其の参
「
◇◆◇
「じゃあ、いったん前提を変えてみよう。仮に、
「はい」
光る君は心得たように頷く。
「権少将が西の
「たとえば、きみが目撃したっていう和歌の
「いえ、それはないんじゃないかと」
脩子の言葉を、光る君はあっさりと否定した。
というのも、宴を中座したのは、左馬頭よりも光る君の方が先だったというのである。そして、彼は光る君の後についてくるような形で、ほとんど同時に母屋へと戻ったというわけだ。
「つまり僕は、左馬頭どのが
御簾越しでも、人を
そう付け加えて、光る君は肩を竦めてみせる。
脩子は顎に手を当てると、「そう」と小さく頷いた。
「じゃあ、左馬頭の歌の詠みかけに応じたのは、本当に六の君自身だったのかな」
「あぁ、これに関しては、左馬頭どのが。『間違いなく六の君のお
「へぇ……なら、過去に六の君が書いた和歌を、何者かが御簾内から手渡した可能性はどうかな。西の対屋が六の君の住まいならば、過去に書き付けた和歌の一つや二つ、あるでしょう。それを手渡したなら、第三者でも成りすますことは可能だったんじゃないの」
「いえ、それもあり得ないと思いますよ……というか宮さま。まさか、贈られた和歌に対して、返すのが和歌であれば、内容はどんなものでもいいとか思ってません?」
光る君はすぐさま否定して、じとっと呆れたような視線を寄越してくる。
光る君の指摘に、脩子はさっと視線を逸らして咳払いをした。
「あー……まあ、三分の一は冗談よ」
「つまり、半分以上は本気だったってことですね」
「あぁもう、分かっているわよ、私が浅はかだったさ! もらった贈歌の中心になっている言葉や事柄を借りて、別の観点から切り返すのが、答歌の基本だって言うんでしょう。筆跡が同じなら、過去に
脩子はそう早口にまくし立てて、唇を尖らせる。
だが、とんちんかんな質問をしてしまった自覚はあるので、仕方がなかった。
たとえば『源氏物語』における、第三巻『
(贈)
なほ人がらのなつかしき
(答)
忍び忍びに濡るる
これは贈歌に対して、答歌の先頭・中心・最後(空蝉/木/かな)が
正しい贈答歌というものは、本来これくらい
単に「紅葉が綺麗だなー、松茸が美味しいなー」といった自分の
それを、過去に詠まれた他の和歌で代返しようというのは、確かに無理があると言わざるを得なかった。
つくづく、知識として知ってはいても、身に
「……つまりは、こういうことよね」
脩子は気を取り直して、話を仕切り直す。
「
「えぇ、そうですね」
「けれど、宴も終盤という頃合いになって。
「えぇ、そういうことになります」
光る君は、ゆるりと首肯しながら、脩子の言葉に同意を示した。
脩子は去来する嫌な予感に、思わず渋面を作って眉間を揉みほぐす。
経験則上、もはや嫌というほどに知っているのだ。
ある程度の不可解さが重なると、この時代の人々はすぐに『物の怪のせい』という超理論を持ち出してしまうことを。
「……で、今回は何の仕業だって?」
険のある眼差しでそう問えば、光る君は困ったように眉尻を下げて苦笑した。
その反応で、脩子は自分の嫌な予感が的中したことを悟ってしまう。
「あー、まぁ……
光る君のその返答に、脩子は思わず天井を仰いだのだった。
◇◆◇
それは、
その
「何でも昨夜、宮中警固の
光る君は仕方なさそうに苦笑すると、大仰に肩を竦めてみせた。
そういえば出会い頭に、光る君がそんなことを言っていたなと思い出す。
挨拶がてらの世間話は、どうやらここに繋がるものだったらしい。
「鵺でございますか。それはまた……」
これには、ずっと黙して控えていた王の
彼女は最近、この手の物騒な事件の話になると、すっかり聞こえない振りに徹するようになっていたのだが。
さすがに鵺と聞けば、反応せざるを得なかったらしい。
「おや命婦。我関せずという顔をしておきながら、ちゃっかり話は聞いていたの」
「……嫌でも聞こえるのですから、仕方がありませんでしょう」
脩子の
それから、命婦と光る君は揃って顔を見合わせると、遠い目をして呟いた。
「それにしても、鵺とはまた……」
「懐かしいですよね、鵺の捕獲大作戦……」
二人が脳裏に思い浮かべているのは、決して
ハトほどの大きさの、小さな野鳥の姿であるに違いなかった。
鵺の
その正体は妖怪でも何でもなく、トラツグミという小さな野鳥であることを、彼らはすでに知っているのだから。
「なにさ。命婦はともかく、きみまで微妙な顔をするのは
脩子が口を尖らせてそう言えば、光る君は「それは、まぁ……確かに楽しかったですけど」と複雑そうな顔をする。
今でこそ、すっかり物の怪の存在には
出会ったばかりの頃は、彼も人並みに物の怪を恐れる、この時代における一般的な感性を持ち合わせていたのだ。
だからこそ脩子は、手っ取り早くその固定観念を覆してやろうと、一計を案じた。
光る君の手を引いて「ひと狩り行こうぜ?」と、夏の野山に繰り出したのである。
命婦などは「宮姫ともあろうお方が、
脩子はその隙を良いことに、屋敷を抜け出すと『野山にまじりてトラツグミを
捕まえた野鳥が目の前で鳴く様を見た時の、光る君と命婦の反応といったら。それはもう見ものだった。
二人とも、まるで
結局、その一連の出来事によって、思考の柔軟な十歳の少年は、すっかりと物の怪の存在に懐疑的になったというわけである。
そういう意味では、鵺は思い出の妖怪であるといえるかもしれなかった。
ちなみに余談だが、命婦の意識改革はといえば、残念ながら出来なかった。
『鵺=トラツグミ』という認識まではインプット出来たのだが、物の怪全般に対する固定観念を覆すには、至らなかったらしい。
こればかりは、思考の柔軟性の違いという他ないのだろう。
あるいは、染みついた観念の年季の差とでもいうべきか──閑話休題。
ともかく、命婦としても、鵺の正体がただの野鳥であるという点においては、認めているところだった。命婦は脩子の顔色を
「あのような小さな野鳥に、人を
脩子は小さくため息を吐いて、ちらりと光る君の方を見遣った。
「ねぇ、私の頭には、ものすごーく単純な構図が浮かんでいるのだけれど」
「へぇ、単純な構図ですか? それはぜひお聞きしたいな」
光る君は、楽しげな猫のように
つくづく食えない男に育ったものだと、脩子は苦虫を噛み潰したような顔をするのだった。
(続く)
【2章 3/4】
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます