第18話 思い出(四)
次の日から、一千歌は積極的に灯里に話しかけるようになった。
学校にいるときも、帰り道も、灯里がひとりでいるところを見かけるたびに声をかけた。
灯里は最初、戸惑ったように一千歌を見ていた。
それでも少しずつ心をひらいてくれたのか、少しずつ話をしてくれるようになった。
ふとした瞬間に彼女が笑顔をみせると、一千歌の心もあたたかくなった。
ある日の帰り道、公園のベンチの近くで、一千歌はなにげなく灯里に聞いてみた。
「ねえ、あかりちゃんって、いまどんなことに興味があるの?」
風が裸になった公園の植木の枝をゆらした。
しばらく沈黙が続いたあと、灯里が小さな声で答えた。
「……三角形」
「えっ、三角形?」一千歌は口もとに手をあてて、くすくすと笑った。
さんすうの時間にならった、あの三角形のことだろうか。
「三角形と、神さまって、似てる」
一千歌は首をかしげた。「……どういうこと?」
「でも、ちがう」灯里は相変わらず無表情だ。
「うん……」
「この世のどこにもみえないのに、あると信じてる人も多いから」
「神さまはともかく、三角形はみえるんじゃない?」
神さまも、本当はいるんだけどね。
そう思いながら、しゃがみこんで、指で砂の地面に三角形を描いた。
一千歌の指が黒くなった。
「……線がガタガタ」
「こまかいなあ」
一千歌は今度はもっと慎重に、丁寧に描いてみた。
だけど、それでも灯里は納得がいかないようで、首をふった。
「同じ。本当の三角形じゃない」
「うーん……」 一千歌は少し考えてうなずいた。「定規を使って、鉛筆でノートに描けばいい?」
「虫めがねで見れば、鉛筆の線も粉みたいでガタガタなのは同じ。ボールペンでも同じ」
「じゃあ、どうやったら本当の三角形になるの?」
灯里はしばらく目を細めたあと、空をじっと見上げた。
「この世のどこにもない世界にしか、ないと思う」
「どこにもない世界?」一千歌は目を丸くして聞き返した。「さんすうの世界、みたいな?」
「たぶん……」
一千歌は、彼女の言葉におどろいた。
灯里の考えは哲学のようで、同じ年齢の子どもの発想とは思えなかった。
でも、一千歌は知っていた。
神さまは存在するし、見ることもできるということを。
あかりちゃんって、神さまに興味があるのかな……。
まわりの大人は信じてくれなかったけれど、やさしい蛇の神さまの話をしてみようかな?
けれど、一千歌の考えをさえぎるように、今度は灯里が別のことを口にした。
「あと、生きもの」
「あかりちゃん、生きものが好きなんだ! かわいいよね! 猫とか、犬とか!」
「……好き」
そうつぶやく灯里の視線の先には、公園の植木があった。
木の枝には、カラスが止まっている。
灯里はコートのポケットからフリーザーバッグを取り出すと、なかに入っていた小さなものをカラスのほうに向かって投げていた。
「あかりちゃん、それなに?」
「くるみだよ。いちかちゃんもあげる?」
「うん。……くるみ、いつも持ってるの? カラスにあげるために?」
「今日はたまたま」
「そうなんだ……」
カラスのためにくるみを準備してるなんて、ちょっと変な感じだ。
少し戸惑いながらも、一千歌は灯里にくるみをもらって、小さくちぎってカラスの近くに投げてみた。
カラスは少し警戒したようすを見せながらも、地面に降り立つと、おどおどしながらこちらに近づいてきた。
くちばしでその欠片をつまみあげて飲み込むと、ちらりとこちらを見て翼を広げ、あっという間にどこかに飛んでいってしまった。
翼が風を切る音が耳に残った。
カァ、という短い鳴き声が、
「あれは、ハシブトガラス」灯里がいった。「きれいな声で鳴くのはハシブト。ハシボソはにごった声でガーガー鳴く。ハシボソはきれいに鳴けないけど、ハシブトはガーガーもできる。……だから、あれはきっとハシブトガラス」
「くわしいんだね」一千歌は素直に感心していた。
「別に……」
灯里は褒められて、なんだか照れているみたいだった。
目をそらしながらも、口元が少しゆるんでいる。
一千歌は、ハトは平和を運ぶ鳥で、カラスは不幸を呼ぶ鳥だと聞いたことがあるのを思い出した。
でも、そんなのいったい、誰が決めたんだろう?
「カラス、好きなの? あかりちゃんの名字、烏羽だもんね」
「好き。かわいい」灯里はあまったくるみをもぐもぐと食べながらいった。
「生きものなら、なんでも好き?」
「だいたい好き……」
一千歌も、ひとつもらって食べた。
下校の途中なので、先生にバレたら怒られるやつだ。
灯里が口元をわずかにゆるませながら、植木の近くにある石をどけると、今度は数匹の
冬の寒さで動きが遅くなった蟻を、灯里は丸い目でじっと見つめていた。
「踏みつぶしてみよう」
低く澄んだ声でそうつぶやくと、彼女は何のためらいもなく蟻のほうへ足を動かした。
ぎょっとして、一千歌はあわてて灯里を羽交いじめにした。
灯里の足がわずかに浮いて、黒くて長い髪が鼻先をくすぐった。
「この流れでどうして!?」
「……?」灯里は不思議そうな顔をしていた。
「どうしてそんなことするの!?」
「こうすれば、少しは神さまの気持ち、わかるのかなと思って」
「なに言ってるのかわからないし、かわいそうだよ!」
「……そうだよね」
灯里はなぜか落ち込んだように、視線を落としていた。
神さまは、もっとやさしいのに……。
そのことを教えてあげたいと思いながらも、一千歌は結局なにも言うことができなかった。
†
次の日の朝、一千歌は少し早めに学校へ向かった。
薄明かりにつつまれた教室には誰もおらず、ひんやりとした空気が漂っている。
灯里の机に目を向けると、天板には誰かが鉛筆で書いた落書きが残っていた。
一千歌はため息をついて、筆箱のなかから取りだした消しゴムをこすりつけた。
落書きを消している途中で、教室の引き戸が開く音がした。
教室に入ってきたのは、灯里だった。
「おはよう」一千歌は笑顔で声をかけた。
「……おはよう」
灯里の声は少し眠たそうだった。
つい、彼女のまっすぐな髪に目が向かう。
一千歌の髪は、子どものころに一度生え変わったあと、茶色がかった癖っ毛になってしまった。
それが嫌なわけではないし、むしろ今ではそのやわらかな手触りがなじんでもいる。
でも、灯里のきれいな黒髪を見ていると、少しだけ羨ましい気持ちも湧いてくる。
嫉妬とも違う、手のとどかない、憧れに似た感情だ。
無意識のうちに指先で自分の髪をいじりながら、一千歌はほんの少しだけ視線をさげて、灯里のほうを見る。
灯里は直立したまま、まっすぐこちらを見つめていた。
「どうしたの? ぼんやりして」
あかりちゃんは、いつもぼんやりしてるか。
つい余計なことを口にしそうになったけれど、その寸前のところで飲み込む。
すると、彼女がボソリと言った。
「いちかちゃんの髪、ふわふわで、おひさまに溶けて、天使みたい」
不意をつかれるようなその言葉に、息をのんだ。
一千歌の背後には窓があって、朝日がやわらかく差し込んでいた。
顔がじんわりと熱をおびるのを感じて、反射的に灯里から視線をそらす。
「な、なにいってるの。あかりちゃんったら」
言葉を返しながら、髪をくるくると指先に巻きつける手が止まらない。
わたしがあかりちゃんの髪を見て羨ましいと思っているときに、あかりちゃんはそんなこと考えてたなんて……。
一千歌はなんだかそれが嬉しくて、照れを隠すのに必死になっていると、今度は灯里がべつの場所をみているのに気がついた。
さっきまで一千歌が消しゴムでこすっていた、彼女の机だ。
「……ひどいよね。どうしてこんなことするんだろう」
一千歌の言葉に、灯里は顔をあげることなく、淡々と答えた。
「ただの、本能だよ」
「え?」
「ある程度、人が集まれば、いじめが発生するのは仕方のないこと」
「そうなの?」
「うん。子どもなら、なおさら。自分たちと違うものを排除しようとするのは、動物が群れをまもるための本能みたいなもの。人間だって、動物だから……」
灯里の言葉はあまりにもあっさりとしていて、熱も重さも宿っていなかった。
はじめからすべてをあきらめたように、目の前に転がった事実を冷たく述べるだけ。
思わず、かえす言葉を失ってしまう。
「最初から、なにも期待してない。期待してないから、痛くない……」
「あかりちゃん……どうして、そんな」
「みんな、なにをそんなに期待してるんだか……」
灯里はそういって自分の机にランドセルを置いた。
「この世は、しょせん、死から死へと、ただとおりすぎるだけの場所なのに」
「そんなこと、ないと思うよ」
灯里は、ほんの少し間を置いて続けた。
気のせいか、ちょっと、むきになっているようにも見えた。
「この世には、なんの意味もない。どんなに期待したって、どうせいつか、ぜんぶ、台無しにされるだけ」
一千歌の胸で、何かがくすぶりはじめた。
灯里が本当になにも期待していないのなら、自分のことも無視しつづければいい。
話をしてくれたり、笑顔を見せてくれたりするのは、彼女がつながりを求めているなによりの証拠じゃないのか。
生きものが好きだと、灯里が楽しそうにいっていたことを、一千歌は思い出した。
口ではこんなことを言っていても、それが、灯里の本当の姿じゃないのか。
灯里は、本当は、あたたかくてやさしい子じゃないのか。
一千歌が灯里の顔を見ると、彼女は自信なさげに目をおよがせていた。
自分の言葉に、迷いがあるみたいに。
わざとわがままを言って困らせて、ちがう、と誰かに叱ってほしがっている子どもみたいに。
――あかりちゃんがいうほど、この世界は冷えていないと思うよ。
「どうしてそんなことを言うの?」
一千歌の心から直接こぼれ落ちるみたいに、そんな言葉が自然と口から出た。
みんな、命があるのが当たり前すぎて、大切だと思えないのかもしれない。
でも、一千歌にとって、生きるのは簡単じゃなかった。
こうして元気に学校に通えていることだって、一千歌が何度も夢にみて、やっとの思いでようやくつかんだ現実だ。
灯里の無機質な言葉で、自分や両親、やさしかった病院の人たち、それらすべてを踏みにじられたみたいで、もう、なにがなんだかわからない。
「あかりちゃんは大好きだけど……その言葉は、好きじゃない」
灯里が、はっとしたようにこちらを見るのがわかった。
きれいな瞳が、一瞬、動揺したようにゆらめく。
なにも言わない彼女に、一千歌は言葉をつづけた。
「最近、仲よくなれたと思って、うれしかったのに……ぜんぶ無駄?」
「…………」
「友だちだと思ってたの、わたしだけなの……?」
「……別に」
彼女は気まずそうに、少しだけ目をそらした。
灯里の言葉を聞いて、一千歌の目の前が、一瞬、暗転した。
ぽっかりとあいた心の穴に、冷たい水のような悲しみが広がっていき、胸をきつく締めつける。
いい返そうとする言葉はのどの奥で消えて、かわりにこみ上げてきたのは涙だった。
でも、ここで泣いたら負けだ。
自分は間違っていないのだから、負けちゃダメに決まってる。
「……そう」
ふう、と肩で大きく息を吐いた。
ぎゅっとこぶしを握りしめ、こぼれそうになる涙を必死にこらえる。
そして気がつけば、勝手に口が動いていた。
「あかりちゃんなんて、知らない。……もう、けんかだよ、けんか! 絶交だよ!」
一千歌の声が、ふたりだけの朝の教室に響いた。
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