第二章 空蝉の身をかへてける木のもとに なほ人がらのなつかしきかな
其の壱
それは、月の明るい晩のこと。
青白い月明かりに照らされて、足元には紅葉の刺々しい影が揺れている。
雲間には
宮中警固の
それでも、こんな晩の夜警は悪くないものだと思いながら、男は浅く息を吐いた。
昼間は
その松明の火が、突風に
あ、と思った時にはすでに遅く。染み込ませた油脂も残り少なかったのだろう。松明の火はあっけなく掻き消え、辺りはとっぷりと闇に包まれてしまう。
男の目は、手元の松明の炎に慣れてしまっていたのだ。
そのうえ間の悪いことに、
一時的に、一寸先も見通せなくなってしまい、男は
とはいえ、夜目が利くようになるまでの辛抱だろう。
男は闇に目を慣らすため、一度瞳を閉ざすことにした。
すると、どうしたことだろうか。
鈴虫の声も、木々の
不気味なほどの静寂と、じっとりと身に
生きているものの気配というものを、まるで感じられなかった。
暗闇が次第に密度を増していくように感じられて、空気も重苦しく
ぐるりと視界が回るような錯覚を覚えて、男は
「……誰か、誰かおられぬか!」
静寂の中に、男の声だけが
もしかすると自分は今、異界にでも迷い込んでいるのではなかろうか。
そんな恐ろしい考えに、
ヒィィ……ヒィィィ…………
遠くとも、近くとも知れない暗闇の中から聞こえるその声は、この世のものとは思えないほどに
……ヒィィィ……ヒィィ……
全身の毛穴という毛穴から、ぶわりと嫌な汗が吹き出る。
どくどくと心の臓が
「ぬ、
がたがたと震える
その様を
◇◆◇
「──と、そんなことがあったそうですよ」
それから、断りもなく
「こんにちは、宮さま。来ちゃいました」
まるで、近所を通りかかったから寄ってみた、みたいな気軽さである。
相変わらずの来訪者に、
「頼んだ物だけ送り返してくれたら、わざわざ来なくていい。そう伝えたはずだけれど?」
「えぇ。だから言ってるじゃないですか、来ちゃいましたって」
「うん。だから来なくていいって、言ったはずなのだけれどな……。会話が成立していないの、分かってるかな」
「わざと成立させてないんですよ。意図的です」
いけしゃあしゃあと言ってのけるその人物に、もはやため息を吐く気力すら湧かず、
御簾越しに
光る君が
そう踏んでいたというのに、現実はこの有様である。脩子はげんなりと肩を落とした。
それもこれも、うっかり返歌の代筆を任せてしまった脩子の
なぜベストを尽くしてしまったのか。後の祭りとは、このことだった。
そもそも事の
光る君が代筆した返歌の文に、のちの
そして、あろうことか「なんと見事なお
仮にも私信を見せびらかすな。そう声を大にして言いたいところだ。
結果として、
おかげで〝藤の宮〟は『見事な筆跡の、和歌の名手』であるとして、都中に名を
そうなると、『そんな貴婦人と、自分も文のやり取りをしてみたい』と、脩子の元には大量の恋文が届くようになってしまう。これが、実に厄介だった。
もはや誰も、脩子自身が書いた文字や和歌を、脩子の手によるのものだと信じてくれなくなってしまったのである。
ひっきりなしに届く恋文に、脩子は最初こそ、自分自身の筆跡で断ったり、王の
だが、彼らは『女房たちの代筆ではなく、せめて本人
かえって長期戦になりそうな気配を察した脩子は、仕方なく書いた張本人に対応を丸投げするようになってしまったというわけだ。
そんなこんなで、二人の奇妙な関係は、ずるずると
光る君はとっくの昔に
時が経つのがお早いことで、と脩子はため息を吐いた。
「──で、今回は、事前に届けてくれた五通の返歌を書けばいいんですか?」
光る君はそう言って、先日脩子が送りつけたばかりの
脩子は苦々しい面持ちで首を横に振った。
「……いや、追加でもう三通」
「ほら。やっぱり宮さまのお屋敷で書いた方が、二度手間が少ないや」
『今をときめく光る君が、うちに通って来ていると噂されるのは嫌だ』と答えるには、あまりにも対策が万全すぎるのだ。
彼がこの屋敷に立ち寄る時には、とても帝の
それも、自邸から直接乗って来るようなことはせず、中継点を経由する徹底ぶりだ。一応、世の噂にならないための配慮はなされているらしい。
おかげさまで、藤の宮と光る君の仲を
じゃあ、さっさと取りかかっちゃいますね、と光る君は軽く袖を
「宮さま、
そう言って、光る君は御簾の向こうで
半ば予想通りのその言葉に、
「……対価? さぁ、何のことかしらね」
脩子は反射的に、すっとぼけてみる。
無駄な抵抗と言われれば、それまでだが。
「だってほら、勝負事でも言うでしょう。負けを認めなければ、負けではないと。ゆえに、借りを作ったと思わなければ、借りなど存在しないのよ」
「わぁ、ものすごい暴論だ」
「屁理屈だって、立派な理屈だ、と言いたいところだけれど…………で、何が欲しいの」
半ば
「だから、いつものですよ。宮さま自作、直筆の和歌です」
やはりか、と脩子は表情を歪めて舌打ちをした。
すっかりお馴染みになってしまったその要求に、脩子はめちゃくちゃ嫌そうな顔をして、
けれど「まさかこの僕に、無償の労働をしろだなんて言わないですよね?」と笑顔で凄まれてしまえば、もはや要求を呑む以外の選択肢はない。
光る君の元服前と、元服後では、事情が異なるのだから仕方がなかった。
たとえば、光る君がまだ元服していなかった時分において。
返歌の代筆は、脩子の屋敷を
ところが、元服を済ませた現在において。
光る君は、針の
つまり彼にとって、脩子の屋敷はもはや隠れ家としての価値を失ってしまっているのが現状だった。だというのに、代筆の依頼だけが、未だに継続しているのだ。
それを思えば、光る君が相応の対価を要求するのは、
(これで、欲しがるのが和歌でなければ、こんなにゴネないんだけどな……)
脩子は一応、
和歌の大まかな意味だって、理解することは出来るのだ。
だが、それはそれとして。
オリジナルの和歌を
知識はあっても、独創性はまた別もの。
歌謡曲のメロディは分かるし、歌詞の意味を理解できたとしても、いざ作詞作曲をしろと言われると困るのと一緒である。
そういうわけで、脩子の和歌と筆文字の出来栄えは、それはお粗末なものだった。
だというのに、それを『娯楽』として要求してくるあたり、光る君もつくづく性格が悪い。
「……この愉快犯め」
「だって、和歌の対価なんだから、和歌が
「……本当に白々しいこと」
しかしまぁ、代筆をさせるだけさせておいて、お礼の一つもなしというわけにはいかないだろう。脩子は渋々と、本当に渋々と王の
「……そういうわけで、命婦」
「はいはい。相変わらず、ばぁや
側に控えていた命婦は、そうぼやきつつも、心得ているとばかりに
脩子は脩子で、細長い
すると、ちょうど半端に上がった御簾と文机が、十字に交わるような形になる。
薄い御簾を挟んで隣り合えば、光る君と同時進行で文机を使えるという寸歩だった。
悲しきかな。一連の準備の流れも、すっかりお
「はい。じゃあ宮さまは、こちらの料紙に書いてくださいね」
御簾の下からスッと差し出されたのは、透けるように繊細な
「予備ならいくらでもあるので、好きなだけ書き損じてくれて大丈夫ですからね」
「……ああ、そう」
脩子が何枚も書き損じる前提の物言いに、つい半眼になってしまうのは仕方がない。
よろしい。ならばどれだけ筆文字が
そんな情けない決意を胸に、脩子は
「…………」
とはいえ、何を書いたものだろうか。
御簾越しの人影の手元にちらりと目を遣れば、彼は既に書き始めているらしい。
すらすらと動く筆先からは、
よくもまあ、そう次々と和歌を思いつけるものである。
あまつさえ、手を動かしながら喋る余裕まであるらしい。小憎たらしいことである。
「そんなに身構えなくてもいいのに。宮さまの心に移りゆくよしなし事を、お心のままに綴ってくだされば、それで十分ですよ? 天気のことでも、日常の何気ないことでも、なんでも」
「それが無理難題なんだ」
「んー……じゃあ、最近感動したこと、とか」
「……それなら、まぁ」
つれづれとした、日常の何でもないことよりは、何かしら感動したことの方がまだ書けるかもしれない。脩子はそう呟くと、のろのろと筆を動かし始めるのだった。
満ち盛りたる秋の香のよさ
「どう?」
先に、
だが、彼女の視線は何よりも雄弁だった。
まるで、後は塩をかけられてお
「なんとまあ……。
「ぐっ、
脩子は
そう反論したかったが、脩子は何とか飲み込んだ。そういう次元の話ではない、と余計にこき下ろされそうな気がしたからである。
何かと御簾や
だが、隣から聞こえてくる細かな衣擦れの音は、間違いなく笑いを
その証拠に「それは、とても楽しみです」という声の語尾は、ものの見事に震えてしまっている。腹立たしいことこの上なかった。
「……ねぇ、笑わないでくれるかな」
「そんな、笑ってなんかないですって。まだ」
「ふうん、そう。じゃあこれを見た後でも、笑わないんでしょうね」
「それは、ごめんなさい。僕、守れない約束はしない主義なんですよね」
「あぁそう。じゃあこれは絶対に渡さないからな、って、あ、こら!」
御簾の下から伸びた手は、問答無用とばかりに脩子の手から陸奥紙を
「……っふ、あははは!」
案の定である。光る君は堪えきれないとばかりに声を上げて笑い出した。
「いや、これは……っふふ! 笑わないなんて無理ですって……!」
「……なにさ。馬鹿にするのなら、返してもらえるかな」
「いやですよ。せっかくの対価なのに、返しません。どうせなら、松茸の香りでも
「ちょっと、さらに美味しそうな演出をしないでくれるかな!? こら、返しなさいな!」
脩子は
しかし、光る君はそれを巧みに避けながら笑い続けるばかりだ。
「まあまあ、そう
「だから嫌だったんだ! あぁもう、やっぱり書くんじゃなかった! 返しなさい!」
半端に上がった御簾越しに、押し合いへし合いの攻防を繰り広げる。
すると、ふとした拍子に、御簾はばさっと大きく
あ、と思った時にはもう遅い。二人の間を隔てていた物はすでになく。
ごくごく至近距離で、はたと顔を見合わせる羽目になる。
脩子の目と鼻の先には、
ともかく、その美しさから、性別を問わず人々を惑わすと評判の
御簾が跳ね上がったのは一瞬のことだったが、二人はぱちくりと目を瞬いて、それからどちらともなく笑い出していた。
「あぁもう、何をやっているんだろう」
「まったくです」
源氏物語といえば、猫が御簾を巻き上げてしまうことで、相手の姿を
それに比べて、なんと色気のないことか。
もはや、完全に
ひとしきり笑ったあとに、脩子はおもむろに口を開いた。
「ねぇ。もうこの御簾、全部あげてしまおうか。何だかもう、今更ではない?」
脩子からすれば、相手は十歳かそこらの頃から見知っている、弟のようなものなのだ。元服したからといって、そんな相手に今更かしこまるというのも、馬鹿馬鹿しく思えてしまうのである。
だが、それもそうですね、とあっさり同意を得られるかと思いきや。
光る君は「うーん」と
「……心を許されていると喜ぶべきなのか、
「ん? いや、子ども扱いとかではなく、私の性分の話だよ。私が、世間一般の姫君と同じ感性を、獲得できていないってだけの話なんだから」
脩子は『姿を
知識として、そうあるべきだと理解はしていても「いや、別に服を着ていないわけでもあるまいし、恥ずかしいも何もなぁ……」というのが、脩子の本音である。
そういうわけで、別に相手を子ども扱いする意図の発言ではなかったのだが。
光る君は「……そういう意味で言ったんじゃないんですけどね」とぼやくように呟いた。
だが、御簾越しでぼそぼそ呟かれると、どうにも聞き取りづらいのだ。
「え、なに?」
「…………かくとだに、えやはいぶきのさしも草、なんて言っても、どうせはぐらかされるんだろうし……」
「ごめん、本当に聞き取りづらいのだけれど。何て?」
「いーえ、何も? ただの独りごとですよ」
光る君はそう言って、わざとらしく大きなため息を吐いた。
だが、御簾越しの会話だと、口の動きといった視覚情報もないのだ。
小さくごにょごにょ話されると、本当に聞き取りづらいのだから仕方がない。
「……宮さま、もうお年なんじゃないですか?」
「お黙り。ハキハキと
「はいはい、もう宮さまの
光る君は投げやりにそう言って、肩を竦めてみせた。
何だか気乗りしない様子ではあるが、とはいえ相手の了承は得られたことである。
脩子は王の命婦を振り仰いで、半端に上がった御簾を指差した。
「そういうわけだから命婦。全部あげてくれるかしら」
「……あぁ、うちの宮さまときたら、本当に
王の命婦は、
それからぶつくさと文句を言いながら、命婦は渋々と御簾を巻き上げていった。
二人を隔てるものは、もはや何もなくなった。
脩子は真っ向から青年を見据えると、口を開く。
「それで? 今日はどんな事件の話を持ってきたのかしらね、
(続く)
【2章 1/4】
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