僕の表具と君の書

2121

猫の手も借りたい深夜二時


『ごめん。夜ご飯の予定キャンセルでもいい?』

 そんな連絡に気付いたのは日曜日の朝の寝坊気味に起きたときで、その連絡自体は今から六時間前――つまり深夜二時に送信されたようだった。

『どうしたの?』と送信し、きっと寝ているだろうから返信は遅いだろうなと思っていたら、

『仕事が立て込んでて』

 とすぐに返ってきた。もしかして徹夜だろうか。

『手伝えることある?』

『いや、大丈夫』

 そう来てからすぐ通知音が鳴る。

『やっぱり、手、二本貸して』

『十分待って』

 急いで自室を出て洗面所で顔を洗い、動きやすい服に着替え、邪魔にならないよう髪を高い位置で括った。そして適当なスリッパを履いて隣の[葛野京表具店]の引き戸を開ける。微かに香るのは、でんぷんと紙の匂い。

「おはようございます!」

 声を掛けたけれど、一階の店舗兼住居には人の気配は無かった。委託されて売っているという組紐や正絹の端切れで作った和小物が置かれている。小上がりの畳の奥には掛け軸が掛けてあり、棚には襖や障子紙の見本帳が並ぶ。

 「二階ー」と奥から声が届き、スリッパを揃えて声のした作業スペースへと向かった。

 お隣の葛野かどのさんは家族で表具店を営んでいた。同い年の幼馴染みがおり、彼も専門学校を卒業した後そのまま実家で仕事をしている。現在就活中でまだ大学生の私には、仕事をしている彼を尊敬の眼差しで見ている。

 二階に行くと、作業台に大きな絵が濡れた状態で置かれていた。作業服の幼馴染みは、刷毛を片手に「ごめんね」と謝った。

「お寺の壁画の修復の洗いに手間取っちゃってね。そっちの台で干したいんだけど、さすがに大きいから幼馴染みの手でも借りたいところでして」

「私が来なかったらどうするつもりだったの?」

「父さんとじいちゃんが昼前に襖の納品から帰ってくるからそれ待とうと思ってた。けど濡れたままの状態も良くないから、呼ばせてもらいました。ごめんね、忙しくなかった?」

「暇だったから丁度良かった」

「じゃあ、まずは紙の端を持ってくれる?」

 私は指示されるままに動くと、幼馴染みは絵が内側になるように台に張り付けて、ささっと作業をやっていく。それが終わると乾かすために二人で台を壁に立て掛けた。

 一段落して、二人で息を吐く。

「暇って言ってたけど今日は書かないの?」

「ちょっと前に書道展に出したから」

 私は子どもの頃からずっと書道をしていて、たまに書道展に出している。もちろんそのときに掛け軸に仕立てるための表装もここで頼んでいた。

「そうだ、書いたやつここにあったりしない?」

 指差されたのは窓際に立て掛けられた台に張り付けて乾かしている掛け軸だった。西国三十三ヵ所の御朱印を掛け軸に仕立てたもの。しかしそこに私の字はない。

「残念ながら私じゃないな」

 人よりちょっとばかり字が上手いので、大学に入っめからお寺で御朱印を書くアルバイトをしていた。だから葛野京表具店に私の書いた御朱印がやってくる可能性もあるというわけだ。

「そっか。その内来るの楽しみにしてるんだ」

「忙しいならいつも呼んでくれたらいいのに」

「それは悪いよ」

「じゃあ――家族になったらいつも手伝わせてくれる?」

 私が言えば幼馴染みは困ったように目をさ迷わせた後、掛け軸の方へと目をやった。

「手伝わせて、あげない」

「……なんで」

 静かに言う彼に私は責めるようにそう吐いていた。こちらを向こうとしない彼の横顔が、じんわりと滲んでいく。

「本紙が無いとね、表具店は仕事がない訳よ」

 彼は言葉を選ぶようにゆっくりと言う。

「本紙ももちろん掛け軸を作るために使う和紙も紐も糊も刷毛も包丁も、全部が無いと成り立たない。この仕事は皆に支えられながら出来ている」

 それはそうなのだろう。一階に置かれている組紐の小物も、掛け軸を巻くための紐を作っている店の人が置いていると言っていた。お互い助け合いながらやっている。

「だからさ、俺のことを手伝うんじゃなくて何か書いててよ。それを表装するのを楽しみにする方が仕事が捗るからさ」

 言葉を一度切り、こちらを向く。その瞳は真っ直ぐで透明で、水のように綺麗だ。

「君が書いたものをずっと俺に表装させてくれる?」

 うん、と大きく頷くと「良かった」と安堵の息を吐きながらに彼ははにかむ。私もつられるように思わず笑った。

「ずっと書き続けるからね」

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