──ザワザワする。


 どうにも消えないいやな予感に、京二きょうじはキュッと眉間のシワを深めた。


 こういう心地がする時は、大抵あのじゃじゃ馬娘が絡んでいる。


 いつまで経っても目が離せない、手中に収めたと思っても収まりきらない、あの制御不能で鮮烈な喧嘩華が。


 ──無茶やってなきゃいいんだが。


 数日前、かどわかしの現場を捌いたあの時以来、京二は直に沙羅さらの姿を見てはいない。


 京二も沙羅も『双龍』の本部屋敷に私室を与えられてはいるが、それぞれの縄張シマに根城もあれば、本邸もある。互いに八大龍王の座にあっても、下手をすれば数週間顔を合わせない、なんてこともザラだ。たかだか数日顔を見なかっただけで『異常事態』だのと騒ぐつもりは京二にもさらさらない。


 京二に『厭な予感』をいだかせたのは、部下からもたらされた、とあるきな臭い情報だった。


 ──無事に切り抜けられるか否かっつったら『切り抜けられる』の一択なんだが。あいつはどうにも切り抜けるまでに無茶をしやがるからなぁ。


『まぁ、「無茶をするな」なんて、あいつにゃ望むだけ無駄なんだろうが』と内心だけで呟きながら、京二は馴染みの店の暖簾のれんを片手で跳ね上げた。


「邪魔すんぞ」


 軽く中へ声をかけると、奥からバタバタという穏やかならざる足音とともに不穏なざわめきが聞こえてくる。その声が『京二の兄貴が』だの『ちょうど良かった』だのと言っているのを聞き取ってしまった京二は、誰かに見つかる前に密かに溜め息をこぼした。


 ──やっぱり外れねぇんだよな、厭な予感ってやつぁよぉ……


「京二さん!」


 そんなことを思っている間に、奥から女が駆け出てきた。その人物がこの小料理屋……沙羅が根城にしている店を仕切る女将おかみであることを見て取った京二は、ヒョイッと片眉を上げながら声を上げる。


「騒がしいな。何かあったのか」

「沙羅ちゃんが……!」


 常ならば楚々とした振る舞いを崩さない女将が、今はかなり気を動転させているようだった。騒々しく音を立てて転がり出てきたこともそうだが、それ以上に『沙羅ちゃん』などという呼称が口を衝いてしまっていることに動揺の激しさが表れている。


 ──確かここの女将は、深船みふね時代からの沙羅の馴染みだったか。


 小料理屋の女将が『双龍』の八大龍王をとっ捕まえて『沙羅ちゃん』などとはいただけない。沙羅が内々にそう呼ばれることを許している、という程度ならば京二が口を挟むところではないが、それを他に漏らすというのは御法度だ。


 たとえその相手が沙羅の後見人という立場にあった京二であっても、だ。


 ──俺にもあいつにも、メンツつーもんがあるからな。


 時にそのメンツが我が身を守ることがある以上、一定の体面は必ず保たなければならない。


『双龍』八大龍王などにもなれば、尚更なおさらそのメンツは重いのだから。


「沙羅ちゃんと、沙羅ちゃんの配下の皆様が、連絡が取れなくなっているって……!」

「落ち着きねぇ、女将。あいつの単独行動なんざ、珍しいモンでもねぇだろ」


 そんなことを考えながらも、ひとまず京二は女将を落ち着かせることにした。


 だがそんな京二の思惑を他所よそに、女将はさらに言葉尻をきつくする。


「それだけじゃないんですよ!」


 京二に飛びつかんばかりの勢いで駆け出てきた女将は、胸の前で両手を握りしめると身を乗り出して必死に『異常』を訴えた。


「沙羅ちゃん、確かに二階にいたはずなのに、いつの間にかいなくなっていて!」

「はぁ」

「『はぁ』って何ですか、『はぁ』って!」

「京二の兄様あにさま


 気が動転しているせいなのか、女将が何をもってこんなにも慌てているのかがまったく伝わってこない。


 さてどうしたものか、と考えた瞬間、涼やかな声が女将の後ろから響いた。ヒョイと視線を声の方へ投げてみれば、いつの間にかそこに幼い少女がたたずんでいる。


手毬てまり? お前さん、いつからそこにいたんだい」


 京二は声にわずかな驚きを混ぜながら童女の名を呼んだ。


 事実、驚いている。何せ八大龍王の中でも武闘派と目されている京二をして、声を掛けられるその瞬間まで彼女の存在に気付けなかったのだから。


 ──こいつはいーっつもこんな風に唐突に現れやがる。


 よしの大見世に禿かむろとして置かれている、と説明されてもすんなり信じられそうな容貌の童女だった。


 肩口で切り揃えられた黒髪は艶やかで、肌は雪のように白い。目鼻立ちがくっきりとした愛らしい顔立ちをしているが、京二を見上げる顔に表情らしい表情はなかった。


 いつ見ても季節に相応しい豪奢な着物を纏っているが、彼女がどこの誰であるのか、その素性を京二は知らない。


 知っていることと言えば、彼女が周囲から『手毬』という名で呼ばれているということと、沙羅に懐いていて沙羅の行く先々に神出鬼没に現れるということだけだ。沙羅も沙羅でこの素性不明の座敷童のような童女を可愛がっているらしく、京二は何度か手毬が沙羅の膝の上を占領している場面に遭遇したことがある。


 ──実はあやかしたぐいだって言われても、妙に納得できるというか。


 この得体の知れなさが、京二にはほんのり気味が悪い。


「これ」


 そんな京二の内心に構わず、一歩前へ踏み出した手毬は、両手を京二へ差し出した。視線を落としてみれば、その小さな手の上には京二にも見覚えのある品が乗せられている。


「こいつは……」


 手毬の手の中にあったのは、全体に蝶紋様が散らされた銀の煙管きせるだった。


 一般的な煙管よりも羅宇らうが長めで、煤けた色合いからはよく使い込まれていることが分かる。そうでありながらあまり大事にはされていないのか、雁首の周囲は何かに強くぶつけたかのような跡がいくつも残されていた。


 八大龍王昇進の祝いに京二が沙羅に贈った、沙羅愛用の煙管だ。


 ──あいつ……


 金に糸目をつけず、特注で作らせた煙管だ。この世に同じ物はふたつとして存在していない。


 そんな煙管を容赦なく護身用具としてぶん回すのも沙羅だけだ。雁首に残された打撃痕が、これの使用者が間違いなく沙羅であることを示している。


 そんな煙管が今、沙羅の手元を離れてここにある。


 ──あンのじゃじゃ馬娘……


 京二の指は、無意識のうちに煙管に延びていた。京二が煙管を掴み上げると、手毬は大人しく手を降ろす。


「どこにあった?」

「二階の、いつものお座敷」


 京二の問いに、手毬は淡々と答えた。


「沙羅の姐様あねさま、置いていった」

「置いていった?」

「京二の兄様への伝言」


 手毬の短い言葉でおおよその事情を察した京二は、片手で頭をかきむしりながら盛大に溜め息をこぼす。


「あンのじゃじゃ馬娘……っ!」


 表通りを見下ろせる二階の窓辺が沙羅の指定席だ。手毬が言う『いつものお座敷』は、その窓がある部屋のことだろう。


 沙羅はそこにあえて愛用の煙管を残していった。


 この煙管は沙羅の愛用の品であり、いざという時に沙羅の最後の護身用具となるべくして作られた品だ。沙羅がうっかりでこの煙管を忘れることなど、天地がひっくり返ってもありはしない。


 自分が姿を消した後、、自分の足跡がここに残るように、沙羅は細工をしていったのだ。


 この場所から、沙羅は自ら危地に飛び込んでいった。


 あのじゃじゃ馬娘のことだ。その危地を自力で切り抜けることができればそれで良し、切り抜けられなかった場合沙羅を真っ先に探しに来るのは京二であろうから、京二に異常が伝わればそれでいいだろうと考えたに違いない。


 ──ったく、人の気も知らねぇで……っ!!


 沙羅が危機に瀕したと分かった時に、真っ先に動くのがなぜ京二であるのか。なぜ京二がここまで沙羅から目が離せないのか。『沙羅』という、過激で鮮烈で美しい華を、周囲がどんな目で見ているのか。


 あの喧嘩華は、その辺りのことを少しでも考えたことがあるのだろうか。理由を察していようがいまいが、『お前、勝手に助けに来るんだろうよ』という理解の上で京二を保険に使うなど、小悪魔にも程がある。


「京二の兄貴」


 低く苛立ちを込めた京二の声が聞こえたのだろう。奥からゾロゾロと沙羅の手下が姿を現す。


 おおよそ、沙羅の行方が誰にも把握できていないという現状が共有され、不安を覚えて皆ここに集まったというところだろう。そこに沙羅愛用の煙管が見つかったから動揺が止まらない、といった流れだ。


壱葉いちは


 姿を見せた手下達の中でも一際年若い……まだ幼いとも言える少年の姿を見つけた京二は、無造作に少年の名前を呼んだ。手下達の中でも小間使いとして沙羅の身近に侍ることが多い少年は、京二の声に臆することなく前へ出る。


「沙羅は、最近ちまたで問題になってる拐かしの件を追っていた。間違いねぇな?」

「へい」


 少女のように整った顔立ちをしている上に年も幼い壱葉だが、身に纏う空気はそんじょそこらの大人どもよりも怜悧だ。


 その雰囲気そのままに、壱葉は年よりも大人びて聞こえる声で京二の問いに答える。


「その黒幕が『双龍』の内部にいて、そいつらの真の目的は『双龍』を内から瓦解させることにあったって情報を、沙羅は掴んでいたのか?」

「へい」


 京二の発言に、集まった手下達がザワリと言葉にならない動揺の声を上げる。


 だがその中にあっても、壱葉が揺らぐことはなかった。


あねさんは、ご存知でした。鷹一たかいちさんと春馬はるまさんが、詳しい調査を」

「連絡がつかなくなったヤツは、沙羅以外にいるか?」

「三下のヤスが行方をくらましたようで」


 壱葉の的確な報告に、京二は無言で目を細める。纏う空気を徐々に凍てつかせていく京二を前にしても、壱葉は表情ひとつ揺らがせない。


 ──沙羅んトコには、妙に有能なガキが集まるな。


 この壱葉といい、手毬といい、沙羅の周囲には『ヒトなのかヒトではないのか』という部分からして疑いたくなる存在が集まりやすい。


 それはきっと、沙羅自身が『双龍』における『異端』であるせいなのだろう。


「姐さんは、前々からヤスの野郎を泳がせていました。ヤスが動きを見せたならば、釣り上げるためにあえて乗ったのかと」

「何でテメェらは、いつも揃いも揃ってあのじゃじゃ馬を止めようとしねぇんだ」

「俺らで止めて止まるような御方ならば、俺らの上には立ってません」


 ──まぁ、それもそうだが。


 壱葉の返しで八つ当たりを自覚した京二は、もうひとつ溜め息をこぼすと沙羅の煙管を懐にしまい込んだ。さも当然とばかりにそうした京二に、壱葉がわずかに視線に険を載せる。


 ──こんなことにく前に、まずは沙羅の視界に『男』として入れるように努力するんだな。


 意図せず意趣返しをする形になった京二は、そのまま身を翻す。


「京二さん」


 そんな京二を引き留めたのは女将だった。


 京二が顔だけで女将を振り返れば、女将は一度コクリと喉を鳴らしてから意を決したように口を開く。


「私達が沙羅ちゃんを『沙羅の姉御』と呼ばなきゃいけなくなったのは、あなたが沙羅ちゃんを『双龍』に連れていったからです」


 女将の言葉に、京二は無言で目を細めた。


 恐らく女将は、混乱の最中さなかでも、京二が『沙羅ちゃん』という呼称に不機嫌を垣間見せたことに気付いていたのだろう。


 さすがは沙羅の根城を守る人間だ。人の心の機微を察することに長けている。


「その事実と責任、忘れないでくださいまし」

「……決めたのは、あいつ自身だ」

「分かっています。感謝もしてる」


 キュッと胸の前で握られた女将の手は震えていた。


 当然だ。裏の世界に関わりがあるとはいえ、それでも堅気に分類される女将に、今の京二は真っすぐに不機嫌を向けている。本能が恐れを訴えずにはいられないはずだ。


「でも、あなたが沙羅ちゃんに『沙羅ちゃん』であることを捨てさせた。……それは、まごかたなき事実です。深船の生き残りは、みんな知ってます」


 それでも女将はキッと京二を見据えて言い切った。


 その瞳の中には、意地がある。手毬が、壱葉が、……沙羅に関わる人間が皆、いつもどこか瞳の奥に忍ばせている、沙羅に通じる強さがある。


「私達にとって、沙羅ちゃんはいつまでも、どこまで行っても『沙羅ちゃん』です」


 ──そういやあいつは、震えてなかったな。


 その瞳を前にしていたら、不意に沙羅の姿を思い出した。


 薄暗い蔵の奥に繋がれていた、初めて相対した時の沙羅の姿を。


「そのこと、ゆめゆめお忘れなきよう」


 その幻影とともに目をすがめた京二は、今度こそ身を翻して店を後にする。


 沙羅の手下達が京二を引き留めることはなかった。何も言わなくても京二が沙羅奪還のために動き出すと分かっているのだろう。


 ──あいつらも、鷹一と春馬が合流すりゃあ、あいつら自身で動き出す。


 あの場にいなかった『舞龍王ぶりゅうおう』配下の幹部達の顔を思い浮かべながら、京二は迷うことなく足を進め続ける。


 そんな京二の周囲に、どこからともなく手下達が集まってきた。京二が沙羅と接触する時には気を利かせて席を外す側近達を流し見ながら、京二は懐から己の煙管を取り出す。


「何か分かったか?」

「坂下橋周辺で、妙な動きが」

「ネズミどももそこか?」

「へい。集まっているようで」


 指先で煙管をもてあそびながら問いかければ、間髪をれず答えが返る。


 その言葉に、京二は軽く煙管の先を振ってみせた。


「狩りの時間だ」


 命じる声は、どこまでも静かだった。


 だがその一言に、周囲の空気がピリッと引き締まる。


「羽虫は残らず叩き潰せ」

「へい」


 短い返答の声とともに、サッと手下は散開した。


光龍王こうりゅうおう』の配下は皆優秀だ。狩りはそう時間を置かずに始まり、事件はあっさり解決されるだろう。この展開を見越して、皆『狩り』の支度はとうの昔に終えているはずだ。


 京二がこのまま静観を決め込んでも、事態は問題なく解決される。本部屋敷で待っているだけで、京二の元には確実な勝利がもたらされるはずだ。


 だが。


「……」


 京二は弄んでいた煙管をパシリと手の中に収めると、スッと瞳を眇めた。


 眼鏡メガネの下に押し込められることで鋭さが隠されている瞳には今、隠しきれる以上の殺意が滲んでしまっていることだろう。


「気に入らねぇな」


 その殺意を緩めないまま、京二は低く呟いた。


「気に入らねぇなら潰すまで、か」


 囁くような声音で呟いた京二は、そのままユルリと足を坂下橋方面へ続く道へと向ける。


「いっちょ教えてやるとするか」


 ──ネズミどもが手を出した相手が、一体どんな華だったのかということを。


 言葉の後ろ半分を胸中だけで呟きながら、京二は唇に酷薄な笑みを浮かべていた。

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