其の参

権少将ごんのしょうしょうが犯人だと仮定するならば、凶器はどこに消えたのか。あるいは──」



     ◇◆◇



「じゃあ、いったん前提を変えてみよう。仮に、権少将ごんのしょうしょうが犯人じゃないとする」

「はい」

 光る君は心得たように頷く。

 脩子ながこも小さく頷いて、言葉を続けた。


「権少将が西の対屋たいのやに忍び込んだ時点で、六の君が本当に亡くなっていたのなら。それ以前に西の対屋を訪れた人物に対する検証を、行うべきよね」


 脩子ながこはふむ、と思案するために黙してから、すぐに口を開く。


「たとえば、きみが目撃したっていう和歌の贈答ぞうとうだけれど……。それには何らかの仕掛けがあって、実際には和歌の贈答よりも前に、左馬頭さまのかみが六の君を殺害していた──というのはどうだろう」

「いえ、それはないんじゃないかと」


 脩子の言葉を、光る君はあっさりと否定した。

 というのも、宴を中座したのは、左馬頭よりも光る君の方が先だったというのである。そして、彼は光る君の後についてくるような形で、ほとんど同時に母屋へと戻ったというわけだ。


「つまり僕は、左馬頭どのが母屋もやを抜け出して来るところから、宴席の場へ戻るところまで、終始目撃していたような形になります。でも彼は、一度だって御簾みすの内側へ立ち入ってはいませんでした。それは確かです」


 御簾越しでも、人をくびり殺す方法があるとするなら、話は別ですけど。

 そう付け加えて、光る君は肩を竦めてみせる。

 脩子は顎に手を当てると、「そう」と小さく頷いた。


「じゃあ、左馬頭の歌の詠みかけに応じたのは、本当に六の君自身だったのかな」

「あぁ、これに関しては、左馬頭どのが。『間違いなく六の君のお手蹟だった』と断言していますね。過去にやり取りをした文も見せてもらいましたが、たしかに筆跡は同一のものでしたよ」

「へぇ……なら、過去に六の君が書いた和歌を、何者かが御簾内から手渡した可能性はどうかな。西の対屋が六の君の住まいならば、過去に書き付けた和歌の一つや二つ、あるでしょう。それを手渡したなら、第三者でも成りすますことは可能だったんじゃないの」

「いえ、それもあり得ないと思いますよ……というか宮さま。まさか、贈られた和歌に対して、返すのが和歌であれば、内容はどんなものでもいいとか思ってません?」


 光る君はすぐさま否定して、じとっと呆れたような視線を寄越してくる。

 光る君の指摘に、脩子はさっと視線を逸らして咳払いをした。


「あー……まあ、三分の一は冗談よ」

「つまり、半分以上は本気だったってことですね」

「あぁもう、分かっているわよ、私が浅はかだったさ! もらった贈歌の中心になっている言葉や事柄を借りて、別の観点から切り返すのが、答歌の基本だって言うんでしょう。筆跡が同じなら、過去にんだものでも誤魔化せたんじゃないかなんて、間抜けな質問をして悪かったね!」


 脩子はそう早口にまくし立てて、唇を尖らせる。

 だが、とんちんかんな質問をしてしまった自覚はあるので、仕方がなかった。


 たとえば『源氏物語』における、第三巻『空蝉うつせみ』のじょうには、こんな贈答歌がある。光源氏が空蝉の女君おんなぎみに送った歌と、その返歌だ。


(贈) 空蝉、、の身をかへてけるのもとに

       なほ人がらのなつかしきかな、、


(答) 空蝉、、の羽に置くつゆ隠れて

         忍び忍びに濡るるそでかな、、


 これは贈歌に対して、答歌の先頭・中心・最後(空蝉/木/かな)が対句ついくになっており、おまけに「かな/かな」と揃った末尾には、ひぐらしの鳴き声が掛かっているものだとされる。

 正しい贈答歌というものは、本来これくらい修辞的レトリカルなものなのだ。

 単に「紅葉が綺麗だなー、松茸が美味しいなー」といった自分の感慨かんがいを詠む和歌と、恋の駆け引きのための贈答では、修辞の制約や難易度が段違いなのである。

 それを、過去に詠まれた他の和歌で代返しようというのは、確かに無理があると言わざるを得なかった。


 つくづく、知識として知ってはいても、身に馴染なじんではいないのだと思い知らされる。やはり和歌は苦手だと、脩子は深々とため息をついた。



「……つまりは、こういうことよね」

 脩子は気を取り直して、話を仕切り直す。


左馬頭さまのかみが『間違いなく六の君のお手蹟だった』というその返歌は、確かに御簾の内で詠まれ、その場で書き記されたものだった。それは、宴の中盤のこと」

「えぇ、そうですね」

「けれど、宴も終盤という頃合いになって。権少将ごんのしょうしょうが西の対屋に忍び込んだ時には、六の君はすでに亡くなっていた……。つまり、権少将を犯人とするならば、凶器消失の困難さが。左馬頭を犯人とするならば、御簾の内に入らず殺害する困難さが、それぞれ生じることになるというわけよね」

「えぇ、そういうことになります」


 光る君は、ゆるりと首肯しながら、脩子の言葉に同意を示した。

 脩子は去来する嫌な予感に、思わず渋面を作って眉間を揉みほぐす。

 経験則上、もはや嫌というほどに知っているのだ。

 ある程度の不可解さが重なると、この時代の人々はすぐに『物の怪のせい』という超理論を持ち出してしまうことを。


「……で、今回は何の仕業だって?」


 険のある眼差しでそう問えば、光る君は困ったように眉尻を下げて苦笑した。

 その反応で、脩子は自分の嫌な予感が的中したことを悟ってしまう。


「あー、まぁ……ぬえが、その尾でくびり殺したんじゃ、なんてことを言い出す人たちも、現れ始めましたよね」


 光る君のその返答に、脩子は思わず天井を仰いだのだった。





      ◇◆◇



 ぬえ

 それは、さるの頭にとらの四肢、たぬきの胴体にへびの尾を持つとされる、空想上の化け物だ。翼を持たずして空を飛び、陰気な声で人々を悩ませる妖怪である。

 そのき声は凶兆とされ、天皇や貴族たちはこの鵺の声が聞こえるや、大事が起きないように、こぞって祈祷きとうを行うのだという。


「何でも昨夜、宮中警固の滝口たきぐちの武士が、鵺の啼き声を聞いたのだとか。ちょうど同日の晩に起こったことだから、六の君殺しと結びつけちゃったんでしょうね」


 光る君は仕方なさそうに苦笑すると、大仰に肩を竦めてみせた。

 そういえば出会い頭に、光る君がそんなことを言っていたなと思い出す。

 挨拶がてらの世間話は、どうやらここに繋がるものだったらしい。


「鵺でございますか。それはまた……」


 これには、ずっと黙して控えていた王の命婦みょうぶでさえもが、何とも微妙な顔をする。

 彼女は最近、この手の物騒な事件の話になると、すっかり聞こえない振りに徹するようになっていたのだが。

 さすがに鵺と聞けば、反応せざるを得なかったらしい。


「おや命婦。我関せずという顔をしておきながら、ちゃっかり話は聞いていたの」

「……嫌でも聞こえるのですから、仕方がありませんでしょう」


 脩子の揶揄からかい混じりの指摘に、命婦は苦虫を噛み潰したような顔をする。

 それから、命婦と光る君は揃って顔を見合わせると、遠い目をして呟いた。


「それにしても、鵺とはまた……」

「懐かしいですよね、鵺の捕獲大作戦……」


 二人が脳裏に思い浮かべているのは、決して合成獣キメラごとき化け物ではなく。

 ハトほどの大きさの、小さな野鳥の姿であるに違いなかった。

 鵺のき声とされる、陰鬱いんうつで物哀しい声の主。

 その正体は妖怪でも何でもなく、トラツグミという小さな野鳥であることを、彼らはすでに知っているのだから。


「なにさ。命婦はともかく、きみまで微妙な顔をするのは釈然しゃくぜんとしないな。きみだって、最終的には楽しんでいただろうに」


 脩子が口を尖らせてそう言えば、光る君は「それは、まぁ……確かに楽しかったですけど」と複雑そうな顔をする。

 今でこそ、すっかり物の怪の存在には懐疑かいぎ的な光る君であるが。

 出会ったばかりの頃は、彼も人並みに物の怪を恐れる、この時代における一般的な感性を持ち合わせていたのだ。

 だからこそ脩子は、手っ取り早くその固定観念を覆してやろうと、一計を案じた。

 光る君の手を引いて「ひと狩り行こうぜ?」と、夏の野山に繰り出したのである。


 命婦などは「宮姫ともあろうお方が、狩衣かりぎぬを着て外を出歩くなど! あまつさえ、凶兆の妖怪を捕獲しようだなどと……!」と憤慨ふんがいし、泡を吹いて卒倒していたけれど。

 脩子はその隙を良いことに、屋敷を抜け出すと『野山にまじりてトラツグミをりつゝ、鵺の不在証明に使ひけり』と洒落込しゃれこんだのだ。


 捕まえた野鳥が目の前で鳴く様を見た時の、光る君と命婦の反応といったら。それはもう見ものだった。

 二人とも、まるであごの外れた獅子舞のかしらみたいな表情をしていて、今思い返しても笑いが込み上げてくるほどだ。

 結局、その一連の出来事によって、思考の柔軟な十歳の少年は、すっかりと物の怪の存在に懐疑的になったというわけである。

 そういう意味では、鵺は思い出の妖怪であるといえるかもしれなかった。


 ちなみに余談だが、命婦の意識改革はといえば、残念ながら出来なかった。

『鵺=トラツグミ』という認識まではインプット出来たのだが、物の怪全般に対する固定観念を覆すには、至らなかったらしい。

 こればかりは、思考の柔軟性の違いという他ないのだろう。

 あるいは、染みついた観念の年季の差とでもいうべきか──閑話休題。


 ともかく、命婦としても、鵺の正体がただの野鳥であるという点においては、認めているところだった。命婦は脩子の顔色をうかがいつつ、おずおずと口を開く。


「あのような小さな野鳥に、人をくびり殺せるとは、とうてい思えませぬ……。では、六の君をあやめたのは、いったい……?」


 脩子は小さくため息を吐いて、ちらりと光る君の方を見遣った。


「ねぇ、私の頭には、ものすごーく単純な構図が浮かんでいるのだけれど」

「へぇ、単純な構図ですか? それはぜひお聞きしたいな」


 光る君は、楽しげな猫のように双眸そうぼうを細めると、先を促すように小首を傾げてみせる。あざとさを分かった上で、自分のつらの良さを遺憾いかんなく発揮する仕草だ。

 つくづく食えない男に育ったものだと、脩子は苦虫を噛み潰したような顔をするのだった。



(続く)

【2章 3/4】

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