親というもの
恋愛メソッドのひとつに「相手の目を7秒以上見つめ合う」というものがある。それを見たとき思い出したのは両想いのその先、デートや結婚式の情景ではなく、高校時代に部活動で経験した弓道だった。
中学校時代はバスケットボール部だったが、高校の部活紹介で誘われ弓道場で見たその世界はあまりに別文化で衝撃だった。その中で手本として的を射る射手、関本大海(せきもとひろみ)の所作を見て、私はバスケットボールの三年間の経験を投げ打って弓道部に所属することを決めた。下座から上座に入り、弓をぎっちりとゆっくり引き、放つ。的の中心に当てたのを確認し、「よっしゃあ!」と歓声が上がっても、残心してもなお、的から目を離さない。大海は下座に戻るまで瞬きをしなかった。下座に戻ってあどけない表情を見せたとき、ぶるんと骨盤から脳へと強い電流が走ったのを未だ憶えている。
いつもは大海のマンションで逢瀬をするが、ラブホテルの布団はどうしてか家のダブルの掛布団より重く感じる。それが嬉しいし、好きだ。あの、押さえつけて「逃げ場などない」と突きつけるような、あるいは、力強く守ってくれて「逃げる必要などない」と落ち着かせてくれるようなあの重量。大海は的を射る目で瞬きせずに腰を振る。ようやく放って、目を閉じ、無防備になる。ごろんと横になったところで薄く開いた口から私はDNA検体を採取する。
「どうしたの」
「ううん、高校の部活時代を思い出して。瞬き少ない癖は相変わらずなんだね」
「生徒に恰好わるいところは見せられないしね。これは多分死ぬまでこうだろうな」
大海は未だ弓を放していない。それはつまりまだ離婚の目途は立っていないということでもあった。上級生を差し置いて優秀で期待されていた大海は中学以前から祖父の影響で弓道に努めていて、弓道の名家の女性と政略的結婚をした。妻は海外弓道家向けの旧道具の販売や実技指導の仕事をしており、不規則に大海の許を離れる。その隙に私は「部活仲間と飲みに行く」という体で大海に会いに行く。嘘は言っていない。
「離婚しないの?」と一度訊いたことがある
「まぁ、家絡みの結婚だしこればかりは難しいよ。でもそれは清香(さやか)もそうでしょ?じゃなきゃこんなこまめにDNA検体取っておかないじゃない」
夏海(なつみ)は私の娘で、戸籍上は主人の向井信和(むかいのぶかず)との娘だが、生物学上は大海の子だ。信和とはお互い仕事を理由にしばらくセックスをしていない。私は大海との子が欲しかった。信和はいい夫だ。英語とロシア語をメインとする翻訳家で、在宅ワークだから、看護師である私の代わりに子育ても積極的に行ってくれる。彼が食事を作ってくれることもある。洗濯物も干して畳んでくれる。でもそれだけ。信和に対して骨盤から脳へと強い電流は走ったことがない。ということは高校時代の大海のほうがいい男だったのだろう。
2037年に監護及び教育の権利義務が厳罰化され、出産時ただちに母子のDNA検体採取が義務化された。それによって托卵は難しくなった、と世間は信じている。異なるメーカーの3種類の検体キットで鑑定される。法改正により薬品会社は積極的に検体キットを開発製造し行われ、精度はどんどん上がった。病院によってどのメーカーのどの商品を使うかはまちまちだ。海外製のキットを使っている病院もある。私は看護師の権限を利用して、勤務している病院のドメインを利用してあらゆる会社、商品の検体キットを購入して、定期的に大海のDNA検体を摂取している。
弓道部に入部したこと、看護師を志したこと、信和と交際したこと、既に結婚した大海と再会したこと、夏海を産んだこと。計画していたわけでもないのになんて整合性のとれた綺麗な時系列だろうか。
優しい夫、魅力的な恋人、ときめきを思い出させてくれる可愛い子ども。夫の仕事もそれなりにあるし、師士業だから生活も安定している。自分にかけるお金も確保できる。
幸せだ。
*
賃貸住宅のポストボックスを開けると、ホームセンターや安い求人誌の上に不愛想な封筒が乗っていた。信和の仕事関係のものかと思ったが、私宛だ。部屋のドアを開ける前にふと怖くなって、開封した。
内容証明書、あなたが私の夫・関本大海と不倫関係にあることを把握しています。私はあなたに対して、著しい精神的苦痛を受けました。現在、関本大海とは離婚協議中です。3月8日16時、正式な慰謝料及び養育費について弁護士を交えてお話ししたいので、下記の住所に向井信和様、向井夏海様と一緒にお越しください。
バレた、大海の妻に。話し合いに夏海まで呼ぶということは、托卵の見当がついているのか。ただ「海」という字の共通点に勘繰っているだけの状態か。
息を吸う。足を踏み、胴を整え、ドアを開ける。
「ただいま」
「おかえり、おつかれさま」
「おかえりなさい」
夏海はここのところ、両親から贈られた紫色のランドセルに夢中だ。茄子の味噌汁、ハンバーグ、サラダに白米。絵に描いたような夕食の前に座る。ハいただきます、と三人一緒に手を合わせて箸をとる。猫舌の夏海は大根おろしで少々冷えたはずのハンバーグをふうふうと念入りに冷ます。
「ノブ君、3月8日って」
「ん?仕事?」
大海の妻にはバレたが、信和には不倫はバレていない。
「ううん、何だったっけ、もう一回スケジュール確認してくる」」
まだ慰謝料の金額が決まっていないということは、決め手は夏海の父がどちらか、ということなのかもしれない。バレるわけがない。バレるわけにはいかない。クローゼットの中のメイクボックスにあらゆるメーカーのあらゆる型番のDNA検体が保持されているのだ。食事を終え、風呂を済ませたなら、離婚協議の流れ、もし話し合いを蹴ったなら、W不倫の場合の慰謝料の相場、慰謝料の金額を決める要素、どのメーカーどの型番の検体キットが不足しているか、確認しなくてはいけない。
内容証明書が来てから日中誰かに監視されているような気がしてならない。大海は私の住所を知らないはずだから、弁護士に問い合わせたのか。探偵でも雇われていて今も見られているんじゃないか。
離婚協議や慰謝料についての知識はあらかた得たが、検体キットの型番不足については、考えてみれば離婚協議中の大海から新たに採取できないのだ。もし、私の検体コレクションにない型番なら、採取、提出、鑑定の主導権が大海の妻にあるのなら、詰む。離婚協議中で大海が妻と一緒にいるなら連絡は控えるべきだ。不倫の証拠を差し出すようなものだ。
とりあえず話し合いのため大海のマンションに行かなくてはいけない。信和と、夏海も一緒に。なんて連れ出せばいいのだろう。おともだちのホームパーティーではまかり通らない。大海と口裏合わせがしたい。ワンナイトラブでした、で済ませたい。でも離婚協議というステージまで行ったのなら、大海はいくつか白状してしまっている。寝室のベッド腰かけてマッサージガンを肩回りに打ちつける信和に声をかけた。
「ノブ君、3月8日って空いているかな?」
「仕事はあるけれど家にはいるよ」
喉が渇く。寝室に飲料水を持ち込んでおけばよかった。
「ごめん、許されないことした。これ、見てほしい」
まずはとにかく謝る、意識して指を震わせ、内容証明書を手渡した。
「なにこれ----さやちゃん、心当たりあるの」
「ある、ごめん」
「いつから」
「ノブ君と出会う前から」
「その人と結婚すればよかったじゃん」
「その人は、ノブ君と出会うときにはもう結婚していた」
信和の喋り方はどんどん硬くなっていく。AIに尋問されているみたいだ。
「僕と結婚してから、関係辞めようとは思わなかったの」
「考えたけれど、やめられなかった」
「井原弁護士ね。僕が話し合いに参加するのはもっともだけれど、大人の汚れた話し合いの場に、まだ小学生にもなっていない夏海を連れて行きたくない。僕が弁護士宛てにFAX送るから夏海はどけてくれ、と連絡する」
「やめて」
「夏海は僕たちの子だ。国が保証している。さやちゃんがその人を思って夏海の名前をつけたのだとしても、母子手帳も戸籍謄本も証明している。シッターを雇って家にいてもらう」
違う。夏海は大海の子だ。私が産婦人科の要領を得て、差し替えたのだ。
「でも訴える側が、連れてこい、って言っているし、私側がそれを拒否したらもっとまずいことになるんじゃないかな」
「なら、シッターごと夏海を向井さんのところに連れていく」
「他人に痴話喧嘩を聞かれるの?」
「その痴話喧嘩を作ったのはさやちゃんだよね。事が事だから親は頼れない。話が夏海に聞かせるべきものじゃなくなった段階で、外に連れ出してもらう。シッターには守秘義務があるから、そこから漏れたならさやちゃんがシッター斡旋会社を訴えればいい。それでいいね。文句ある?」
私は力なく頷いた。
*
信和はマンションのチャイムを押した。
バッグやポケットの中には多くの検体を保持している。
「児玉清香と夫の向井信和です。内容証明書の通りに娘の夏海と伺いました」
インターホンから内鍵の開く音がして、「今お開けします」と言ってドアが開いた。大海の妻の顔は知っていたが、目つきが前より鋭くなっている気がする。
「そちらの方は?」
「本日、娘の世話のために雇ったシッターです。部外者を連れてくることの連絡を怠ってしまってすみません。夏海が話に参加できないタイミングになったら外に連れだして家に帰らせてもよろしいでしょうか」
「そうですね。いえ、こちらも内容証明書に記載していない方をお招きしているので、構いませんよ。お上がりください」
もしかして大海の、あるいは妻の親だろうか。案内されたリビングにはスーツの男が二人立っていた。目をぎゅっと閉じる大海が座っている。弁護士とパラリーガルか。
「弁護士の井原(いはら)です。本日はよろしくお願いいたします」
「市役所の市民総合窓口課育成部門担当の滝井と申します」
役人?やはり夏海のDNA鑑定をする気だ。ならキットの種類はだいたい見当がつく。チネンのD-prof(ディープロフ):5-3か蟹谷製薬のD.kit.genit(ディーキットジェニト)がこの県では主流だ。どちらもポケットに忍ばせてある。隙さえ見せれば信和と大海の検体を差し替えられる。
「飲み物はコーヒーでいいでしょうか。夏海ちゃんには時間を取らせませんので、飲み物はお出しできませんのをお許しください。滝井さんお願いします」
「向井信和さんこちらで頬の内側をなぞってください。はい、夏海ちゃん、あーんしてもらえるかな」
眉の太い黒縁メガネの男はポケットからスティックを取り出した。そのスティックを見たとき、私の口からは「それ」と小さく漏れ出ていた。淡いピンクと抹茶のような深い緑色、知らないデザインだ。デザインが違えば既存のものと差し替えられない
「それ、どこの会社の、型番ですか」
「蟹谷製薬のD.kit.genitですよ。まだ世間に流通していませんが、新色が出たんです」
新色が出たんです。百貨店の美容部員のように説明する。
「お子様の出産時の季節感を大事にしたい、というご意見がありまして、蟹谷製薬では精度と同時にデザインの刷新も行っています。今回使用するのは試供品で、デザインが違うだけです。以前、夏海さんの小学校入学願書のときに提出された検体キットと精度は変わりません。だから同じ結果になるはずですよ。次に新型が出たとき、季節やキャラコラボなどデザインのバリエーションも一気に増えて鮮やかになるでしょう」
だから大海は打ち首を待つように目を強く瞑っていたのだ。もう駄目だ。逃げられない。
「新作ですからね、専門の職の人間しか扱っていない品なのです。だから職員の方をお呼びしました」
大海の妻は静かにそう言った。
*
蟹谷製薬のD.kit.genit は粗悪品ではない。DNA鑑定の回答は素直で正しかった。信和はメールアドレスと郵便で届いた回答を見てから、激昂こそしなかったが、私の食事だけを作らなくなった。信和は不倫をしたことより不倫し続けたこと、大海の子である夏海を妊娠して産んだことよりDNA鑑定をごまかし続けたことという理性的な部分が許せない、私が狂っていても理性的でも関係は続けられない、と大海の離婚協議に携わった井原弁護士に離婚協議を依頼している。親権は養育実績もあるがゆえに、血の繋がっていない信和に行くだろう。6年以上の不貞と不正、私たちの離婚届の提出が終わった途端に大海の妻には200万円の慰謝料を請求された。また大海も信和に100万円の慰謝料を払ったらしい。
問題は、養育費だった。
「懲戒解雇ですか?」
「病院のドメインを利用して、不倫と托卵を隠すためのDNA検体キットを買いあさっていたそうじゃないか。立派な背任行為だ。市役所から被害届が出ている。そっちは罰金刑で済むだろうが、日本の医療コンプライアンスの啓発にこの病院の名前は語り継がれていくだろう。こんなことをしてくれた以上、もう病院は君を信頼することはできないんだよ」
夫婦別姓制度を利用して、この病院で築き上げてきたキャリアはなくなってしまった。育休明けから数えても4年以上。罰金は80万円とられた。養育費は月額20,000円を18歳まで。だが私は看護師だ。医師と違って看護師は医科の縛りがない。引っ越しした狭い部屋でスマホと医療従事者向けの求人誌を開いた。
これについては大海も同じ額を払っている。監護及び教育の権利義務が厳罰化により、自分の子という事実を知りながら養育を放棄するのは不法とされている。
医療分野にAIがしっかりと入り込んできた今でも「人による治療がいい」という意見は多く、医療人材の不足は解決されていない。5件応募すれば拾ってもらえるだろう、と高をくくっていたが、最初の5件はどれも書類選考で落ちた。それが10件15件と続けば、いよいよヤバい、と危機感が募る。日本の医療コンプライアンスの啓発にこの病院の名前は語り継がれていくだろう。私の名前も語り継がれているのかもしれない。エゴサしてみようか。いや調べたところで意味がない。失敗体験はもう嫌だ。もう同じくらい慰謝料は親に立て替えてもらったからにはもう家族は頼れない。心もキャリアも貯金も削られていく。
『夏海の養育費が滞っているんだけど』
体調を慮る挨拶や、夏海の様子の報告もなく、信和は電話で養育費を催促してきた。
「まだ勤務先が決まらなくて」
『それはそっちの都合でしょ。でもそれじゃ給料差し押さえはできないか。収入ゼロならさやちゃん自身しんどいでしょ。向井さんの離婚協議のときにいたお役所の人、憶えている?あの人に相談してみたら?』
「夏海は元気?」
『元気だよ、友達もできた。さやちゃんの悪行がバレなくてほっとしている』
三色団子のようなスティックを持ち出したあの黒縁メガネ。あいつが新色なんて出さなければワンチャンあったのに。
仕事にはついていないから時間は山ほどある。私は市役所に向かった。
「アポイントをとっております、児玉です。滝井さんを呼んでください」
「はい、少々お待ちください」
受付の若い女職員はこちらへどうぞ、と面談室に向かった。そこにいたのは滝井と、また知らぬスーツの男がいた。背がさして大きくないから「がたいがいい」とは言えないが、服越しから見ても筋肉がしっかりついている。
「お久しぶりです。児玉さん」
「その人は、どなたですか?」
予期せぬ人物の登場で、展開がめちゃくちゃになるのはもう懲り懲りだ。
「養育義務遂行制度の職員を務めております今里光司(いまさとこうじ)と申します」
「養育義務遂行制度?」
「次の就職先が決まらない、だから養育費もご自身の生活もままならない、という相談ということでよろしかったでしょうか」
「はい」
「希望職種は看護師でよろしかったですか」
「はい」
「転職希望エリアは都内ですか?」
「はい、でも全然受からなくて」
どうして、といつも思う。産休育休で穴は開いたが、看護師歴なら通算6年だ。
「今まで書類を出した病院すべてをリストアップできますか」
箸か棒にはかかると思っていた。外科も循環器科も精神科も応募したのにどれも受からない。鉛筆で罫線に沿って紙に病院名を書いていく。10を超えたあたりで泣きたくなった。向井の妻がこの職員を呼んでいなければ。蟹谷製薬がデザイン展開なんてしなければ。もしかしてこの職員が事の顛末を触れ回っているのかもしれない。
「書けました。あの、役所の人って、守秘義務がありますよね。守ってくれてますよね」
「私は上司にしか報告をしていません。ただ人の口に戸は立てられませんから、そればかりは我々も対処ができません。実際、今回は医療従事者のDNA検体の差し替えはニュースで報道されました。児玉さんの名前は出ていませんが、過失の取り違えでさえニュースにはなるんです。医療業界では話の的になっているのかもしれませんね。で、今里さん、どう思います」
今里という男はペンで頭を書く。
「とりあえずオススメするのは養育義務遂行施設に入っていただくことですね。光熱費もかかりませんし、無駄遣いの概念はなくなります。我々も就職探しのお手伝いができますし」
「テレビで特集見たことあるけれど、あれは男が入る監獄でしょう」
だんだんイライラしてきた。敬語を使う余裕がなくなる。
「構造上パノプティコンと呼ばれることは正しいですが、パパノプは語弊があります。未婚ならお腹に子を抱えた女性より男性のほうが逃げやすいですし、離婚でも男親が親権をとれる確率は10%。だから確かに男性の入所者が多いですが、パノプティコンに入所される人間の約10%は女性なんです。完全個室ですからあまり気になることはありませんよ。養育費未払者は犯罪者ではありませんが、養育義務遂行施設は子どもの人生をお金で償うための施設です。施設に入ったなら生活に困ることはありません。だって親が倒れたら元も子もないんですから」
*
入所申請を終えたら、手続きは迅速に行われた。手首に妙に厚い腕輪をつけられる。
「児玉さんのような自主的に頼っていただけるような方につける必要はないと思うのですが、電磁石と加熱装置の入った拘束具です。私から一定距離遠ざかったり、反抗的な態度を取ったりしなければ拘束や火傷はしませんので楽な姿勢で従ってください」
今里が執行官を引率して動産執行が実施された。離婚した際に多くを片付けたが、下着以外、服も靴もテレビも容赦なく持っていかれた、最後の思い出に、とクリスマスに信和に買ってもらった一張羅のコートを持っていかれたのは泣きそうになった。
「これ以上持っていかれると冬が越せないんだけど」
「防寒着ですよね。別の品を再購入してもらいますので大丈夫ですよ」
なけなしの所持金1万円を持っていかれ、とりあえず2ヶ月分の養育費を振り込んだ。
「次は歯医者さんです」
「歯医者?」
「今日までに親知らずの処置をしたことはありますか?」
「左下なら」
「では左下にGPS機能付きのオリジナルチップを入れます」
歯科助手と看護師は違う職業だ。歯科医院ではそんな処置が行われているのか。
「はぁ?犬猫じゃあるまいし、何考えてるの?」
運転席と後部座席を隔てる透明板越しに吠えると今里は、困ったな、というように笑う。滝井という職員も腹が立つが、こいつはこいつで違う意味で嫌いだ。柔らかいがいけすかない。
「児玉さんの生活の扶助と、養育費の捻出、それだけです。養育義務遂行施設は養育費の確保を目的とした施設で監獄ではありません。労働や面会のための外出だって自由です」
そうだ、施設入所を頼った本質はそこだ。いかなる理由があろうと連絡を取り合わない、と誓約した相手の大海は、どうしているのだろう。
「ただ勘違いしないただきたい。あなたは親なんですから、その義務を果たすためにある程度の不自由は受け入れてください」
悔しい。自分がどんどん人間じゃなくなっているようだ。ぷすりと麻酔の針が打たれて私はとうとう泣いた。
「おつかれさまでした」
ぼってりとふくらんだような心地のする頬をさすりながら待合室に出ると今里は雑誌を畳んで迎えた。
「車のスマートキーのようなものです。今後は施設から配布される電子決済カードだけが児玉さん自身が自由に使える資産になります。現金は持てません。案内係である私も持っていますよ。このPカードは親知らず部に埋め込まれるオリジナルチップと連動して電子決済が行われ、使った分は児玉さんの給料振込口座から差し引かれます。私のPカードは私にしか使えないし、児玉さんのPカードは児玉さんにしか使えません」
今里はくすんだ青色に大きくPのアルファベットの中に点が描かれたデザインのカードを出した。
「あなたも入所者なの?」
だから新参者の私に意地悪をするのだろうか。
「いえ、私は案内係で、経費を落とすためのカードですから上限はありませんが、不正請求防止のため制限はあります」
今里は、通りを歩く女性を指差した。艶のある赤い鞄を提げている。
「たとえばバッグを買うとして、無駄に高いブランドバッグはバーコード情報で却下されるので、購入はできません。ネジ打ち機のような、生活そのものや、その人の職務に必要でない品も購入できません。まぁ、よくわからなければ、特に何も考えず、レジに持って行ってください。弾かれるものはどうしたって弾かれますから」
スマホやパソコンの持ち込みは仕事に関係するので可能です。でもネットショッピングはできません。その際は施設の職員に申請して行います、と今里は付け加えた。
「購入できる単価のものだけ、購入できる範囲で、購入してください。また飲食店については施設と加盟している店舗以外では結局会計はできませんので、非加盟店、高級レストランで勝手に食事をした場合、悪質な無銭飲食と同じ扱いになり、そのときは刑務所へ移送されます。懲役10年です。頑張っている自分のご褒美のときは必ず店や施設に問い合わせて、許される残高を確認してから、自分をいたわってあげてください。ただお子様との面会など特別な機会はその限りではありませんので、事前申告は忘れないでください」
今里に、車に乗りましょうか、と促され、私は車に乗った。動産執行、歯医者とぐるぐる連れていかれているが、気になるのは私の後部座席に乗った瞬間、ガチン、ガチン、と重く二重に鍵をかけられる音がする。
「私は犯罪者じゃなくて、滞納者なのよね。どうして手枷をつけたり、重い音のする鍵付きの車で移送されたりするの」
「これは移送車であり護送車です。養育費の問題は家族の問題で、その分感情的になりやすく、『養育費を払うから養育義務遂行施設に行く』と言っても『それでも許せない、殺してやる』みたいなリンチに走る過激な方もいらっしゃいます。そういった方から守るためでもあります。児玉さんは理性を以て現実を見て自主的に頼ってくださいましたが、特に男性は逃げきれなかったとパニックを起こして強制送還みたいな形で入所ことも多いのです。口枷をつけることもあるんですよ。だから今回の児玉さんの護送は楽で助かります」
ぼってりと膨らんだ頬の内側、オリジナルチップが埋め込まれたあたりを、飴玉を転がすように舐める。私の理性とは、信和が許してくれなかった理性とは何だろう。やっぱり私は犯罪者なのかな。病院への背任行為はともかく、料理を作って仕事に理解を示してくれた夫と、私の絵を描いて慕ってくれた娘を裏切った。夏海の名前も大海のことを意識はしていなかった、はずだ。青くて大きくて鮮やかな世界を知ってくれたなら、とつけたはずだった。
「外出は自由なのよね」
「就職先が決まるまでは施設から出られませんが、児玉さんは依願入所者ですから、外で働くには時間はかかりません。労働はもちろん、自由外出は外出希望届を申請すれば自由です。とりあえず今日は千葉の施設に送ります。勤務先の確保が出来ましたら、また違う施設に移る可能性もあります。お子さんとの面会はどのように設定しておりますか」
なら、今、外の風景を目に焼き付けておく必要はない。
「養育費の支払いが確認できて、夏海が会いたい、って言ってくれたら」
「そうですか」
町を離れ、街灯もまばらになった、と目を瞑ってしばらくすると、瞼越しに眩しくなってきた。
「つきましたよ。降りてください」
内側が光る大きな建物。外柵は鉄筋コンクリートと電気柵と有刺鉄線がそびえたっている。
「これは」
「とりあえず居室に案内します」
夜なのにレーザーが刺すように眩しい。
宿泊室は思った以上に充実していた。ベッドはもちろん文机、ユニット式だがトイレもシャワーもある。レーザー光線はもっとうるさいと思っていたが、小さな小窓からたまに漏れてくるくらいだ。
「ここにくるまでに明るい部屋もあったし、みんなこんな建物の中で眠れないんじゃないの?」
「各部屋の消灯はその部屋のものが決められます。レーザーは支給されるアイマスクをつければ気になりませんよ。体は休められるうちに休めてください。明るい部屋は資格習得組か内職組でしょう。そういう夜の過ごし方もあるということです。眠らなくていい夜だってあるじゃないですか」
今里がいつの間に着けていたインカムで「F0097、居室の施錠確認とレーザーお願いします」と通報する。ピーと線を引くようにレーザーが部屋に差し込む。
「お子さんが今6歳で、18歳になるまで20,000円ずつが養育費の計画でしたね。なら18歳になるまでの12年間を養育義務遂行施設にいなくてはいけないか、というと、そうではありません。労働でも内職でも何でもいいから稼いでください。給料の手取りの半分は養育費で差し押さえられますが、もう半分はご自身のために使えます。ギャンブルは禁止されていますが、投資・投機はそのもう半分で可能です。養育義務遂行施設入所者に労働法は適応されません。賃金や残業代の確保やハラスメントなど労働状況の整備はこちらで保護しますが、残業は本人が望む限り、就業時間は労働基準を超えても構いませんし、職場の規約で副業を禁止していても養育義務遂行施設入所者はその限りではありません。とにかくお子さんのために、身を削って、時間を売って、稼いでください。あなたは親なんですから。養育費は月々ご主人のところに振り込まれますが、それは国が立て替えている分です。立て替えられた養育費の全額を払い終えたときに児玉さんはここを出所できます」
今日は一日お疲れさまでした、応援しています、と今里は頭を下げ、「F0097、今里担当官退室します」と言うと、扉は解錠し、退室した。扉が閉まり、また重い音がする。ずっと私の足許を差していたレーザーも一旦途切れた。
ここは何だろう。今里は監獄ではないと言っていた。でも入所者にあんなに念入りに錠をつけるものなのか。扉に近付くとまたレーザーが差し込んできた。暗証番号式の錠ではない。今里がインカムで退室を報告したから遠隔操作で退室できたのか、彼のオリジナルチップか、あるいは他の生態認証か。ベッドに戻るとまたレーザーが私から離れる。外出時に悪質な金の使い方をしたなら刑務所に移送されるというなら、ここは刑務所の下位互換か。私はベッドに乗って服を脱いでレーザーが差す小窓を隠した、と途端に「レーザーを遮蔽しないでください。罰金が追加されます」と放送が鳴った。慌てて服を放り、小窓を覗いた。中央に立つ円筒からレーザーが無作為に放たれている。人の姿も見える。さっきはあんなに私の挙動に対してうるさかったのに、執拗に照らされている他の居室は見当たらなかった。みんな大人しく見られて照らされているのか。
夏海の夜泣きがうるさくて一面の星空の下をあやしながら歩いたことがあった。あの星もレーザーのように見ていたんだろうか。私の理性と、その末を。
あなたは親なんですから--養育義務遂行施設-- 多々島アユム @Tatashima
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。あなたは親なんですから--養育義務遂行施設--の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます