親の自覚
帰宅した私の上着を妻の素子(もとこ)は受け取ると「あの、敏則(としのり)さん」とつっかえたように切り出した。
「今日、15時頃に市役所から電話があって」
「またか」
「はい、生活保護の件で匡則(まさのり)さんを扶養に入れてくれ、と」
元部下で、お嬢様育ちで、嫁に入った素子は、最初こそ「御義兄様」と呼んでいたが、長兄の匡則は細川(ほそかわ)家の恥だ。一を聞けば九忘れ、やること為すことがとにかく遅い。人の意見を聞かず、かといって確固たる自分の意志があるわけでもない。職にはついていない。つけるわけがない。義務教育ですら、親がひたすら頭を下げて温情で籍を置かせてもらって、卒業できたのだ。学校側も嫌だっただろう。私は嫌で嫌で仕方なかった。同じ遺伝子を受け継いでいること、匡則の奇行で同窓生から嗤われ、憐れまれたこと。匡則は特に排泄をどこでもやる癖があった。親の命令で何度拭わされたことか。子供ながらに、人生こんな幼い歳から汚く苦しいのか、と何度、兄が生まれたこと、私が生まれたことを恨んだか。私の毛嫌いぶりから素子は「匡則さん」と呼び変えた。
「それと、督促状も、リビングの上に置いてあります」
「督促状?」
「敏則さんに娘がいて、その子の養育費未払の件で話を敏則さんに伺いたい、と仰っています」
「はぁ?」
匡則が子供を持てるはずがない。男性機能に不全はないだろうが、とにかく頭が悪い。九九もできない男が人間の交配、セックスの仕方を匡則はわからないのではないか。
2087年に監護及び教育の権利義務について法改正が行われ、保護者の養育義務の履行が厳しくなった。婚姻届には必ず子供が生まれたとき一緒に養育すべき人物として併せて記名して提出しなければならないし、母子手帳の最後の欄には父とみなされる人物の名前を記入することを促されるらしい。私は母子手帳の最終ページを見たことはない。素子との子供を望んだが、ついぞ叶わなかった。
俺が為せなかったことが、あの糞まみれはやったのか。
「明日は病欠ということにして松本(まつもと)弁護士の事務所に行く。市役所からも警察からも、電話がかかってきても、余計なことは言わなくていい」
「はい」
タイミングを図ったり、妊娠に特効のある料理ばかり食べされる生活はうんざりだった。だが素子のほうが苦しかったろう。毎度毎度、検診で、セックスで、股を開かれ、痛かったに違いない。不妊治療間に不妊仲間に先を越され、年を経て「二人でずっと生きていけたら幸せじゃないか」という言葉に、素子はしゃくりをあげることなく、静かに泣きながら、力なく息絶えるように頷いた。おそらくあの日、素子の中の何かが終わった。
まだ何が起こっているか、私自身まだ全貌を知らないのだ。松本にあって事態を整理しなければならない。
*
「督促状の書式は本物ですね。悪戯ではないでしょう。母:乾(いぬい)めぐみ、娘:乾アリア。婚姻関係はありませんが、3パターンのDNA鑑定率からして匡則さんが父親なのは確実です。養育費算定額も出ています。相場よりも少し安く思えますが」
松本は父、先代社長の頃から世話になっている弁護士事務所の一員だ。私が事業を注ぐにあたり前任から交代した。同郷で、匡則の至らなさを知っているし、その件で何度か仕事を頼んだこともある。
「私たち夫婦には子供はいません。監護及び教育の権利義務について法改正や養育費未払に絡んだ事件についてはテレビやネットニュースで目にはしますが、どういうことなんでしょうか」
「法改正については養育費未払による貧困シングル家庭の根絶を目的としたものです。ただ養育費未払者イコール犯罪者というわけではなく、公共料金の滞納者や生活保護受給者という扱いのほうが近いですね」
と言うと松本は「失礼します」と立ち上がり、本棚から何かを引き出した。その隙に、前に突き出された緑茶を啜る。爪の形を整えた手が冊子を置いた。
「こちらは母子手帳を役所から受け取る際に配布される養育義務についてのパンフレットです」
あの日、素子の中でなくなったのはこれをもらう風景だったのだろうか。父と母と子供が笑い合う「ゆたかにすこやかにくらすには」と絵本のようなタイトルとデザインの表紙だった。でも私の置かれている状況が状況だからか、ふざけているようにしか思えない。
「子ども一人育てるには2000万円かかると言われていました。成人年齢が一八歳に引き下がってから、実際はもう少しばらつきはありますが」
2000万円。子ども一人育てる額はロールスロイスより安い。でもパワーカップルでも怯む額だ。もし匡則のような子が産まれても、それでも親子ともども絶望しないように、金は貯めていた。定期預金をこつこつと築いていた。
「ただ、匡則さんの場合、生活力・経済力がありません。生活保護を受給していますし、行政も了解済みでしょう。匡則さん宛てにも請求書は行っているはずですが、多分何なのかわかっていない。で、それに関して、一定期間音沙汰がない場合、養育費請求先は当該者の二親等以内の人間に請求が行くんですよ」
父母は鬼籍に入っている。となるとその請求先に当てはまるのは私だけだ。手がぶるぶる震える。
「冗談じゃない。私はいつまであいつの排泄物を拭えばいいんです」
匡則は、小便大便を必ずこぼして、床を汚物でぐしゃぐしゃに汚していた。母や私は顔をしかめながらそれを拭き上げ、厳格な父がそれを見つけた日は、匡則を正座させて説教をした。
だが匡則は「すまみせん」や「ごめんなさい」が言えない。「あうあう」「うううう」と獣にもなりきれない声を上げて説教中に脱糞することもあった。そしてまた父の拳が飛ぶ。でも私の気は晴れなかった。どうしてそのまま殺してくれない。そうすれば父も母も皆幸せになれるのに。どうしてそこで止めるのだ、と。
獣にも真っ当な人間にもなれなかった糞まみれが、人間の父親にはなったのか、そしてそのツケが私に来ている。
「これは、匡則が乾アリアの生物学的に実の親で、だから匡則の弟である私が、叔父だから、払わなくてはいけないんでしょうか?」
「いえ、敏則さんは断る権利があります。ただ多くは請求者の父母に話が届いて『可愛い孫のため』と親等代理請求が成立しています」
「年寄りは金を持っているものなんですね」
「というよりは自分の身内の不始末から目を背けられないんです」
父も母も亡くなっていなければ払っていたかもしれない。私たちに子どもがいない分、孫の顔を見たがっただろう。
「でも、どうして今更」
「それなんですよね。未婚なのはともかくも、この督促状の請求額が今年度から計算されています。乾アリアが高校に入学してから、ですか。お金目的なら、もっと請求できるはずです」
「遡って誕生から、まるまる2000万円ですか」
「いえ、母方のほうにも金銭的養育義務が生じますし、手当などの補填額を差し引いて計算します。2000万円はあくまで30年前に出された貯蓄額の目安です。慰謝料や損害賠償と同時に払われることがありますので誤解されますが、2000万円以上の養育費をごっそり請求できたというのは、前例がありません。遡って請求するのは無理ですね。だいたい養育費の相場は月額4~8万です」
月額4万としても、ストレート合格での四大卒、産まれてから二二歳まで払うとしても528万円、ようやっと2000万円の4分の1を手にできるのか。親の平等性、その間にいる子どもの幸せが疑わしい。
「匡則さんに最後にお会いしたのはいつ頃ですか」
「7年前です」
「お母様の葬儀ぐらいですか。長いですね」
「視界の端にも思考にも入れたくない。松本先生ならわかるでしょう」
松本は目を逸らす。結局はクライアント様と弁護士の関係だ。陰口は腹が立つが、事情を知っている長い間柄、真正面で向かい合っているなら、あけすけな物言いで、一緒に貶してほしかった。
「----乾めぐみと乾アリアに会ってみませんか」
「匡則を引き連れて、ですか」
「いえ、まずは私のみか、敏則さんと私で。親族の懇親会ではなく、あくまで協議のためです」
ほっとした。事業を成功させ、不自由ない暮らしをさせてくれた両親に感謝や尊敬の念は湧くが、どうしても匡則の異状ぶりがこびりついて離れない。
「養育費未払者は請求が来た場合、通常は動産執行が行われ養育義務遂行施設に収容されます。ここまでは匡則さんのような知能障害でも同じなはずですし、例外ならもっと事前に敏則さんに通知が来るはずです。匡則さんが賃貸にお住みで、乾めぐみと乾アリアのことを敏則さんが先日初めてお知りになったということは、この請求は初めての親等代理養育費請求の可能性があります。遺産にも関係する重要な案件です」
*
免許証も保険証もマイナンバーカードに一元化されて身分証明証の種類は、特殊な免許証を除けば、少なくなった。電話番号やメールアドレスという情報社会においてネックになる可変的な情報こそは載ってないが、妙な名簿に流出しないだろうか。素子は事務経理こそできるが、世慣れしていないところがある。嫌な犯罪に巻き込まれたとき私は守れるだろうか。
母が今際の際で「匡則をお願いよ」と腕を掴んで、頷いたものの、捨て置いた。乾めぐみは未婚だった。だから、まず匡則に直接会ったほうがいい、本当に娘はいるのか、女に中出ししたか。
不始末から目を背けられないんです。
松本の言葉が蘇る。約束を反故にした報いなのか。
「ただいま戻りました」
「出かけていたのか。遅かったな」
「すみません。おともだちのお見舞いに行っていて。すぐに夕飯を出します」
見舞いに行くような友人が残っていたのか。交際時はそれなりに友人がいた素子は、年を重ねるにつれ交友関係は希薄になった。女ともだちも結婚し、子どもを持つにつれ、話題についていけなくなったのだろう。母になった女ともだちの中で、時間や金に追われない、たまに夫の会社の事務処理をするくらいの、子なしの社長夫人の立場である素子は浮くだろう。素子は飾り気がないし、でも不用意に化粧品や外食の話をしても反感を買う。前は病院で出会った不妊仲間の女性がいたそうだが、彼女が妊娠して出産したと知らせがきたあと、素子はただ出産祝いを贈って彼女の名前は出なくなった。
「素子、市役所まで用事を頼まれてくれるか」
肉を焼く音の向こうで、なんでしょうか、と素子が訊いた。
「とりあえず総合案内で『家系図に必要な直近の戸籍をすべて発行してください』と請求してきてくれ。書類は郵送でくる」
「わかりました」
おともだち、昔、素子は嬉しそうに不妊仲間の名前を上げて、あんなことを話した、こんなことを話した、と女学生のように笑って教えてくれた。そういえばその友達の名前は何だっただろう。
*
「はい、必要な書類は全部揃いましたね」
協議は乾側の弁護士側の事務所で行われることになった。久保田(くぼた)弁護士法律事務所、担当はそこに所属している茂木征子(もぎせいこ)という弁護士らしい。
養育費算定支払協議は双方弁護士を通して和解協議、納得がいかなければ調停、裁判と民事トラブルと同じように進行される。
「そういえば、そもそも金がないから養育費を請求しているのに弁護士を雇う金があるんですかね」
と訊くと松本は
「低額で請け負う弁護士はそれなりにいるんです。離婚トラブルと同じくらいの数で発生するトラブルですから、事務所の案件成功率を稼ぐのにちょうどいいというか。まぁ事務所の成功案件率なんて言ったもん勝ちですが----匡則さんに問い合わせはしなかったんですか」
「会ってはいませんよ。こっちのほうが手っ取り早い」
「そうですか。現段階は『払わない』という意志でよろしいですね」
私は頷いた。
事務所が入っているテナント事務所の二階に行くと、二人の若い成人女性と、襟の大きなシャツの学生服を纏った一人の女学生が待っていた。
「お待ちしていました。本案件を担当いたします茂木と申します」
「乾です」
「乾アリアです。よろしくお願いします」
と事務所横の会議室に進んだ。私側と乾側が机を挟むように各々腰を掛け、身分証明書を出し合う。茂木は名刺、乾めぐみは戸籍抄本と母子手帳、乾アリアはマイナンバーカードを出した。母子手帳には精子提供契約の記載はない。
松本は、基本自分が話を進めていくから促されたら答えてくれ、と予め流れを打ち合わせている。
「ここからは録音させていただきます」
と松本はスマートフォンを掲げて操作してから机に置いた。
「ではこちらもそうさせていただきます」
「今回初めて乾様から連絡を頂いたわけですが、それまでは実父である細川匡則さんに養育費請求をしていましたか」
「いいえ、今回からです」
「ではどうしてこのタイミングで」
アリアが手を挙げる。
「今までは、母の稼ぎと手当でどうにか生活もできていました。今後の私の進学で限界を感じ、養育費をお願いしました」
「ならまず匡則さんにお願いするのが流れでしょう」
「父には会いに行きました。でも話が通じなくて」
そうだろうな、匡則は日本語が通じない。金もない。
「困って、学校で相談したらスクールソーシャルワーカーに、親等代理養育費請求制度を使いなさい、と」
「ご希望の進路は」
「調理師です。レストランの調理人になりたいと考えています」
「希望の進学先の学校を教えてください」
「新宿調理製菓専門学校です」
「失礼します」
と松本はもう一台のスマートフォンを取り出した。
「奨学金制度はありますが、無償化対象校ではないのですね」
「はい、奨学金で学費はどうにかなりますが、上京での生活費も併せて返却の目途がありません」
「どうしても新宿でなければなりませんか」
「新宿なら成績優秀者を対象にした留学制度があります。進学するなら新宿です」
そういった制度があるなら無償化対象校であるのは難しいのだろう。
「とりあえず、今の時点で、細川さんは何か訊きたいことはありますか」
「乾めぐみさん、よろしいですか」
背筋を伸ばして自分の目標を語るアリアと対照的に乾めぐみがなんだか小さい。
「細川匡則と関係を持ったきっかけを教えてください」
「----余興です」
「余興?」
「まずいところから、お金を借りて、当時、匡則さんも、そこに迷惑をかけていて、今月分返せないと言ったら、匡則さんとセックスしたら、一ヶ月分免除してくれるって」
「ろくでもなかったでしょう」
「え、あの」
乾めぐみが、意味がわからないといった顔をした瞬間、松本が録音用のスマートフォンを取り上げて叫んだ。
「細川さん、内鍵を閉めて警察に連絡してください!弁護士は偽物だ!詐欺です!」
私は慌てて内鍵を閉める。乾めぐみが「やめて!」と私に掴み掛ったのを松本は机に押さえつけて締め上げた。
「もしもし、警察ですか。----駅前の久保田弁護士事務所で偽物の弁護士に詰め寄られています」
茂木が外に出ようと私を扉から引き剥がそうとしたが、敵わないとわかったのか、私の鞄を持つと窓を開けてそのまま飛び降り逃げて行った。
理解しがたいのは、慌てふためいているのは私や松本も含めて大人ばかりで、乾アリアだけがリラックスしたように深く椅子に腰かけて、乾めぐみを名乗る女が締め上げられている姿を眺めている。
そういえば乾アリアだけが顔写真付きの身分証明証を出したのだった。
「肝が据わっているんだな。高校生ならしっかり逮捕されるんだぞ。大人を出し抜くのは楽しいか」
「どうして弁護士が偽物だってわかったの」
松本が女を抑えたまま答えた。
「前以て日本弁護士連合会ホームページに照会をかけた。『茂木征子』の名前はあるし、久保田弁護士事務所に茂木弁護士は所属しているが、茂木の茂の字は旧漢字だ。草冠の真ん中が空いている。ホームページの表記じゃ反映されないが、名刺のフォントなら旧漢字も対応できるのに記されているのは常用漢字だった」
「賢い大人はカッコいいね。パパとは大違い」
パパ。多分、乾アリアは乾アリアで、匡則の娘で、匡則に会いに行っている。調理師のくだりはわからないが。
私は訊いた。
「養育費請求トラブルは低額で請け負われているらしいじゃないか。どうして正攻法で請求しなかった」
「お母さんが、嫌がるから」
「なら養育費請求の話はそもそもご破算だろう。未成年まで使って、誰の差し金だ」
「私が養育費を必要としているの。でも仕方ないじゃない。私はまだ子供なんだもの。本物の弁護士は相手にしてくれないから」
蝉の音に交じってサイレンの音が近づいてくる。
「わからないよ。その大根役者が、お母さんの苦悩をわかりきれなかったように。賢くて強い大人にはわからない」
*
鞄は取られたが、財布とスマートフォンは身に着けていたので、たいして実害はなかった。しかし窃盗で茂木なる女に対して被害届は出そう、と決めていた。警察の取り調べで、茂木征子弁護士、乾めぐみは別人とわかったが、乾アリアだけは確かに乾アリアだった。乾めぐみを名乗った人物が提出した戸籍抄本と母子手帳は本物だった。
「大荷物だな、旅行にでも行くのか」
寝室に入ると素子は機械的に洗濯物を畳んでいた。ただ横にキャリーケースがあり、下着はそこに詰められていく。
「明日、おともだちのお見舞いに行くんです。美味しいエッグタルトの店を知ったんです。松本先生も呼んで一緒にいらしてくれませんか?」
「そうだな、一緒に外出しようか」
賢くて強い大人にはわからない。そうだ。敏則と素子が工学的な字面で、子どもが生まれたら男女どちらでも理系めいた名前がいい、きっと賢くなるだろう、と言うと、可愛げがないわ、と素子は笑って一蹴した。女の子なら音楽にちなんだ名前がいい、音楽も科学です。思い出した、不妊仲間の友達の名前はまだ思い出せないが、その娘は綺麗な響きの名前だった。
素子が運転して到着した店は、特に卵の素材にこだわっているようで、看板商品はプリン、ついでシュークリームらしい。エッグタルトはもっと奥まったところにあった。
「プリンがイチオシならプリンがいいんじゃないか」
「そうですね。でも彼女はプリンが駄目なんです。敏則さんと松本先生はお好みのものを選んでください」
プリンもエッグタルトも素材はほとんど同じで、親戚みたいなものだが、どうにもこだわりがあるらしい。私はプリンを、松本はシュークリームを選んで、見舞い先へと向かった。見舞い先は病院ではなく、市営団地だった。呼び鈴を押すと、キンコンと音が響いてチェーン越しに女の顔が覗いた。
「こんにちは、めぐみさん」
「素子さん、どうぞ入って」
とドアを開けた瞬間、私は目を見開いた。後ろにいた松本もそうだったに違いない。事務所で会った乾めぐみ役とはまったく姿かたちが違った。
肘から先、右前腕がない。
「細川様、ですか」
乾めぐみの顔から血の気が引く。
「めぐみさん、ごめんなさい。不意打ちをしてしまって」
「謝るのはこちらのほうです。何と申し上げていいか、言葉もみつかりません」
と土間にひれ伏す。両脚は揃っているが、右前腕のない彼女が土下座する様は、昔観た戦争映画でくずおれる歩兵のようだった。
「娘がご迷惑をおかけして誠に申し訳ありませんでした」
松本が前に出る。
「あなたはお嬢さんの企てをご存じなかったんですか」
「申し訳ありません。申し訳ありません」
「めぐみさん、とりあえず中に入ってもいいですか。美味しいお菓子を見つけたの」
確かに玄関先で無様な土下座を問い詰めるのは一昔前の借金取りや私刑みたいで気分が悪い。青ざめた顔のめぐみは立ち上がって私たち三人を中に入れた。部屋干しで吊られた服が乾いているはずなのに連なっている。素子はエッグタルトをめぐみの前に、私にプリンを、松本にシュークリームを出すと、立ち上がる。箱の中にはめぐみと同じエッグタルトが入っていた。
「勝手に台所をお借りしていいかしら。家からティーバッグと紙コップも持ってきたの。お茶を淹れさせて」
「散らかっていてすみません」
失礼と分かっていても目につくのはあるべきなのにない右腕だ。これでは仕事に就くのはできない。生活すらままならないはずだ。素子がエッグタルトにこだわっていた意味が分かった。支えもなくプリンを掬うことも、シュークリームのような柔い菓子も食べるのも難しいだろう。
「あの、その腕はどうされたんですか」
「轢き逃げの交通事故です。車に飛ばされて、ガードレールに切られるようにぶつかってしまって」
「損害賠償金や後遺障害金の請求はお済ですか」
「松本先生、めぐみさんのそれらの手続きと、障害年金の申請をお願いしたくて、今日ここでお連れしたんです。依頼金は私がお支払いします」
めぐみが青い顔で首を横に振る。
「そんなわけにはいきません。ただでさえご迷惑をおかけしたのに」
「そんなわけにいかないわけないでしょう。アリアを駆り立てたのはあなたの不幸と金銭的がないことと、私です。ここでしっかりお金をもらっておかないとアリアはまた、もっと危ういことをする。あなたが強くあろうとしないなら、この世のありとあらゆる使えるものを使うしかないのよ」
不妊仲間の友達と疎遠になり、両親を亡くして「二人でずっと生きていけたら幸せじゃないか」と頷いてから、素子は機械めいた口調と雰囲気になった。だが今は強い口調で喋る。
私は乾アリアの目を見るよう注意しながら訊いた。
「乾アリアの母親で間違いないんですよね」
「はい」
「どうして匡則とセックスをして、あの子を産んだんですか」
めぐみの体がぶるぶると震えだす。
「借金を、していました。逃げた夫が作ったものです。匡則さんも同じく金を借りていて、返金が難しい。必ず返すから、毎月の返金額を減らしてほしいとお願いしたら、ある男とセックスできたら、そうしてやる、と」
乾めぐみ役と言っていることは同じだ。乾アリアは自分のルーツを知っていたのか。
「細川さんも喜んで私とセックスをしたわけではありません。借主の思惑としてオスのカマキリとメスクワガタを無理やり交配させたらどんな感じか見たかった、とかそういう感じで」
匡則が男として喜んで女性とまぐわった、とは思えない。
「母子手帳に匡則さんの名前を勝手に書いたのは借主です。当時は一日一食の日もあったし、妊娠に気付いたときには中絶できない段階でした。腹の中で動くアリアを感じて、産まれたときは、それでも嬉しかった。右腕があったときはこの子を守れるのは自分だけだと一念発起して踏ん張っていました。生活も私の収入と手当で生活はできていました。でも、事故に遭ってから高熱を出したり、妙な痛みに襲われたりとうまくいかなくて。それはすべて私の不幸ではなく、私の不徳の致すところです。娘を犯罪に手を染めさせたのは私のせいです。本当に申し訳ございませんでした」
めぐみはエッグタルトにぼたぼたと涙をこぼす。
「泣かないでください」
と私がハンカチを差し出すと、
「いえ、泣かせてあげてください。アリアがいない、今しかめぐみさんは泣けないのです」
アリアは警察に連れていかれるとき、泣かなかった。泣かないことが強さなのかはわからないが、あの子には軸がある。母一人で育ててきためぐみにも、絶対にひとりで育て上げるとそれだけは決めていたのだろう。
めぐみの部屋を後にして、素子は松本に向き合うと財布から2万円を出し、頭を下げて両手で差し出した。
「今日は時間を割いてくださってありがとうございました。行きは連れ回してしまいましたが、帰りはタクシーでお帰りくださいませんか。我がままばかりで申し訳ありません。主人と二人で話がしたいのです」
「ありがたく頂戴します。どうぞお気をつけてお帰りください」
「よろしくお願いいたします」
松本が乗ったタクシーを見送った後、私と素子は車に乗ったが、素子はエンジンをかけない。
「私が不妊治療に通っていたころ、ひょっとしたら私をよそに敏則さんには内縁の妻やその子供がいるのではないかと、独身時代の貯金を使って、一時、探偵を雇っていました」
「何か見つかったか」
「いいえ、あなたはストイックに生活していらっしゃいました。ただ、その中で見つけたのが乾アリアです。乾アリアは細川匡則と乾めぐみの子どもです。母子手帳でなく、私が直接DNA検体を採取して鑑定に出しています。相手が私でなくても、あなたに子どもがいたらどんなに良かったか」
「まだ諦めきれないか」
「私は最初の子とされていますが、正確には第二子です。兄は無脳症で生まれてすぐ亡くなりました」
初めて聞く話だった。素子からはもちろん、素子の両親からも聞かされていない。
「無脳症の兄を持った私と、知的障害の兄を持つ敏則さんとの間に、真っ当で強くて賢い子が産まれる保証があると思いますか」
葉酸不足、母体の喫煙、性病、先天性脳疾患の原因がわかっているものも数多くあるが、それは漏れなく医師が注意を促す。それでも先天性脳疾患が絶えないのは遺伝や原因不明なものも数多くあるからだ。
「母親になれたら素敵だろうと思っていながら、本当はもともと諦めていた。無脳症は遺伝的要因が関連しています。細川家に嫁いで、匡則さんを見て、兄の話を思い起こすと、真っ当な子が産まれてくるとは思えませんでした。乾親子を知ったときは自分の卑怯さと勇気のなさを悔やんで仕方なかった」
あんなに真剣に説明を受け、楽しそうに不妊仲間の友達のことを話していたのは演技だったのか。
「乾めぐみから聞いたアリアの出生経緯を教え、請求詐欺の筋書きと、役者を揃えてアリアをけしかけたのは私です。正攻法でアリアの存在を敏則さんに訴えても非情に一蹴するのは想像できましたから」
十中八九そうしただろう。変な犯罪に素子は巻き込まれた、と私は素子の言葉に耳を傾けず、素子を守った。
「不妊治療ごっこと、協議ごっこに付き合わせて申し訳ありませんでした」
素子は頭を下げず、目を涙で膨らませても垂らすことなく謝った。もっとも、運転席と助手席で固定されているので、頭を下げられたところで謝罪の向きは違ったのだろうが。それなら私も匡則の存在を黙っていたことを謝ったことがない。
「荷造りしたとはいえ、どの便に乗るか決めているのか」
「いいえ」
養育費を滞納している匡則と、必要のない不妊治療に巻き込んで詐欺を企てた嫁と実行した姪。養育費未払者イコール犯罪者でないのであれば、罪が重いのは後者だ。自分の身内の不始末から目を背けられない。松本の言葉は今ならわかる。
「なら今日は一緒に家に帰ろう。席を代わってくれ、運転は私がする」
*
市役所の担当者と一緒に家庭訪問をすると、匡則の部屋のドアポストには大量のビラが生えていた。薄手のゴミ手袋を嵌め、一枚抜き取ると、不動産会社からの注意喚起だった。ドアノブが他の部屋より汚れている。生活保護の家庭訪問は通常アポなしで行われるらしい。私が同行したいというと役所は一も二もなく受け入れた。匡則の様子を見て、扶養に入れてくれるんじゃないのかと期待を持ったらしい。
「細川さん、市役所です」
呼び鈴の後、若い担当者が声をかけると、がた、がた、と音がして、ドアが開いた。瞬間、糞尿と獣のような臭いが鼻を刺す。
「あ、あ、どうも」
「今日は弟さんもいらしてくれたんですよ」
「あ、あ、どうも」
どうやらわかっていないんだろう。私が目を背けて捨て置いていたのだ。私をもう忘れてしまったのかもしれない。
「生活訪問です。おじゃまします」
「私は掃除をしておきますので、どうぞそちらはそちらの仕事を続けてください」
体調はどうか。就労意欲はあるか。収入は生活保護のみか。最近困っていることは。
母音での返事をどうにか聞き分けて、手書きでわかりやすくしたゴミの分別表を広げる。市が配布しているカレンダーも十分わかりやすいが、匡則なりに見えづらいものもあるのだろう。
匡則のような子が産まれても親子ともども絶望しないように、金は貯めていた。定期預金をこつこつと築いていたが、私のエゴだったのかもしれない。ごっこ遊びをしていたのは私のほうかもしれない。兄を「早く死んでくれないか」とぼやき捨て置く姿を見て素子が不安をおぼえないはずがない。
担当者とやり取りをしているそばで、目につくものから指定のゴミ袋にぽいぽい投げ込む。あっという間に三袋がいっぱいになったときちょうど担当者との話が終わったらしい。
「匡則、乾アリアと普通養子縁組を組んで援助することにした。わかるか」
「あ、あ、どうも」
「父親になったんだ」
「ああ」
「すみません。娘の養育で匡則を扶養に入れる余裕はありません。----お前が借金を作ったとはいえ、乾めぐみを暴行するという口車に乗らない心の強さと理性があったなら、お前の娘は詐欺なんてしなかったんだから」
担当者は情報量の過多に戸惑っているようだった。かつて松本弁護士に相談した私はこんな姿だったのだろう。
「お前にはわからないよな。私もよくわからない。それが正しいことなのか、自分が賢い大人なのかも」
女が泣いていたならハンカチを出して泣き止ませるのが行儀だと思っていた。
親の自覚はまだ湧かない。一緒に暮らすわけでもないし、どちらかというとひょっこり従妹と出会った感覚に近い。私が払う養育費は、水が川から海へ、雨へと代わるように、障害年金をもらうめぐみの生活費の足しに回るだろう。名を変え、質を変え、でもそれは金には違いないのだ。
私はひょっとしたら明日死ぬかもしれない。両親が死んだとき、遺産はすべて年金に充てるよう支払いは松本に管理させていた。でもその余りを不明な用途で使い果たし、借金も作った匡則の不成績を鑑みるに、消去法でも、これが一番正しいと思い込んでいる。これで私の遺産は素子とアリア、犯罪者の二人にいくだろう。私の死に際に、奇妙なやりとりだった、といつからか笑顔を忘れた伴侶の素子やまだ笑顔を見せたことのない養子のアリアは笑ってくれるだろうか。
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