 「気持ちいい? ねぇ、上野さん。キス気持ちいい?」

 「……るさい」

 「素直じゃないなぁ」


 神田は私の唇を舌で舐めた。私がびっくりして口を開けると、そのまま舌を入れてきた。


 「んぅ……ふ……」


 私の耳を塞いでくる。神田の舌が私のを捕まえてくすぐってくる。歯をなぞってくる。音が口内からダイレクトに脳に響いてくる。なんだこれ。気持ちいい。気持ちいい。


 「はぷ……かんだぁ……」


 私のものじゃないみたいな蕩け切った声が出る。今まで聞いたことのないような神田の息遣いが聞こえた。息が続かなくなって、このまま意識を手放しそうになって、ああ、もう、それでいいや。


 「かわいいね。上野さん。かわいいね、かわいい。好きよ」


 ただ神田を受け入れているだけなのに褒められて、悪い気がしない。荒い息を整える。神田の甘い囁きを尻目に、大きく息を吐いて、吸った。何度も深呼吸する。唇の温かい痺れを確かめるように。息の仕方を確かめるように。


 「どうして……?」


 吐息だけの声でそう聞いてみた。神田は艶やかに笑って、私の首に腕を回した。


 「一晩じゅうかけて、教えてあげる」


 その晩、私は神田に抱かれた。


§


 次の日ベッドで目が覚める。肌寒いと思ったらすっぽんぽんだった。


 「あちゃー……」


 昨日の夜のことは強烈に覚えている。私は熱くなった顔を誤魔化すように頭を振った。腕枕されていることに気付いた。神田の腕だった。熱烈に抱いた腕の中に、私はきれいに収まっている。


 「……酷い性癖、あったかもな……」


 まさか私が相手になるなんて。私は神田の寝顔を見つめる。気持ちよさそうに寝やがって。鼻を塞いでみる。ぴぎゅ、と変な音がして笑ってしまった。

 私だってもう大人だし。こういうのだってあるだろうなと思っていたし。そんな純情乙女じゃないし。こういうのをさらっと流せて、何事も無かったかのようにふるまうのが大人の女だろうし。


 「よいしょっ、痛てて……」


 私はじんじん響く腰を持ち上げながらベッドから這い出る。脱ぎ散らかした服を着て、何かご飯でも作ってやるか、と神田の冷蔵庫を開ける。そういえば炭酸水しか入ってなかった。一本拝借することにする。強炭酸が寝起きの頭を叩き起こした。


 「アヤカちゃん……?」


 ぽやっとした声が聞こえる。寝ぼけ眼を擦りながら、神田が私を見ていた。


 「おはよ、神田」


 情事が盛り上がった時名前で呼び合ったのはもちろん覚えていたが、遺恨を残さないことが大事だ。しかし神田は不満そうな顔をする。


 「名前で呼んでよ。カヲリって、昨日は呼んでくれてたじゃない」

 「……一回ヤッたからって彼女面しないで」

 「へぇー? あんなに好きって言ってくれたのに?」


 また顔が熱くなるのを感じて、私はそっぽを向く。神田はクスクス笑った。


 「あ、あれはワンナイトラブだから。もうしないから。ちょっと……酔ってたし。人肌恋しかったから。流されただけ」


 私が早口でまくし立ててる間に、神田はベッドから起き上がって抱き着いてくる。裸のままで。流石にドキドキする。


 「ふ、服着なさいよ」

 「アヤカちゃん。私と付き合ってよ」


 私の言葉を無視して、囁いてくる。ついでに私が持っているペットボトルを取って水を飲んだ。


 「間接キス、しちゃったね」

 「……今更何を」

 「だね。でも、もうアヤカちゃんとしてないことはわたしと彼女彼女になってデートするくらいだよ」


 彼女彼女て。私はその言葉にムッとした。


 「順序おかしいでしょ、いきなりなんてさ。ちゃんとした手順を踏んで、その上で恋人同士の愛を確かめ合う一手段がセックスなんじゃないの」

 「アヤカちゃん純情だね」

 「うるさい」

 「ごめんごめん、からかいすぎちゃったね。不機嫌なアヤカちゃんもかわいいよ」


 私が膨らませた頬を神田がつついてくる。


 「やめて。子供扱いしないで」

 「してないよ。むしろ対等な大人として扱ってるよ。対等な大人として、付き合ってって言ってるの」


 真剣な声音で言ってくる神田に、私は面食らう。彼女の腕の中から抜け出して、床に落ちている服を突きつけた。


 「と、とりあえず服着て。朝ご飯作るから、食べながら話聞く」


§


 ベーコンを焼いて、その上に卵を落として目玉焼きを作って、コショウを振って、とろけるチーズを乗っけて、しばらく放置したやつをトーストの上に乗せる。これを二枚、通称『ジブリ焼き』だ。


 「お、美味しい!」

 「どうも。誰でもできるよ?」


 目を輝かせて夢中で食べる神田を見て、いつもの神田だ、と思った。昨日の色っぽい、私を手玉に取る神田は何度思い出しても現実じゃないみたいだ。


 「普段コンビニばっかだったから、なんかあったかいだけで感動するよ!」

 「あのゴミ袋はそれか……身体壊すよ?」


 私が呆れながら言うと、「料理下手くそだからさ……」と神田は照れくさそうに笑った。キッチンが全く使われている様子が無いことからして、筋金入りらしい。


 「はぁー、美味しかった! ごちそうさまでした」


 丁寧に手を合わせて私を見てくる。


 「毎日食べたいな!」

 「はいはい。コーヒー淹れてくる」


 インスタントコーヒーを二つマグカップに入れて、一つを神田の前に置く。神田は「アヤカちゃんの淹れてくれたコーヒーだ」とこれまた嬉しそうに飲んだ。


 「インスタントだっつの」

 「アヤカちゃんがわたしのためにやってくれたのがポイントなのよ?」


 猫舌らしく、あちあち言いながら飲んでいるのは少し微笑ましかった。


 「それで、私と付き合ってくれないかな」


 コーヒーを飲んで落ち着きかけた頃にぶっこんで来るから吹き出しそうになった。私は咳払いをして神田と向かい合う。


 「……なに、その。神田は私が好きなの?」

 「好きだよ」

 「ど、どこが? って、聞いてもアレだけど────」

 「昨日言ったじゃん。自分を確立してるって。かっこいいと思う。仕事をきちんとこなして、自分の役割理解してて、空気も読めて、こうやって料理もできて、気も効いてて、しかも昨日は私のことちゃんと送り届けてくれた。優しいし、しっかりしてるから、好き。あと顔が好み。めちゃくちゃ好み。ぶっちゃけ顔から好きになった。切れ目なところとか、鼻筋も通ってて美人だし。黒くて綺麗な髪とか、あとスタイルもいいよね。パンツスーツがめっちゃ似合ってる。あとこないだ私が仕事でミスした時、颯爽と庇ってくれ────」

 「わ、分かった。分かった、もういい。ありがと」


 放って置いたら無限に湧いてきそうだ。私は赤くなった顔を覆った。


 「……昨日ね、チャンスだと思ったの」


 おずおずと神田が切り出した。


 「アヤカちゃんって同期の飲み会の時、席移動しないじゃん? 店に入った流れのまの席順じゃん? わたし、いつもアヤカちゃんと仕事終わるタイミング合わなくて席が近くなったことないんだよ」


 言われてみれば、と記憶を探る。確かに、昨日の飲み会で初めて席が隣同士になった気がする。少し神田に苦手意識があったから避けていたのかもしれない。


 「毎回『次アヤカちゃんと席が隣になったらアプローチしよう』って決めてたの。たまたま昨日一緒に行けて、そのまま席が隣になれて。気合入れるために飲みすぎてダウンして……もうダメだと思ったけどアヤカちゃんがホイホイ家に来てくれたから────」

 「おい?」

 「あ、ごめん」


 人をちょろい女呼ばわりしないでほしい。


 「……正直言ってね、悪くないなって思う。このまま神田と付き合うのも」


 神田は美人で、それこそ私なんかより気が利く人だ。一晩だったけれど話してみたら意外に良い人だったし、彼女と付き合えたら楽しいだろう。神田の顔が明るくなる。何か言おうとする口を「でも」と遮った。


 「これも正直に言うけど、神田をそういう目で見たことは一回も無いし、昨日は絶対に酒の勢いもあった。そんなに私のことを思ってくれる神田に対して、私が『悪くないな』程度で付き合うのは……嫌だ」


 私が神田の様子を伺うと、彼女は嬉しそうに笑った。


 「そんなに真剣に考えてくれるなんて嬉しい」

 「そりゃ、好きって言われて嫌な気になるわけないし……」


 神田は微笑んで席から立ち上がり、私に近寄ってきた。私は拒む理由も無くその唇を受け入れる。


 「あと何回エッチしたら、わたしのこと好きになってくれる?」

 「言い方やめろ」

 「あたっ」


 チョップしたら大袈裟に反応された。そんなに強くやってないのに。神田は頭にある私の手を握り、必死な表情で言ってくる。


 「じゃあじゃあ、あと何をしたら付き合ってくれる? わたし結構なんでもできるよ? 仕事辞めて家庭に入れっていうなら、わたしは────」

 「やめて。尽くされたくない。なんで結婚する前提だ。そういうことじゃなくて……」


 私は頭が痛くなってきた。対等って言ってきたのはどこのどいつだ。


 「私、あんたのこと何も知らない。それが嫌なんだよ」


 神田の手を柔く握り、私は彼女に言う。


 「社会人でしょ。自分を売り込んで。私に神田のこと……教えてよ」


 神田は大きな目をパチパチと瞬きさせ、そして「……うん」と恥ずかしそうに頷いた。そして深呼吸をする。


 「……わたし、中高一貫の女子高行ってたんだけど。人づきあいが下手でいじめられてたんだよね」


 さらっと言っているが、その実壮絶だったろう。私は何も言わず続きを待った。


 「今思えば、わたしが悪いなって思う部分もたくさんあるよ。いじめって言うより異物排除っていうか、そんな感じだった。わたしは立ち回りが下手で変な子だったの。勉強は人よりちょっとできたから、知り合いのいなさそうな大学行ってね。そこで、ああ、ちゃんとしなきゃなって」

 「ちゃんと?」

 「親がね、わたしのことで泣いちゃって。すごく心配かけてたの分かってたからさ。親は最後までわたしの味方だったから、親だけは悲しませたくなくて。充実した学校生活送ってますって言ってあげたくて」

 「やさしいね、神田は」

 「そうかな? ありがとう」


 唾を飲み込むような仕草をして、神田は続ける。


 「それで、色々試行錯誤して……友達はいっぱいできたんだけど、どこか無理してたの。一人になりたいなぁって思ったりもしてね。でも大学中ずっとそんなことやってたから、関係を構築するのが癖になって、そうしてしんどいなぁって思ってた時に……」


 神田は私を見た。


 「あなたと出会った」

 「……うん」

 「一人でいてもいじめられないってすごいよ。存在を忘れられるんじゃなくてそのまま受け入れられるってすごいよ。最初は驚いて、ちょっと嫉妬して、そして……好きになってた」


 神田はもう一つの手を私に重ねる。


 「昨日話してて、アヤカちゃんが弱音吐いてて……安心した。アヤカちゃんもちゃんと人間で、不安の中で生きてるんだなって。できることなら、その不安を取り除いてあげたい。尽くしてるわけじゃないよ。好きだからこう思うんだよ」

 「……そっか……神田」


 ん? と神田は私を見上げる。


 「目ぇ瞑って」

 「は、はい」


 まるで白雪姫みたいだな、と思った。私が王子様役は少し恰好の付けすぎかもしれないけれど。私にキスされたと気づいた神田は、目を見開いて固まる。


 「そんなに好いてくれてるなら、私も誠実に応えなきゃね」

 「あ、アヤカちゃん……?」


 私からされるとは思いもよらなかったらしく、神田はびっくりして固まっている。なんだか急に愛おしくなって、もう一度キスをした。今度は深く。昨日のように、今度は私を刻み込むように。


 「とりあえず、今からデートしよっか」

 「でーと……」

 「神田のこと────カヲリのこと、もっと教えて? 私も知ってもらえるように、頑張るから」


 カヲリは私の言葉を咀嚼するのに時間を要し、飲み込んで、茫然として、今日何度目か分からないハグをしてきた。


 「アヤカちゃん、好き……! 大好き……!」

 「分かってるよ。ありがとう」


 カヲリを見る。額を合わせる。手を繋いだ。


 「今度は私のこと、知ってほしい」


 そう言いながらまたキスをした。唇を離す。

 また、息ができた気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る