◇◇◆◇◇

◇帰ってきた街娘


そんなこんなで日々が過ぎ、私は義父や義兄と一緒に釈放され自宅へ戻った

私が予想した通り二人は宮廷に詰めていて、内乱の幕引きとなる降伏宣言を

他の貴族たちと議論して決断、突入してきた反乱軍部隊に投降したとのこと


私は二人の家族だからと、二人の処遇が決まるまで留め置かれたものらしい


それでお花ちゃん一人寂しそうだしお喋りでも、的な「尋問」だったのかも

するとお役目の話を避けたのも、きっと私に思い出させないようにするため

あの公衆浴場での皆の私へのかわいがりようからして、その可能性は高そう



釈放されたとはいえ、さすがに私と違い二人は生まれつきの貴族だけあって

厳しい取り調べを受け、保有資産や所領の経営状況などにも捜査の手が入り

帳簿や日誌の記載、他の貴族の証言などとも詳細に比較調査されていたとか


聞くところによると、この証言の食い違いがあると本当に厄介だったらしく

全員の証言が噛み合うまで何度も取り調べられ、拘留も長期に渡ったという

義父たちの拘留は二週間ほどだったけど本物の尋問は精神的に辛かったとか

ただ食事や入浴など私と似た条件だったようで体調に問題なかったのは幸い

反乱軍の制圧部隊が来た義実家も義父の言いつけ通り無抵抗で全員が無事だ


なお、私に何も言いつけてなかったのは小娘だから平気だろうとの判断とか

戦場を放棄してよいとは聞いてましたけど逃げたら逃げたで色々大変でした

それと義父上、私に対する小娘扱いは相変わらずですか、まさか今後ずっと?


釈放の日には義母や義姉だけでなく、育ての父までも迎えに来てくれていた

城下は城壁の瓦礫も障害物も片付けられ、戸口や窓に打ち付けられてた板も

釘跡だけになり、人々が普通に出歩いて籠城前と大差ない景色が戻っていた

ただ街行く人々に、以前は見られなかった反乱軍の制服が目立つ点だけ違う


義父の館へ戻ったら私の育ての母と妹と弟、義兄の子たちが出迎えてくれて

二家族全員が無事に再会できたことを祝して、身内でささやかに会食を催す



私たちが収容されている間に反乱軍の代表的な部隊が華々しく行列を作って

凱旋入城してきて城下の人々も歓迎したというけど、どんな思いだったのか


凱旋と同じ日、夜になると姫の葬儀が反乱軍首脳部の主催で執り行われたし

翌週には早々に戻れた貴族たちが中心となって大公の葬儀を控え目に催した

どれも居合わせることができなかった私は、大事な場面を見逃した気がして

激動する時代の流れに取り残されたような感覚、とても残念に思ったものだ


決戦の最中、大公の宮殿や私邸にまで石弾が撃ち込まれて一部は倒壊や破損

ちなみにそれは私が捕虜になった頃らしいけど、気付く余裕なんてなかった

残った部分も倒壊の恐れがあるため立入禁止、それゆえ宮殿前の広場に姫の

死を悼む祭壇が設けられ、主に反乱軍関係者が列をなして献花に訪れていた


一方で、大公のための祭壇も宮殿の奥にある私邸の裏口側広場に設けられて

いたけど訪れる者は少なく、多くの人は遠巻きに眺めるだけで去っていった

それでも人目を避けて夜にでも訪れたか、いくばくか花が手向けられている


道を違えた父娘、両者を支持する者たちの間にも禍根が残っている可能性を

考慮して場所を離し、それぞれに並ぶ人々の列が交わらぬようにとの配慮か

ただ大公側の将兵たちは武装解除されており、どちらも警備は反乱軍側の兵

つまり反乱軍首脳部も一応は大公へ花を手向ける行為を禁じていないのだな


私はどちらにも相応の敬意はあるけど、どちらの祭壇にも立ち寄らなかった

親しい間柄でもなかったし、傀儡の姫としては重視すべき戦死者が別にいる


それは私の護衛任務で命を落とした傭兵たちや目の前で死んでいった兵たち


正門近くで戦死した人々が葬られた墓地は城壁沿い、門より少し西のあたり

内乱の戦死者たちのために献花台が設けられ、多くの花が手向けられている

その片隅に私も持参した花束を添え、皆のことは決して忘れないと心に誓う


他の傭兵たちは傷だらけになっていたものの、ほとんど全員が生きて戻った

いずれも最後は捕虜となり、陣地で治療を受けた後に尋問を受けたとのこと

隊長さん曰く、私の命令もあったので負けを認めたら死なずに投降したのだ

と尋問で正直に答えたところ、雇い主である義父一家と同時期に釈放されて

一部の重傷者は反乱軍陣地の野戦病院で治療中だけど治れば帰れるとのこと


そんな報告のため勢揃いして義父の館に私を訪ねてくれた傭兵さんたち一同

負けたとはいえ戦えるだけ戦い抜いたぞと、誇らしげな皆の表情に私も安堵

私のような小さくて無力な姫であっても、彼らが自分たちの戦いを全うして

かつ生還しようと思うくらいの、ちょっとした心の支えになれたのならいい



私たちが戻って以降、育ての家も義理の実家も色々と慌ただしくなっていた


足掛け二年に及んだ大公国の内乱が終わって、反乱軍首脳部は姫のほか一部

有力者を失ったものの、残りは姫の遺志を継いで新しい国作りをするという

そのまさに姫の遺志により、義父をはじめとする貴族たちのほとんどが命を

取られることなく、所領や資産の大半を没収されつつも家の存続を許された


義父一家も、城下の近郊や裾野地方など各地に持っていた所領の全てを失い

同時に貴族の地位も失ったから、貴族っぽい装いも家族全員が早々に捨てて

服装も商家と同様、義父は髭だけ何とか頑張ってるけど髪型はさっぱりした


というか貴族の男性たちのあの髪型、付け毛で嵩を増してたと初めて知った

そういえば貴族の女性たちも毛量が足りないとき付け毛を使うと聞いたっけ

付け毛を使わなくなった頭が少し寂しいのか、義父は帽子を好むようになり

数年の間には相当数の帽子を取り揃えて使い分けるようになったりしていく

その義父にならって義兄も帽子を好んで身に付けるけど、貫禄が今一つかな


一族の手許に残されたのは城下の屋敷、つまり材木町にある本邸だけになり

荘園収入がなくなる上に、大公国時代の貴族は免除されていた様々な税金も

課せられることになり、今後は屋敷の一部を間貸しして収入に充てるという

それでも生活水準を下げる必要に迫られ、使用人や部下、もちろん傭兵たち

まで解雇せざるを得なくなったから、そういう意味でも庶民と同じになった


こんな生活苦に陥っても義父一家は雇っていた責任を果たそうと、使用人の

ほぼ全員に新たな働き口を斡旋し、傭兵たちにも育ての一家をはじめとする

商家に紹介しては店舗や商隊などの警備といった仕事を探して手を尽くした

傭兵団を丸ごと抱えるほどの職場はなかったけど、全員が再就職できるまで


ちなみに育ての家では、一時期こそ郊外にある家業の店舗兼倉庫が反乱軍に

接収されて営業停止状態だったものの、人員も品物も店舗も全て無事に戻り

営業できなかった期間分の補償も与えられ、商売も以前と同様に続けていい

と許可も出たので再興しようと忙しい日々を過ごしており、そんな実家には

勤め先を失った義父や義兄も事務仕事などを手伝い、育ての父が給金を払う


内乱で没落した数多くの貴族の中には、生活再建に苦しんだ者も多いという

けど義父一家は幼馴染みの商家がいたおかげで何とか生活を立て直せそうだ



私はといえば、義父との養子縁組が解消されて再び実家へ戻ることになった

親たちが話し合い、没落貴族より商家の娘の方が良かろうと判断したそうだ

けど養子になったときと逆になっただけ、ちょくちょく会えるから心配ない

一時的にでも貴族の一員、傀儡の姫とはいえ女騎士の姿にもなれた、貴重な

経験を与えてくれた義父や義母、義兄たちは、私にとって変わらず家族同然


特に義母や義姉は以前から育ての母と仲が良くて、どちらかの家に集まれば

私や妹も含め女どうし一緒に料理を作ってきたし、今後もそれは変わるまい

その後も義父たち一家は私のことを、家族の証という意を込めフロラと呼ぶ

あと義父一家から実家に雇い主を変えた傭兵たちにも姫様と呼ばれたりする


でも私は、貴族令嬢から街娘に戻った後で一つ大事なことに気付いてしまう

宮廷の文書館に入れる資格を失った、そもそも傀儡の姫のお役目が忙しくて

当時それどころではなかったし、その後も色々ありすぎて完全に忘れていた


思い返せば養子縁組の直後くらいの頃、義父が私に約束してくれていたのだ


「それにしても宮廷文書館で資料を閲覧したいとはな、フロラは面白いことを言う」

「いえ義父上、私は本好きくらいしか取り得がありません。せっかく貴族の地位を頂いたのですから、これを見ずして何が貴族か、と思っているくらいです」

「はっはっは、そこまで申すか。まさに無類の本好きよのう。

 ならば内乱が終わって平和になったとき、この大役の褒美として必ずや許可を得ねばならぬな。そのあかつきには我が直々に案内いたそう」

「ありがたき幸せ。それこそ私にとって無上の褒美です」


みたいな会話をしてたのに、それを忘れるなんて私としたことが一生の不覚


恐る恐る義父に相談してみたら、内乱で敗北して貴族たちも特権を全て失い

宮廷の文書館も反乱軍の後身である暫定政府が管理することになってしまい

義父たちでさえ自由に閲覧できなくなって約束も果たせなくなったとのこと


「空約束をしてしまい、恥じ入るばかり」と、申し訳なさそうに言っていた

けど義父上の責任ではないです、これは時代がそうなってしまっただけです



その後、義父や義兄など宮廷派の元貴族たちが閲覧権限の回復運動を展開し

何カ月も経ってようやく、汚職や不正といった前科がないなどの条件つきで

暫定政府は一部の元宮廷貴族たちにも宮廷文書館の閲覧を認めることになる

まあ実際問題、密林の如く書架が乱立してるという文書館に踏み込むために

案内人が必要だという、暫定政府側の役人たちの切実な事情もあったらしい


けどこれもほどなく条件が変えられ、暫定政府や新政府で官僚や議員などの

職を務める者たちか、個別に許可を受けた研究者などに限定されたのだった



代わりと言えるかどうか、と義父が提案してくれたのは、貴族学校の図書館


大公国の貴族の多くが学んできた貴族学校は国内に複数の校舎を持っている

その中でも城下の本校は高等教育課程も併設、図書館も充実の蔵書だという

城下の貴族学校高等課程は、大公国の最高学府として多くの宮廷貴族が学び

義父や義兄もここを卒業して、宮廷貴族としての第一歩を踏み出したそうだ


ちなみに各校には寄宿舎も併設、在地の地方領主子弟でも学業に専念できた

寄宿生の多くは領地経営の基礎などを教わる中等教育課程で卒業したけれど

優秀な者には高等教育も認められ、さらなる栄達を果たした例も少なくない


もちろん以前は原則として貴族しか入学できない学校で、例外的に国教会の

若手の僧侶などが学ぶことを許される程度だったけど、内乱後は身分条件が

撤廃されて出自を問わず優秀な学生を受け入れる学校へと変貌しつつあった

さらに数年ほど経つと官僚育成機関のような位置付けの学校になっていって

名称から「貴族」の語が消え「城下学院」のように地名を冠するようになる


まだ私は商業組合の女子学校の卒業前、つまり中等教育課程を終えてなくて

本来であれば高等教育に進む資格はないし、入学試験に合格する必要もある

けど義父の人脈で推薦状を得れば高等教育課程の講義を聴講するくらい可能

そして聴講生になれば学校付属図書館も自由に利用できる、というのだった


大して役に立てもしなかった傀儡の姫の私にとってみれば充分すぎる褒美だ

この義父の提案に私が間髪も入れず即答したことは、言うまでもないだろう




◇貴族学校の聴講生と講師たち


私が貴族学校で聴講していた期間は家政学校の卒業前後、約一年間に及んだ

貴族学校は内乱後も閉鎖されることなく再開し、庶民にも門戸を開いたので

私も通えるようになったし、暫定政府から補助金が出たので学費も安くなり

ひとまずは親たちに出してもらっていたけど、後に臨時雇いの仕事などして

稼いで全額を返済しているので、一応は自力で学ぶことができたと言えよう


貴族学校は初等部と中等部の生徒たちにお揃いの制服を指定しているものの

当時の貴族学校は男子ばかりで、そもそも女子用制服を見る機会はなかった

ちなみに商業組合の学校では、数年後に制服を指定することになるのだけど

私の在学中には過剰な装身具を禁止したり、通学鞄が指定だった程度だった


そして貴族学校でも高等教育課程では服装も自由だったので、聴講生の私も

家政学校の通学時と同じく普段着、当時は反乱軍にもらった服をよく着てて

貴族学校は男ばかりだったし、大概は反乱軍の少年兵用の制服を選んでいた

他の学生は家が没落してもなお頑張って通い続ける元貴族が結構いたものの

反乱軍に所属していた職員や准士官も学んでいて軍制服の姿も多かったので

少しは目立たなくなるかなと、まあ完全には紛れられないことは承知の上で


学生の姿はもちろん、貴族学校で教える内容も、内乱を経て大きく変わった

そもそも講師たちも多くは貴族だったから、教壇を去った者が少なくないし

残った元貴族の講師も反乱軍の知見を取り入れるなどして内容を一新させた

他にも元反乱軍の講師や、伯爵領など国外からの新たな講師も加わっている

といっても私が当時選んだ講座の大半は元貴族の講師が手掛けるものだった


貴族学校が講義内容を一新して講義を再開し始めたのは、内乱から約半年後

四八二年の年の瀬に差し掛かろうとする頃だったから、私にとっても好都合

まあ実のところ私は講義再開より前から聴講生として登録してもらっていて

その日のうちに図書館へ踏み入って時間を忘れた、というのはここだけの話



貴族学校本校は、宮殿にも近い上屋敷町の一角にあって割と広い敷地を持ち

中庭を囲むように、講義棟と教職員棟、図書館と学生寮の四棟が並んでいた

講義の基本体系は法学、政治学、経済学、軍学など、大公国時代と大差なく

その中の、さらに細分化された内容の講座から、いくつかを選んで受講した


私が聴講した中で学ぶところが多いと感じられたのは、意外にも軍学だった

まあ講義を聞きつつ、傭兵さんたちと一緒に活動していた頃を思い出しては

遅まきながら、部隊を率いる者として如何にあるべきだったか考えてたので


捕虜時代に女傑さんから言われたように、たしかに私は初陣だったのだけど

やはり傀儡の姫は傀儡でしかなかったのだなと、専ら反省してばかりだった

戦略や戦術を知るにつけ、もっと上手いやりようがあったはずだと思い知る

十歳のときのお菓子作りと同じく、私の学びには実体験が重要であるらしい

けれども人の命が懸かっていたのだから、一家の台所を汚すのとは訳が違う

これからの人生、経験のないことに対して、もっと準備しておく必要がある



軍学講師は元宮廷貴族で、大公に軍事面の助言を行う軍師の一人でもあった

義父とは旧知の間柄で、当然ながら傀儡の姫フロラのことも知っている人物


反乱軍の武装蜂起を知った軍師殿は、すぐさま大反攻の作戦案を宮廷に上程

彼が示した策は大半が採用されたものの、自身が戦場に出ることは許されず

宮廷に残り、現地で柔軟な戦術運用ができなかったことを今も悔やんでいる

「もし私が現地におれば反乱軍が仕掛けた罠とて見抜いたであろうに」とは

言うものの、反乱軍の戦略や戦術、そして体制について、高く評価している


「反乱軍の体制は、とても興味深いものだよ。伯爵領の軍を参考にしつつも、全く異なる独自の発想で整備された、これまでにない組織だ。しかもそれが細部末端に至るまで、実によく機能している。学ぶところは非常に多い」


と、講義再開の冒頭から蕩々と語り出したのを、私も興味深く聞いたものだ



曰く、反乱軍は大反攻の動きを早くから察知、これに備えて陣地を構築して

無数の罠を仕掛け、ベスティア姫や影武者を前面に立て大公側を誘い出した

あの女傑さんみたいな女騎士が何人もいたというから、きっと影武者だらけ

もちろん姫自身も囮として目立つ櫓の上に立ち、騎士たちを挑発したそうだ


まんまと乗ったのが、大公の甥をはじめ血気も盛んな大公側の騎士や兵たち

総大将ベスティア姫を捕えたならば間違いなく一番の大手柄だから気も逸る


初回の総攻撃では反乱軍にも大きな打撃を与えたというけれど、大公の甥は

反乱軍の重鎮であった魔術師に一騎打ちを挑んだところ返り討ちに遭い戦死

同じく反乱軍陣地へ突撃した騎士たちも、多くは反乱軍の罠で命を落とした


その有様は、よく狩猟趣味の貴族が言う「忠実ならざる猟犬」だったそうな


「良き猟犬は、鳥や獣を主人の許へ巧みに追い立て、獲物を守って主人を待つ。

 普通の猟犬は、追い立てることは下手でも、やはり獲物を守って主人を待つ。

 しかし忠実ならざる猟犬は、獲物を追い立てることを覚えても、獲物を守ることはせぬ。どれだけ教え込んでも大事なことは覚えず、主人に隠れて獲物を食ってしまうことも多い。大公の軍において、彼らはまさにそのような存在であったと言えよう。

 しかし避けられぬことでもあったろうな、大公国において、これほどの大軍を発した例は何代も前から絶えてなかったこと。その軍勢を御しきれなかったことが敗因と言えよう。反乱軍とは違ってな」


数日後には総大将である大公の弟が自ら最前線に出て二度目の総攻撃を敢行

例年より早く雪が降り始め、兵糧も乏しくなりつつあった大公側の陣地では

第一回総攻撃の失敗もあり離脱者も増加、軍勢の維持すら困難になっていて

攻めてる側のはずなのにむしろ追い込まれたような雰囲気になっていたとか


対する反乱軍は新たな罠を用意して待ち構えていて、総大将をはじめ有力な

騎士たちのほとんどが、やはり次々に誘い込まれては討ち取られてしまった


策を献じた軍師も、大反攻が惨敗に終わった責任を問われて自宅謹慎となる

ようやく処分が解かれたのは、正門前でベスティア姫が降伏を勧告した後だ

その時点で打てる手などないと判断した軍師殿、徹底抗戦論に強く反発して

宮殿に突入してきた反乱軍に潔く投降、私の義父たちと同じく捕虜となった


軍学講師の一家は内乱前から軍学一筋で所領の経営も部下に任せきりだった

ただ私の義実家と同じく所領を委ねた部下には領民からの収奪を戒めており

大反攻から長らく謹慎していたこともあって、反乱軍による尋問も軽く済み

むしろそこで反乱軍の将兵たちと親しくなって彼らの軍学を色々と教わった

おかげで反乱軍の戦略や戦術を知るに至り、再び軍学講座を持つようになる


こうして得た新たな知見に基づく講義の冒頭が、先程のような言葉になった



反乱軍では志願したり徴募された大公国の民がその兵力の大半を担っていた

けれど、反乱軍首脳部の多くを占めたのは伯爵領で教育を受けた士官たちだ


士官とは、伯爵の軍や行政機関などの要職を担うべく選抜された人材のこと

貴族身分は伯爵領にも存在するものの、大公国と違って実質的に特権はない

身分ではなく当人の意欲や能力次第で軍事や行政などを担わせるのが伯爵領

士官の階級はそれらの要職を得る足掛かりであり、栄達の第一歩となるのだ


また士官には及ばないものの教養や経験を積んだ、准士官という階級もある

彼らも中級職員として重用され、役目を果たせば安定した生活が可能という


伯爵は直々に士官学校を運営し、士官の候補となる人材の育成に努めており

そこでは身分や性別を問わず優秀な人材を受け入れ教育や訓練を施している


この士官学校に、約四十年前の大公による裾野地方の併合で所領を追われて

伯爵領に亡命した領主たちの子や孫が学び、優秀な人材に育っていったのだ

大公国から出奔してきたベスティア姫も、伯爵の庇護下で客分士官となって

士官学校で学生たちの指導などにも携わり、亡命領主たちとの接点ができる


裾野地方の最後の盟主を母に持ち、裾野地方を奪った父の大公に逆らう姫は

亡命士官たちにとって、まさに主君として相応しい存在であったことだろう

内乱勃発までの約十年間、亡命士官たちは姫を中心として伯爵の依頼を受け

冒険の旅で各地に遠征したり、独自に訓練など行いながら結束を固めていき

主に裾野地方の奪還に向けた作戦を練るなど、様々な準備をしていたらしい


この長い準備期間のおかげで、姫たちは軍事組織や行政組織としての体制も

議論を重ねて練り上げることができ、裾野地方奪還に成功した後の大公側の

対応も想定済みで、様々な罠などの対抗策を考案しておくことができたのだ



大反攻を乗り切った後の侵攻の素早さも、まさに反乱軍の体制が功を奏した

士官たちは反乱軍の中で様々な役割を分担し、担当任務に責任を持って臨み

役割の都合や意見の違いで対立し合う場面も少なくなかったとのことだけど

士官たちは本部で頻繁に会合を持ち、他の担当も交えて調整していたという


それから士官たちが分担して担当した任務そのものにも注目すべき点が多い

最盛期には二十万を超えるまでになった反乱軍だけど、実はそのうち戦場で

戦う将兵は半数にも満たず、残る大半は前線を支える様々な任務を担当した


その一部は私も知ってる、投石機や攻城櫓などを開発した技術部門の人たち

それから敵方の弱点を探る情報部門に、負傷兵の治療に当たる医師や看護婦

様々な書類仕事をしてた事務職員も、きっと相当な人数が働いていたはずだ


他にも、部隊間の連絡を担う伝令や、前線に近いところで活躍した斥候部隊

軍で使う膨大な物資の輸送を担う輜重隊、陣地や道路を構築修繕する工兵隊

さらに犯罪者や、悪事を働いた将兵らを取り締まって軍の規律を保つ憲兵隊

勢力下に収めた地域を統治し税を徴収する軍政部という部署まであったとか


兵站が充実していたおかげで進軍した先でも民の生活を圧迫することはなく

憲兵隊の活躍で治安も改善、噂を聞いた民は反乱軍を歓迎し、勢力は急拡大

きっと軍政部の統治も、これまでの領主に比べて民を慮ったものだったろう

大公国教会を味方につけたことも、反乱軍の財務改善に役立っただけでなく

税収管理をはじめ国の経済活動の根幹を握るという大きな意味を持つものだ


反乱軍は内乱後すぐ暫定政府を発足させ、社会の混乱もほとんどみられない


「まるで、大公側と戦いながら新しい政府を作っていたかのようですね」と

教室の最前列で独り言を呟いたら、そこに軍学講師さんが反応してしまった

(私は背が低いだけでなく座高も低いから前に人がいると何も見えなくて)


「ふむ。興味深い洞察だな、フロラ君」

「あ、いえ。今のは私の単なる思いつきです。

 反乱軍は世直しを目指していたとも聞いたので、関係あるのかも、と」

「とんでもない、一考に値する。

 亡命士官たちは少なくとも裾野地方の奪還を目指していたのだから、奪還に成功した後の統治体制まで考えていたとしても不思議ではない。大公のそれより良い統治体制をな。

 だが、単に理想的な軍組織を目指した結果、そのようになった可能性も考えられるな。ではいつから、その世直しを目論むようになったか、そこが問題だ」

「たしかに気になります。ですがそこを突き止めるには、反乱軍の旗揚げ前からの関係者に当時の事情を聞かねばならないでしょうね」

「そうだろうな。いずれにせよ政治はこの講義の範囲外。私にとっても専門外ゆえ即答は控えよう。続きは、また別の機会に」

「すみません、話の腰を折ってしまいました」

「いや構わぬよ。フロラ君だけでなく他の学生も、気になる点があれば随意に質問してくると良い。講義の後でもな」



というわけで、もう少し対談したくて講義の後に少し時間を割いてもらった

元軍師の軍学講師は義父より年上かなと思ったけど、実はほぼ同年代だった

大反攻の失敗や謹慎処分による心労が、見た目を老けさせたのかもしれない

いや、義父の薄毛傾向に対し、軍学講師は白髪になるのが早かっただけかも


彼の謹慎中の館に、かの猛禽の騎士が何度か訪れてきたことがあったという

猛禽の騎士の一族は帝国時代から大公宗家に仕え続けてきた武辺の忠義者で

軍略の実践家としても知られ、軍師たちとは頻繁に議論を交わしていた間柄

その縁から、反乱軍との戦い方について、しばしば助言を求められたそうだ


大反攻では二度の総攻撃に参加、数多くの敵を倒し罠にも陥らず無傷で帰還

総大将を失い敗走する兵たちをまとめ上げつつ殿軍まで務め、城下へ戻った

猛禽の騎士は、大公への報告を済ませると軍師の謹慎処分を知って館を訪問

反乱軍の情報を軍師に伝え、大公軍の体制建て直しの策を相談しに来たのだ

返り血と泥にまみれた鎧や外套もそのまま、時間を惜しんでいた様子だった


大公の弟や甥、多くの騎士や兵士を失った、取り返しようのない敗北に対し

少しでも挽回したいと、軍師の助言も受けつつ反乱軍の戦い方まで見て学び

大公国の騎士にあるまじき行為とされる奇襲や攪乱作戦まで展開していった

その猛禽の旗の下に主を失った騎士や兵たちも参集し、最後まで戦い続けた


けれど他の騎士たちは伝統的な戦い方に固執、ほぼ孤軍奮闘を続けた猛禽は

城下での籠城の頃には、見事だった赤毛にも白いものが目立っていたそうだ


彼は私の義兄に近い年齢だったと聞いているから、どれほどの苦闘だったか


「おそらく、大公を守るため命を使い切る覚悟だったのだろうな。所領も館も、家財までも売り払って、軍資金に充てていたよ」

「立派な武人でした。私も少しだけ、その戦い振りを目にしたことがあります。

 騎士の伝統的な戦い方を曲げてまで戦い抜こうとしたことも、騎士としての生き方を貫かんとする覚悟ゆえ、と思うと納得です」

「しかも、かの騎士には息子と娘がいたのだが、まだ十歳足らずで戦場には立てぬため、妻とともに侯爵国にある妻の実家へ送ったと聞いている。人質にでも取られたら、それこそ大公の騎士として恥だから、とも言っていた」

「今となっては、反乱軍が人質を楯にするようなことはしないと考えることもできますが、当時はそのような認識に至ることもなかったでしょうね。だとしたら、最後まで役目を果たすため、そして家族を守るためにも、止むを得ぬ選択だったはず……」


そして猛禽の騎士は大公の宮殿の前で、ついにその最期を迎えることになる

彼を倒したのは、辺境の領民から志願した叩き上げの歩兵隊長だったそうだ


志願兵たちは反乱軍の装備と訓練、そして実戦を通じて、強さを手に入れた

反乱軍では戦闘のたびに教訓を訓練内容や部隊運用に反映させる体制を整え

二年足らずの間に精強な軍勢を作り上げたのだろうと、軍学講師は推測する


いずれにせよ、反乱軍が勝利した要因は、単なる軍略の差だけではなかった

でも、大公国全土を巻き込む内乱でなく、もっと穏当に世直しできるような

そんな平和な歴史であれば良かったのにと、ついつい考えてしまう私だった



内乱の直接のきっかけが辺境領主にあったことも、貴族学校の講義で知った

ある領主が下手な領地経営を続けて、とうとう領民が武装蜂起したのだとか


この話をしてくれたのは、かつて領地経営講座を受け持っていた政治学講師

私が内乱前後の政治動向に興味を持ってることを元軍師殿から聞いたそうで

講義の後、図書館で読書に勤しんでいた私に声を掛けてきてくれたのだった


領地経営の講義は暫定政府により打ち切られてしまったものの、この講師は

新たに大公国政治史講座を立ち上げることで講師として残ることを許された

その政治史には私も興味があって聴講していて、もちろん講師とも顔見知り


短時間だけど個別に対話する機会を得て、以前の講義内容を教えてもらった

少なくとも貴族学校では、領民を苦しめる過度な収奪を戒めていたとのこと

ただその実態は必ずしも講座で教えられた通りになってなかった、とも語る


反乱軍でも、領地経営講座を受け持っていた講師には厳しい目を向けていた

この政治学講師も二か月近く尋問され続けて、ようやく解放されたのだとか

地方校で領地経営の実践を指導していた講師たちは、より厳しい尋問を受け

釈放後も暫定政府の役人による監視が続いていて、教壇に戻れない者もいる


「地方校舎の講師の中には、辺境領主の領地経営の実態を知りつつも、自身の近隣の領主だったりしたため諍いを恐れ、それを黙認せざるを得なかった者もいたようだ。私は恥ずかしながら、そういった事情を内乱が終わってから初めて知ったよ。反乱軍の尋問官から聞かされてね」

「かなりの地域差があった、ということですか?」

「そうらしい。いや、あるいは領主ごとの差かもしれない。現時点で私が把握しているのは、一部地方の領主にそれが集中していたらしい、という情報だけだ。自分でもいつか詳しく調査したいと考えているよ。講座を受け持っていた者として責任を感じるのでね」

「お気持ちはわかります。

 今のところ、どのような実態だったとお考えなのでしょう?」

「尋問官から話を聞いて、ある程度の道筋は想像がついている。

 たとえば辺境の零細領主などでは、貴族学校に子弟を通わせられるほど裕福な家は、もともと決して多くなかった。学校で学ぶ機会がなかった彼らは、所領を受け継いでも先代のやり方をほぼそのまま踏襲し続けていたはずだ。しかしこれでは収益を高めることができず、次の代もやはり貴族学校に通えぬままで、学校に通えた領主とそうでない領主の差は拡大していくばかり。

 そして過去何世代も適切な領地経営の指導を受けたことがない領主たちは、もはや領民に対する認識すら我々とは全く異なるものになっていただろう。彼らは少しでも収益を増やそうと独自に“工夫”したり、近隣領主のやり方を参考にしていたようで、中には効果が感じられる“工夫”もあって、広まっていった。そして貴族学校に通えた少数の者たちも、そんな近隣のやり方を、負けじと取り入れていったのではないかと思う」

「“工夫”、ですか……」

「その実態は、より多くを領民から奪い、領民を生きるか死ぬかの状況に追い込むものが、ほとんどであったようだがな。何故そのようにしてはならぬのか、大事な基礎を忘れてしまっていては……」

「そのような考え方の領主では民の反発、さらには暴動を招き、流血沙汰になってしまうのも致し方ないでしょう。そして、この激しい対立を知った亡命士官たちが介入して反乱に繋がった、というわけですか」

「大筋そんなところだろう。ただ、発端となった領主の多くは、領民たちとの衝突で殺し合った結果、ほとんど生き残っていないそうだ。それゆえ反乱軍でも、詳細を明らかにすることができていないと聞いている」



同じく講座を受講していて、個別に話をする機会があったのは経済学の講師

この人も貴族だけど宮廷勤めではなく、かつては城下の街役人だったそうだ

商業組合との関係が深い役目だったため経済にも自然に詳しくなっていって

現役中から独学で学び、引退後さらに学んで、教壇に立つことになったとか


そういった経緯から、もちろん当時の貴族学校の中でも最高齢の講師の一人

むしろ昔の街の事情に詳しく、講座の内容以外にも興味深い話をいただいた

たとえば数十年前には、宮廷貴族の一部が城下を去って多数の空き家ができ

その多くに他の街から移った商家が入っており、私の実家もその一つだとか


街役人は特定の所領がなく俸禄で暮らす下級貴族が担うもの、この老講師は

家督と役目を譲って久しく、反乱軍の尋問もすぐ済んで釈放されてて元気だ

老講師の息子たちも同じく街役人を務め、内乱の末期には城下の決戦で負傷

療養中だけど、回復したら暫定政権下でもいいから復職を願っているそうだ


息子らが傀儡の姫を目にしたと聞いてた老講師は私が気になって話し掛けた

まあ青年男子ばかりの学生の中に一人だけ少女が混じれば何にしても目立つ

けど私が傀儡の姫をしていたことは学生にも教職員にも噂で知れ渡っていて

興味本位で声を掛けてくるような者は少なかったから、その意味では幸いだ


それはともかく、元街役人の老講師によれば、城下の変遷は過去にもあった


「正門前にはな、かつて敵の侵入を妨げるため『馬出』と呼ばれる構造があったのよ。張り出した城壁と堀で、正門を隠すようにしていたそうでな。これはその昔、大公の後継者争いで内乱になったとき、城下に攻め込まれた反省から作られたと聞いている。もし残っておれば、籠城戦にももう少しばかり持ち堪えたかもしれん」

「馬出の効果は軍学講座で教わりました。かつて城下の正門にあったことも言及していましたが、軍学講師は詳しく知らない様子でした」

「わしが幼い頃に親から聞いたのは、二十一代目大公のとき取り壊したという話だ」

「とすると、疫病禍が落ち着いてきた少し後の時代ですか」

「さよう。十八代目の頃には下火になり始め、二十代目で根絶が宣言されておったな。

 そうして人々の営みが再び活発になって二十余年、当時は城下の人口も疫病禍以前を上回るほどになっておったのだ。広場の露店や屋台も増えすぎて手狭になったことから、場所を作りたかったらしい。それで張り出し城壁を解体、石材は馬出の前にあった堀割を埋め立てるために使い、正門前の馬出を大きな広場に作り替えたとのこと」

「あの正門外側の広場って、そういう成り立ちだったんですね。よく買い物してました」

「なら今度行ったとき、ついでに広場の石畳の配列をよく見てみるといい。城壁と堀割の輪郭が残っておるぞ」

「それは面白そうです。ぜひ見てみます」

「しかも、取り壊された壁の名残は、最近まであった。

 決戦のとき倒壊してしまった正門前の左右の塔に、控え壁のような張り出した箇所があったのは覚えているかな?」

「はい。対になるはずの正門裏の左右の塔にはなかったので、ちょっと理由が気になってました」

「その昔、城壁の補修工事をしていた石工が教えてくれたのだが、実はあれこそ、かつて張り出し城壁とつながっていた部分だそうだ。馬出を取り壊したとき、張り出し部分に繋がる石材の突起が塔の方に残ってしまうので、新しく石を積み足して控え壁のような形に作ったものらしい」

「なんと、そういうことでしたか。単なる飾りではなかったのですね」

「ただ、塔の支えにはならんかったようだがな」

「そうですね、残念ながら……」



この元街役人講師の話を聞いて、私もその日の帰りに足を伸ばして正門前へ

内乱を経て、正門前はもとより城壁の外側の景色は別の街のように変わった

正門付近の城壁は損壊した範囲がほぼ丸ごと取り除かれ、大きく開いている

城壁の前を流れていた堀割は上に石を組む工事の最中で、暗渠にするそうだ

かつて門の内と外に分かれていた広場が、一つの大きな広場に繋がるのだな


その石材や露店が所狭しと並んでいて石畳の配列を追うのは大変だったけど

馬出の形状を意識しつつ見ていくと、断片的な配列が脳裏で繋がっていって

なるほど当時この広場の大半を占めるくらいの城壁と堀割があったとわかる


城壁の外側では、土塁が取り除かれて、新たに広い環状道路が作られている

堀割だったところが暗渠になれば、そこも広い道路にしてしまう計画らしい

この二つの環状道路に挟まれるのが、堀割と土塁の間に広がっていた更地だ

今では整地され区割りができて建物も建築中、帯状の市街地ができつつある


土塁跡の環状道路より外側は、反乱軍の陣地がそのまま市街地になっていた

反乱軍が城下を包囲するため陣地を作った際、城壁外にあった住宅の多くは

解体され、商家の倉庫や貴族の館など堅固な建物と、厩舎などは接収された

後に、住宅を取り壊された住民には一定期間家賃無料で住宅が割り当てられ

接収された建物は持ち主に返却となった上、相当額の金銭補償も与えられた

私の実家の倉庫兼店舗も、そういった経緯で父の手元に戻ってきたのだった


畑や牧場だった土地には兵舎や事務所、食堂や公衆浴場、工房などの施設が

建ち並び、それらの建物は内乱が終わっても大半がそのまま流用されている

反乱軍の後身である暫定政府が、元の土地の持ち主に対し接収していた間の

補償として建物ごと譲渡するか、暫定政府が土地を買い上げるかと持ち掛け

どちらにしても建てて一年も経たぬ建物をわざわざ解体することはまずなく

おかげで反乱軍の陣地の区割りがそのまま新市街として定着していったのだ


その新市街へ、私も一人で、あるいは家族とともに行き来する機会があった

そして正門跡広場を通るときには、必ず戦死者たちの墓所に挨拶していった



貴族学校が再開されてほどなく、内乱の終結後初めてとなる越年祭を迎えた

新市街では裾野地方の、いや反乱軍の流儀で祭礼を行ったけど、旧市街でも

ほぼ全ての町内会が以前の賑わいを取り戻そうとするかのように盛り上がる

むしろ荷車や街の飾り付けも派手になって、以前とは大きく変わった印象だ


その荷車行列に参加する者たちの顔触れも、やはり内乱前と少し違っていた

貴族や騎士がほぼいなくなり傭兵たちの姿も大幅に減ってしまったのに対し

庶民たちは元気に、これから再び商売を盛り返すための景気付けとばかりに

以前ならば許されていなかったような贅沢な衣装を身に付けた者も見掛けた

私を護衛してくれてた傭兵さんたちの姿を見掛けると、ちょっと嬉しくなる

けど傭兵さんたちは私を見掛けると大声で挨拶してきて、かなり恥ずかしい



そんな中で唯一、他の町内とは違う雰囲気の行列だったのが上屋敷町だった


材木町をはじめとする多くの町内では、ありったけの色を使った派手な装飾

なのに対し上屋敷町は、黒を基調とした地味だけど上品な服装の人ばかりだ

腰に提げた剣も真っ黒な布で覆い、白いシャツの襟元にも黒い飾りを着けた

あの格好は、以前にも何度か見掛けたことがある、貴族や騎士たちの葬礼姿


この年は例年よりも早い時季から冷え込んで雨でなく雪が降るようになって

その雪の中で、むしろ黒色に統一された上屋敷町の行列は際立って目を惹く


彼らが威儀を正して一糸乱れず行進していく様子も、葬送の行列そのものだ

行列の中心にあったのも、飾り立てた荷馬車ではなく大公宗家の乗用馬車で

余計な装飾は施さず、もともとの磨き上げた黒塗りの、威厳ある姿そのまま

それを牽くのは見事な黒毛の馬四頭、こちらも優れた毛艶の立派な馬ばかり


さすがに大公宗家の馬車だけあって、車輪も車体も天蓋までも歪み一つない

大きな天蓋の四隅にはガラスで覆った灯明が掲げられ、内外を照らしている

正面を向いた座席の上には額装された肖像画が二幅、並べて置かれてるだけ

一方は二十三代目大公と妃、そして三人の息子だろう、他方はベスティア姫

内乱が終わった直後にはできなかった、大公宗家最後の一家の葬列の再現か


没落貴族は参加する財力などないと思っていたけど、最後の忠義を示すべく

僅かに残った蓄えを出しての行列であったと、後日義父から茶飲み話に聞く

義父たち元宮廷貴族は交替で行列に参加、馬車を夜通し巡回させてたそうだ


彼らの心意気は旧市街の他の町内の人たちに伝わって、多額の寄付が集まり

翌年以降も同様の行列を出せるようになった上に、各町内から上屋敷町まで

行列が巡り、旧市街がこぞって大公の葬列に参列する形で恒例になっていく



そんな上屋敷町の行列には、どうみても貴族や騎士ではなさそうな人たちも

数多く混じっていて、顔見知りの傭兵隊長さんが騎士姿をしてるのに気付く

義父の知り合いの貴族お抱えの傭兵団を率いて、城壁の上で戦っていた人だ

挨拶したら、雇い主の元貴族が没落した上に当主は死去し後継者もまだ幼く

かつての恩顧に報いようと、名代として参加することにしたと語ってくれた


「そうでしたか。立派な忠義、元貴族の端くれとして深く感謝いたします」

「いやいや恐れ入ります。あのフロラ姫さま直々にお言葉をいただけるとは」

「何を言うんです。私なんて傭兵さんたちの足手まといでしかなかったですし」

「そんなことはありませんぜ。あの戦場に姫さまがいてくれたおかげで、俺らは守るべきものを見失わずに済んだんです。負けたとはいえ、俺らは主家に恥じぬ戦いができたし、主家も辛うじてですが守れたし……。

 そして今日などは、その名誉を取り戻す機会もできたんですからな。生き恥も雪げるというもんです」


傭兵隊長さんが言うには、あの決戦で華々しく戦って散る覚悟だったそうだ

既に大公側の敗北は覆しようがなく、主家もまた断絶となることは避け難い

ならばその主家の最後を飾るに相応しい戦いを見せてやろうと全員で決めた


やはり彼らは、貴族お抱えの傭兵団ならではの、騎士にも劣らぬ忠義者たち

だけど彼らが決死の覚悟を決めた直後、私の声を聞いて気が変わったという

正門内側広場で、私が義父の傭兵さんたちに向けて涙ながらに語った言葉を


「姫さまから、『死んでほしくない』ってお気持ちが、ひしひしと伝わってきました。それこそ目が醒めたような気がしたくらいで。

 それで部下たちと改めて相談して考えたんでさ。俺たちも主家も死ななくて済む、そしてできれば名誉を保てるような戦い方はないものかと。この命があるのは、姫さまのおかげです。主家の名代として、また傭兵隊長として、どうお礼を申し上げたら良いか……」


義父の傭兵団だけでなく他の傭兵さんたちにも感謝されるなんて思わなくて

というかあのときの私の情けない姿を見て、目が醒めたなんて言われたって

気恥ずかしくなってしまうけど、彼らが今でも元気でいてくれたのは嬉しい


ただ、傭兵団としては主家の没落で職にあぶれて、今は小規模な仕事ばかり

数人あるいは十数人くらいに分かれて、それらの仕事を引き受けているとか


内乱では大公国や周辺で活動する傭兵団のほとんどが反乱軍に参加しており

内乱後も将兵として軍に残るか、除隊して恩給を得て生活を維持できている


これに対し大公側に残った傭兵団の多くは内乱後かなりの苦労を強いられた

けれども多くが矜恃を保ち、暴徒や野盗など邪な道へ落ちることはなかった




◇娘と実母と近所の職員


一方、貴族たち有力者の中には庶民への迫害や不正な蓄財、汚職など過去の

様々な悪行が発覚した者もいて、暫定政府による裁きを受けることになった

多くの元貴族の没落が決定的となった、いわゆる「貴族の冬」の、始まりだ


独自の“工夫”をしてた辺境領主の多くは暴徒や反乱軍に倒されたとはいえ

まだ一部は生きながらえてたし、同様の“工夫”の疑いは宮廷貴族にもある

それらを詳らかにして、責任を問うことで、世を糺すということなのだろう


この裁判は大公時代とは大きく異なり、様々な証拠を積み重ねて行うという

伯爵領で行われている手続を踏襲したもので、そんな点は実に反乱軍らしい

裁判の根拠となる法も、伯爵領の法令を参考にした反乱軍の法令を暫定的に

適用するとのことで、貴族学校の法学講師が熱心に読み解いて講義していた


それで多くの裁判は資料を集めたり関係者の証言を聞き取るなどの準備段階

公正な判断を下せる裁判官など法曹界の人材も足りず時間を要しているとか

裁判が本格化するのは冬至を過ぎてからだけど、初秋には証拠集めが始まり

そのせいで反乱軍改め暫定政府の職員たちが特に忙しかった時期だと聞いた


何も知らぬ傀儡の私は参考にならないのか呼び出されることもなかったけど

義父や義兄は他の貴族たちに関する情報を求められ、たびたび聴取を受けた

義父の一族は昔気質の堅物貴族で、不正蓄財など無縁、むしろ許さぬ姿勢で

代官として領地を治めた部下も厳く律していたので嫌疑がなかったのは幸い

だけど育ての父も義実家ほか一部の貴族と縁があったため同じく聴取された


そんなある秋の日のこと、育ての父と義父とが聴取に呼び出されて戻った後

二人は私を呼び寄せて私の身の上や今後など色々と話し合おうと言い出した

またもや育ての父の書斎で、まあ商談などでも決まって書斎を使う人だけど

私に重要な話があるのは確実だと身構えて聞けば私の実の親についてだった



父たち曰く、育ての父は実は私の実の父親なのだという、一方で実の母親は

なんと女子修道院長、約二十年前に新院長候補として他の街から移ってきた

ばかりの母と、当時まだ商業組合の学校の生徒だった父が、いろいろあって

惹かれ合い、でも父は愛する婚約者がいて母も修道会の有力者、互いの立場

もあって結ばれぬ関係のはずなのに、ふとしたきっかけで一夜の過ちに至り

こうして生まれたのが私だったそうで、たしかに女子修道院長さん、私には

いつも優しい眼差しをくれると感じてたけど、そんな理由とは知らなかった


一部の求道者を除き結婚して子をなすことも教義上は問題ないけど不義は罪

まあ父が結婚前だったため婚約者に対する道義上の問題という扱いになるか

ただ修道院長になるべく異動してきた副院長という微妙な状態にあった母が

未婚で子を身ごもったのでは立場がない、ゆったりとした長衣の修道服でも

母の腹が隠せなくなる前に重篤な病気を装って療養させ、内密に出産した後

身寄りをなくした遠縁の子を貰い受け育てるという体裁で、父の一家の籍に


そうした諸々は父の一家と以前から親交があった義父が、あれやこれや協力

貴族の間では珍しくないことだから義父の一家も手慣れているのだとか云々


途中から私は、すっかり開いた口が塞がらなくなっていた、こんなに身近な

ところに複雑な物語があって、その末に私が生まれて育てられていたなんて


いや前に聞いてた「生後ほどなく両親を亡くした」も、なかなかだったけど

しかも育ての母は私を実の娘と同様に育ててくれただけでなく実母も許して

くれたことになるわけで、感謝と尊敬の念は今まで以上に高まることになる


それから父は私に、実母との関係を明らかにするならば当面の間、表向きは

育ての父という間柄を維持するよう助言した、それは致し方ないことだろう


「お前の出自を隠し続けた経緯からもわかるとは思うが、修道院長の立場に関わることだ。あの方を守るためにも、ハナの実の親の少なくとも一方は伏せておかねばならない。

 時代が変わった今となっては、娘がいることを公にしたとしても、相手が死んだか行方不明だと匂わせておけば修道院長としての地位にも傷はつかんだろう。しかし、相手まで知られることは避けるべきだ」

「わかっています、お父さん。これまでずっと、私の実の母親を守るため私にまで嘘をついてくれていたのでしょう? ならば私も、その努力を無駄にはしません」



でもまだ二人の話は終わってなかった、その日に聴取された内容が問題だと


国教会城下教区と修道会城下管区は内乱が終わるまで大公の側に残っていた

私の実母が院長を務める城下女子修道院は、城下管区の中心となる修道院で

まさに大公政権との関係が深い城下管区の主要人物の一人が母というわけだ


宗派の資産管理にも責任を持つ立場だったことから大公政権の協力者として

嫌疑が掛けられていて、父たち二人も母のことについて色々と聞かれていた

義父は以前の聴取で父との関係についても語っていたから父も聴取を受けた


とはいえ母が大公にどれほど協力していたのかなんて二人も全く与り知らず

暫定政府の裁判がどのような裁きを下すのかも、まるで予想できないという

ただ、もしものことを考えて母娘として対面できるようにと考え、私に身の

上を知らせた上で面会を取り計らってもらおうと考えているとのことだった


傀儡の姫として内乱末期の現実を思い知らされ、現実を知りたいと強く思い

始めた私にとって最初に現実を知る機会となったのが、この実母との面会だ


父たちの話を聞いて理解するまでには時間を要したものの、すぐに決意した


「わかりました。会えるならそうしたいです」

「相変わらずハナは決断が早いな。

 なら、俺たちも精一杯協力する」

「ありがとうございます、お父さん、義父上」

「いや、もとはといえば俺の不始末が全ての原因だ。何の罪もないハナに色々と背負わせてしまったのだから、その責任を果たすときが来ただけさ。

 罪滅ぼしと言えるかどうかわからないが、そのつもりでやらせてもらう」

「そういうことならお任せします。でも無理や無茶はしないでね。

 まだ私の実の母の処遇は微妙な状況なのでしょ?」

「ああ。でもきっと何とかなると思うから、あまり心配しなくていい」



裁判を待つ母は、暫定政府の数十名もの部隊に警備と称して監視されている

修道院内の院長の館に軟禁され、面会の許可は容易に得られるものではない

といいつつ父と義父それぞれの人脈を駆使して数日後には許可証を取得した


二人とも反乱軍にこそ味方しなかったものの、今の暫定政府には協力的だし

私自身の出自や被告人との関係を証明する材料も二人の父が用意してくれて

さらに言えば私自身が何も知らぬ小娘だったというのもあったかもしれない

面会を許可されたのは私一人だけで、父たちには許可が下りなかったという


許可証には面会の日時が記されていて、当日は父に連れられて館に向かった

もちろん父は入ることが許されないけど、かつて愛し合った相手の近くまで

来ることには父なりの意味があったのだろう、何だか神妙な面持ちだったし


でも父は、母への伝言を私に託したりはせず、修道院の門前で立ち止まって

私の背を押して促すだけ、衛兵に許可証を見せた私が中へ入れてもらうまで

無言で見送っていたようだけど、館の玄関から振り返ったとき姿はなかった

面会時間が終わった頃に近くの広場で待ち合わせる約束だ、話はそのときに


女子修道院の警備を担当する部隊は、修道院門前など外側には男性の兵たち

内側が女性の兵たちという役割分担になっているらしく、門の内側に入った

私は女性兵に導かれて広い中庭を通り、建物の間の通路を抜けて院長の館へ


館の中では女性兵のほか、同じ制服を着た女性がいて、私を案内してくれる

何の武器も身に付けてないので、財務調査か何かで派遣された職員のようだ

私が捕虜となっていた頃の反乱軍陣地、その公衆浴場でも会った記憶がない

のだけど、その若い女性職員は私を見るなり「お久し振り」と挨拶してきた


そう言われてようやく思い出した、たしか父の知り合いの家にいた人だった

最後に顔を合わせたのは三年ほど前だったと思うけど私の見た目は変わらず

対する彼女は軍の制服姿になっていて私の方が気付くのに時間かかったのだ


材木や石材を商う近所の家の娘さん、年齢は私の五つか六つ上で既婚だけど

夫は仕事の都合で遠方に滞在中、城下に残った彼女は商売の経験を積むため

実家で手伝っていると、家どうしの会食の席で聞いたのを何となく覚えてた


でも城下から遠い南の都市まで夫を訪ねたとき内乱が勃発して帰れなくなり

反乱軍が有利と判断した夫は事業で反乱軍に協力、彼女も同じく実務能力を

生かし事務職員として勤務、今は私の母の宗派の財務調査の担当として館に

滞在していて、ついでに世間話の相手もしているのだと、後になって聞いた


そして私の近況も、同僚の職員や看護婦たちの噂で彼女も多少は知っている


「捕虜になった城壁のお花ちゃん、みんなの癒やしだったって聞いてるよ。

 何番地の公衆浴場で何時頃に行けば会えるとか、色々と噂があったって」

「それってまさか、見掛けたら幸運、みたいな俗信か何かのようなものですか?」

「かもね。これで私も同僚たちに自慢できるかな。ハナちゃんのおかげで」

「何ですかそれー。人を珍獣か縁起物か何かみたいに言わないでください」

「ハナちゃんなら、きっとかわいらしく咲く希少なお花なんじゃないかな」

「そういう意味じゃなくてですね……」



母のいる部屋は廊下の最も奥にあり、私は促されるまま室内へと入っていく

修道院長に加え決戦の少し前に管区長にもなったという人物、その執務室と

いう割には本が非常に多い部屋で、明らかに父の書斎と同じ雰囲気を感じる


礼拝堂の祭壇で教えを説く姿は何度となく見てきたけど、こうして一対一で

ましてや自分の生みの母として対面するのは初めてだから私も少し緊張して

小さな卓を挟んだ応接用の椅子に向かい合って座り、ぎこちなく話が始まる

付き添いの女性職員は全員分の茶を淹れてくれて、少し離れた椅子に座った


改めて間近に見ると、父や育ての母と同じくらいの年代だとは思えないほど

若々しくて、まだ二十代でも通じてしまいそう、そしてたしかに私そっくり

髪の色や瞳の色、肌の色、そして背丈や華奢な体つき、顔立ちもよく似てて

きっと二人並んで街など歩けば事情を知らぬ人は姉妹か双子だと思うだろう

他にも説明しづらい理由があって私は確信した、まさに私を産んだ実の母だ


私の来訪目的は、父たちによる面会許可申請で伝わったか察しているらしく

まず母は、私が出自を知らされぬまま育てられたことを謝罪した上で、私を

娘と呼んでいいかと言うから、拒絶する理由もないのでもちろんですと回答

私もお母様と呼びたいと言い、こんな母で良ければと受け入れてくれたけど

二人ともぎこちなくて、どこか他人行儀な言い方になってるのが気に懸かる


話題が途切れてしまい気まずく感じた私は、俯く母から視線を逸らすように

周囲の本棚を見回し、つい「父の書斎と同じ匂いがする」と心の声が漏れた


するとそこに飛びついたのが母だ、顔を上げると一瞬で明るい表情を見せる


「やっぱり! あの人は今も本に囲まれた生活をしているのですね?」

「あ、はい、お母様。来客と商談するときも書斎ですし、父が私に大事な話をするときも、決まって書斎に呼ばれます。私が本当のお母様の存在を聞いたのも書斎です。

 それに私も、よく父の書斎で読書しています。実は私も本が大好きで……」

「本当!? どのような本を?」

「ええと、少し前は恋愛小説でした。最近は色々な地域や時代の歴史書などを」

「そうですか。興味の幅を広げつつあるのですね。

 恋愛小説といえば、ここ一年ほど、あなたと同じくらいの年頃の作者が書いたという作品の写本が出回っていて注目していました。しかも作者イオンさんは、実は反乱軍の捕虜となった貴族令嬢で、軟禁先で書き続けていたとか……」

「まさにそれです! あの人の小説すごいんですよ! 生々しい戦いの描写があって、その中で儚い恋模様、この対比がもうたまりません!」

「わかります! 私も全く同じ感想です」

「えっ!? お母様もですか!? そういうの修道会でも読むんですね」

「ええ。個人的な趣味の読書なら、そのくらい教会でも修道会でも普通です。置き場所が足りなくて一部は人に譲ってしまいましたけど、この書斎にもまだ何冊かありますもの」

「すごい! 私が読んでない巻があったら借りていいですか?」

「もちろん、喜んで!」


こうして母と娘は、十数年の間ずっと他人として過ごしてきたことが嘘かの

如く、互いに好きな本の話題で盛り上がって打ち解けることになるのだった


母によれば父との縁も、その発端は本だったというから、娘も妙に納得する

育ての母はそれほど本を読まない人だし、腹違いの弟や妹たちもまた同様だ

私の本好きは、父からも母からも受け継がれた、本物の血統書つきのものか


幼い頃から私は父の書斎にいることを好み、読み書きができるようになると

次から次へと本を欲しがり、父の書斎にも入れてもらいたかったけど小さい

頃は許されず、学校に上がってしばらく経って本の扱いを覚えた頃ようやく

父がいるときに限って書斎での読書を許可され、その嬉しさは今も忘れない

今は書斎の鍵を複製してもらってて、父が不在のときでも私は自由に入れる


そんな話を懐かしく思い出しながら語ると、母も何だか喜んでくれたようだ


「私にも、夫や娘と一緒に、本に囲まれて楽しく生活する将来があったのかもしれないのですね。そんな可能性を奪ってしまったようで、あなたには本当に申し訳なく思います」

「そんなことはありません、お母様。私が生まれるに至った物語が、これほど波乱に富んだものとは思ってもいなかったし、その上それが私の大好きな本を中心にした展開だったなんて。

 だから、今はとてもとても、嬉しく思います。いえむしろ誇らしく思います!」

「そんな……、そこまで言ってもらえるなんて」

「それにです、父は家の事情もあるから難しいかもしれませんけど、私ならお母様と……、

 ええと、何と言うか本好き仲間として、お友達になれると思います。

 ……いえ、なりましょう! 今からでも!!」

「えっ……!?」


私が口走った突飛な提案に母はぽかんとしたけど、すぐに笑いながら涙する


「本当に、あなたは良い子に育ててもらえたようで安心しました。

 こんな風に育ててくれた母親にも、感謝しないといけませんね。

 それに、あなたの父親があの人なのですから、やっぱりそうなのでしょう」

「そうですそうです、それにお母様の娘だから、です!」


と、私もつられて笑い泣きしつつ、興奮のあまり両手をぶんぶん振っていた

その私のそれぞれの手に母も手を重ねて、二人で手を握り合って喜び合った




◇花の名前と伝説の物語


母は私を産んだとき、クロリスという名を与えてくれたのだと教えてくれた

それは今や文法も語彙も完全には伝わってない古い言葉で、一部の古い民や

僧侶たちが主に使っていて、貴族たちが好んで使う別の古語とは異なる系統


クロリスを庶民の言葉で言い換ればハナとなって、実家での私の名そのもの

父はこの名を育ての母に伝え、城下の役所の人別もハナの名で登録している

傀儡の姫だったときは貴族の好む古語に言い換えてフロラと名乗っていたし

今も義父たちはそう呼ぶ、そういえば義父も貴族の中でも教養ある方だっけ

反乱軍からはお花ちゃんの愛称をいただいたりして、いずれにしても私は花


「ここまで揃ったら、むしろ気持ちいいくらいですね、お母様」と笑う私に

「どのように呼ばれようと花そのものは同じですよ。あなたは私の花」と母


「でしたらお母様には、ぜひ特別にクロリスと呼んで頂きたいです」

「わかりました、喜んでそうしましょう。私の愛しい娘、クロリス」

「はい、敬愛するお母様。ありがとうございます。

 ……なんか、なんだろう、とても嬉しいです。お母様だけの私の呼び名……」

「あの人は、いつかこうなると考えてハナと呼び換えたのかもしれませんね」

「あはは……。父ならやりそうです。そういうところは変に気が利きますし」

「クロリスも偉いですよ。どちらの古語も説明なしですぐわかるのですから」

「そういう本もたくさん読んでますから。だって私、無類の本好き二人の間に生まれた娘なのですよ? 本好きに生まれついたようなものです。

 それに何だか、昔の神話か伝説の主人公になったみたいな気すらします。成長してから隠されていた出自を知って、本当の名を教えてもらって……」

「それから様々な冒険をして、数々の危険を乗り越えて、宝物を得て人々を救い……。

 あら、そうすると私の愛しいクロリスも冒険をするのでしょうか? ちょっと心配」

「すでに一度やりましたけどね、戦場での体験なら」

「そうでした。こうして元気に帰ってこられて、再会できて、本当に幸いです」

「といっても周りの色々な人たちに守られてばかりでした。皆さんのおかげです」

「よいのです、それで。一人で冒険するばかりの物語ではクロリスらしくありません。

 色々な人に会って支え合い、皆で幸せを掴んでいくような物語こそ、あなたらしい」

「お母様……。

 あれ? それって、私が一人じゃ何もできないということでしょうか?」

「あら? 見た目の通り、か弱い乙女であることは間違いないでしょう?」

「はい……。とても残念ですが、思い知りました。

 傀儡の姫フロラとして女騎士の装いになっても戦いなんて無理で、義父上がつけてくれた傭兵さんたちが文字通りに命を賭けて守ってくれたからこそ、何とか生き延びられたようなものです。

 そして最後には、あれよあれよという間に捕虜でした」

「でも捕虜とはいえ、反乱軍の女性職員たちに愛されていたと聞いていますよ」


あ、お母様やっぱりご存じでしたね、隠すつもりはないけど少し恥ずかしい

ただ、とても居心地の良い捕虜生活だったと言える、そこは皆さんのおかげ


「あの、私としては大変不本意ではあったのですけど……。

 反乱軍の方々からは城壁のお花ちゃんと呼ばれ、皆さん文字通り小さな花を愛でるかのようにかわいがってくださいました。いろいろとよくしてくれたのは、もちろんとっても感謝しています」

「そうですとも、クロリス。気高くも優しく美しく、誰からも愛される花の精霊」

「せ、精霊!?

 あの……、私を産んだのは、お母様なんですよね?」

「ええ間違いなく」

「でも、お母様は人間ですよね?」

「私自身は、そう思っています」

「私も、自分のことを人間だと思っています。人間であるお母様から生まれた私が、お母様と違って花々の精霊だなんてことが、あり得るのでしょうか?」

「たしかにクロリスは私が産んだ娘であり、私そっくりの見た目です。けれどクロリスは、私そのものではありませんし、私と似ていないところもあります。

 子は親に似るものとはいえ、全てが同じというわけではないですよね。つまり私から花々の精霊が生まれることだって、あり得ないことではないのですよ」

「はあ……」

「あなたを産んだとき、実の母を知らぬ不幸な生い立ちを与えてしまった以上、せめて花のように晴れても雨でも元気に育ち、風吹く中でも笑顔で咲いて、皆に愛される娘になってほしいと、私は願いました。

 ……そして、きっとそうなるだろうとの予感があって、クロリスの名を付けたのです」

「お母様の予感ですか?

 えっと……。そういうのって、何だか本当に神話やら伝説の登場人物みたいですね」

「神話も伝説も何も、それらは同じく大地の上、大空の下の出来事。当時の大地と大空とは、この今の時代と一続きなのです。実際、今の世にも、目立たないだけで神秘の出来事、不思議な物事はいくつもあります。だからあなたが本物の花の精の、さらにその中のお姫様だとしても、私にとっては何の不思議もありません」

「お母様、さすがにそれは……。

 たしかに私、神話か伝説の主人公になったみたいだなんて先ほど言いましたけど、あくまでも冗談のつもりでした」

「ええ、私も冗談のつもりですよ。

 ですが本当にその通りであるなら、それはそれで私は嬉しいです」

「私としては、神話や伝説のような存在になるなんて恐れ多いです……。

 遠目にではありますけど、本物の姫を実際に見ました。まさにあの人こそ、伝説として語り継がれるに相応しい存在でしょう。反乱軍を興し、その人望で膨大な数の人を集め、精強な軍隊にしただけでなく、規律正しく弱者に優しい組織としてまとめ上げて、ついには勝利を収めました。本人だけでなく周囲にも、きっと無数の物語が生まれたはずです。そして残された人々は、彼女の遺志を守り継いで世直しを進めていくことでしょう」

「あの姫様は、今にして思えば内乱とともに生を終える運命だったのかもしれません。

 その中で輝いて強い印象を人々に与え、新しい世を残して去るまでが運命なのだと」

「たしかに、そういった運命だからこそ、人々の心にも何かを残したと言えそうです」

「でしょう? でもそれはベスティア姫の物語。クロリス姫の物語ではありません」

「ですよね。あの方のような生き方はとても無理だなと、私も自分で思います。

 でも私らしい生き方というのが何なのかも、まだ全然わかってないです」

「それはもちろん、クロリスが自分で見出さなくては」

「はい、お母様。そこは頑張ります。そういうことならきっと頑張れます」

「良い心掛けです。でしたら私も、微力ながらお手伝いいたしましょう。

 ……ええと、たしかあの本が、このあたりの棚に……」


母は立ち上がって本棚の間に入り込み、棚の一角に並んだ本の背を見ていく

ときおり目当ての本に似た背があるのか、少し引き出しては戻したりしつつ


さっそく私も後を追い、またも興奮して両手をぶんぶんしながら目を見張る


「おぉっ!! ついにお母様の蔵書が! どのような本を見せていただけるのです?」

「帝国成立前夜の頃を描いた物語です。やがて皇帝への道を歩む男の子が、いろいろな女の子と親しくなって好かれていく過程を、事細かに描いた作品が……」

「そんな作品があるのですね。私も、初代皇帝の伝説は通して解説した本を読んだことがあります。お母様の仰る作品とは、その一部分だけを描いた物語なのでしょうか?」

「ええ。主人公の男の子が、旱魃で荒廃した故郷の草原を離れてから、皇帝に即位してめでたしめでたし、というところまでで終わる物語です。

 もちろん皇帝の伝承を下敷きに書かれた、後世の創作物語ですよ。たしか三百年近く前、まだ北方の沙漠にも僅かばかりの緑が残っていた頃。当時その地にあって旧王国の最後のひとしずくと謳われた、澄んだ水がこんこんと湧く泉を拠り所とする小さな小さな、だけどとっても美しい街で書かれたものだそうです。私の手許にあるのは、その孫写本ですね。書写されたのは、おそらく二百五十年ほど前でしょうか。保存状態が非常に良くて、その点でもお気に入りの一冊です。私の蔵書の多くは刷り本にもなっていますが、この本はまだでした」

「二百五十年!?

 さすがお母様、物凄い稀覯本をお持ちなのですね。読書欲をそそられます。それほど古い本、お父さんの書斎にはありませんし、鋏町の怪物たちが隠し持つ宝物にも負けません。でもあの人たち、そうそう易々とは見せてくれませんよ!

 ……ちなみに、お母様の書評は?」

「そうですね、かの旧王国ならではの独特の余韻ある文体が、やはり最大の魅力でしょう。全編その美しい文章で、主人公が数々の女の子たちに出会って愛し愛され、他にも多くの人たちに出会っては信頼を得ながら人格的に成長していく、といったお話を描き上げているのです。とても麗しい物語ですよ」

「へぇー……。

 ん? でもそれってお母様、私も数々の男の子を愛して愛されろということでしょうか?」

「まさか! そのようなことは私もお勧めしません。

 そういうお相手は一人に絞った方がいいです。私もさることながら、あなたの育ての母はもっと辛い思いをしましたし、お父さんも二人の板挟みになって大変苦しんでいました。かつての英雄にも、二人の妻を持ったことが致命的な弱点となった者がいます。妻たちの諍いが発端で身を滅ぼした……」

「あっ、東の国々をまたにかけて活躍した英雄ユミヒコの物語ですよね! それ私も読みました。誰からも差別される最下層の民から身を起こし、山や湖に潜んで人間を食う巨大な化け物を退治したり、啀み合う国々を仲良くさせたりで皆に喝采されて栄光の日々、からの急転直下な末路。最後、化け物に身をやつした二人の妻が激しく争いあって、多くの人々が巻き込まれて、そんな中に自らも飛び込んで一昼夜の戦いの末に、人々が見たのは三人の、手を繋ぎ合った無残な遺体。

 ……あの終わり方は悲しかったです。涙が止まりませんでした」

「ユミヒコの説話は、まさにその戒めという意味もあるでしょうね。

 ただ、人に愛されるとは、恋愛とか、男女関係だけではないでしょう? 大陸ほぼ全土の統一を果たした初代皇帝には、その偉業を支える数々の人がいました。生涯に出会った人々の数は知れませんけど、彼はそのほぼ全てに愛され、慕われています。そのような人物だったからこそ、人々は彼のために様々な働きをして、皇帝を中心として一つにまとまり、帝国ができたのだと思いますよ。そしてクロリスにも、そういった道が似合うのではと私は思うのです。

 ……ありました! この本です」

「わぁ! 装丁からして本当に美しい! 筆跡も挿画も緻密で美麗ではないですか!」

「見事な写本でしょう? さあ、机にいらっしゃい、クロリス。一緒に読みましょう」

「はい、お母様♪」



父たちがどのようにして面会の許可を得ることができたかはわからないけど

きっと相当な苦労もあったはずで、つまり二人が次いつ会えるかも知れない

だから面会の時間を惜しむかのように、母と娘は夢中になって本の話をする


母の蔵書はすごかった、見せてもらった稀覯本も普通の書棚に置いてるから

もしや棚にある他の本も同じくらい貴重な品なのではと思って聞いてみると

案の定、筆写年代で二百年程度なら珍しくないそうで、とんでもない財産だ


この母の蔵書、もともと母の母が遺贈した本が大半で、その後こつこつ母が

探して集めた本、さらに知り合った他の本好きの僧侶たちや、市井の蒐集家

ときに貴族から寄贈された本まで加わって、ここまで充実してきたのだとか


おかげで本好き界隈で多少は知られた存在、稀覯本を求め母の書斎を訪れる

研究者や蒐集家も多かったし、父も母と知り合ってしばらくは何度か訪れて

稀覯本の何冊かを自分で筆写して写本を作ったりしながら親密になったとか

でも私が生まれた後は、育ての母との約束もあって一度も来ていないという



一方、ここ十数年ほどは年に何冊かずつ選んで本に刷って修道院から出版し

ときに原書も例の怪物たちが密かに催す競売会に売り出すなどして金に換え

その収益で子供たちの保護施設を運営、家庭に恵まれない多くの子供たちを

養い教育を受けられる場も提供しているという母に、娘としては恐れ入った


こうした刷り本の出版は、外部の職人たちの集団に委託しているのだそうだ


「版の元になる筆耕や挿画の職人から、版木を彫る職人、それを紙に刷る職人、製本や装丁にもそれぞれ専門の職人がいます。たくさんの職人たちが仕事をしてくれて、ようやく本が出来上がるのです。それぞれの工程を一つひとつ依頼すれば大変な仕事ですけど、職人の中にはとりまとめ役みたいな人がいるので、その人に原本を預けて頼むと楽になります。もちろん依頼する際には、紙や版木やインクなど様々な材料代と、工程ごとの職人に支払う手間賃に加えて、まとめ役の人には手数料を支払う必要がありますけど。

 出来上がった本は修道院に届けられるので、私たちが仕上がりを確認した上で倉庫で保管しておき、鋏町などの書店に卸して、これでようやく収益となるのです」

「なるほど。出版するには時間も必要だし、収益が出るまでは予算も持ち出しなのですね。私が読む分だけなら自分で写本を作ってしまえばいい、とか思ってしまいますけど、たくさんの人に本を届けようと思ったら途端に大変なことになるとは……」

「そうですね。しかも売れなかったら損をしてしまうことになります。だから事前に、どういった本なら売れそうか、印刷部数をどれくらいにして、幾らで卸すのが適切か、職人さんたちはもちろん卸先の書店とも相談しながら、よくよく検討しないといけません」

「見極めが難しそうです。責任も重大……」

「見込んだ通りに売れてくれれば、充分な収益を出すことが可能です。それに、私の活動を知っている人が買ってくれるので、ある程度の部数は期待できますよ。たとえばあなたのお父さんも、私が刷り本を出していることや、その理由は本好き仲間に聞いて知っているはずです。あなたが読んだユミヒコの物語も、お父さんが買ってくれた本なのでしょう? ならきっとここから出版したものに違いありません」

「そっか、お父さんもお母様のことを影ながら支えているのですね」

「ええ、私に代わって、お礼の言葉を伝えておいてもらえませんか」

「もちろんですとも」

「そして、まだ刷り本になっていないものは、その施設の子たちの将来の養育費だと思ってください。半ば私の個人の蔵書とも言えますが、半ば修道院の資産とも言えます。二重の意味で大切な財産です」

「本当にすごいです、お母様。

 収集品を切り売りするなんて、そうそうできることではないのでは?」

「それでよいのです。知識や知恵とは、その意味を理解し使いこなすことができる者の手許に届いてこそ、本当の意味で役に立つというもの。いつか世に出すのが望ましいと、私は常々考えています」

「なるほど。本好きならばこそ、それを世に広めることも意識すべきということですね。

 でも、それを施設の運営にも役立てようとしておられるのは、もしかして私の存在も……?」

「たしかに、あなたを産んだ経験も、ひとつのきっかけになったと思いますよ。

 とはいえ、どのような世であっても、親の都合、あるいは親でさえ避けられなかった不運などによって、本人には何の罪もないのに苦しむ子供たちがいるものです。人々の世に、救いは欠かせません」

「そうですよね。たとえば経済的に恵まれない境遇で育ったら、教育も満足に受けられないでしょう。その子がもし本好きだったとしても好きなだけ読書をすることができません。将来の人生にも色々と影を落としそうです。

 私はそんな経験せずに済んでいますし、離れ離れだったお母様ともこうして仲良くなれたのだから、やはり幸せ者なのだと思います。単に不思議な生い立ちというだけで」

「クロリスったら。やはり優しいだけでなく気高い心の持ち主なのですね。

 あなたの言う通り、とりわけ経済的に困窮する子供たちにとって、さらなる不幸を少しでも軽減する上で重要な施設です。運営そのものは修道院として行っていて、修道女たちが現場を預かってくれています。私には院長や管区長としての責務もあるので、あまり現場には出られませんが、せめて施設の資金繰りに困るようなことだけはさせまいと、このやり方を始めました。もちろん本好きの子供たちも多いですから、施設にはここで刷った本だけでなく、他の本もできるだけ揃えるようにしていますよ」


十数年も他人として過ごした母娘の間に話題は尽きないけれど時間は尽きる

最後に母は一冊の本を手渡しつつ私の手を握り、「きっと返しにきてね」と

名残惜しそうに別れの挨拶をして、私も「絶対また来て返します」と応える


親愛の印に抱き合って頬を寄せたら顔は同じ高さだった、やはり私のお母様

背丈は諦めるしかなさそう、だけどお母様のように立派な大人になりたいな



部屋を退出して廊下を行く途中ずっと、女性職員はくすくすと笑い続けてた

そういえば母と私が盛り上がってる傍ら、ずっと彼女が同席してたんだっけ


私たちが手を取り合ってはしゃぐ様子が、そっくりでかわいいと言って笑う


「あなたたち本当に本物の母娘ね。楽しすぎて笑いをこらえるの大変だった」

「えへへ……。そう言ってもらえると何だか嬉しいです」

「管区長さまがあんな楽しそうにするのは見たことないもの。娘って凄いな」

「そ、そうですか……?」

「いや、『本好き仲間のお友達』の威力かな……? ハナちゃん面白かった。

 ふふふ……。あはは……。ダメちょっ待って笑い止まらなくなっちゃった」

「思い出し笑いやめてください! そこはちょっと、恥ずかしくて死にそう」

「ははっ、はー……。ごめんごめん。ふふっ……。

 そうね、笑っちゃったお詫びに、少しだけ教えてあげる。管区長さまの件」


こうして女性職員は、まだ確定してもいないし部外秘だと前置きをした上で

暫定政府が母を今後どのように扱う方針なのか、かいつまんで教えてくれた


曰く、母を軟禁状態にしているのは、外部からの干渉を避けるのが主な目的


国教会の中には反乱軍や暫定政府を敵視する内部派閥があるとみられており

その内部派閥が密かに何かを企んで城下で潜伏活動中との情報もあるという

企みは不明ながら帳簿を奪うなどして財務調査を妨害する可能性も考えられ

また母が外出すれば、この派閥の手に落ちて身に危険が及ぶかもしれないし

母も私と同じくお人好しなので、外部の誰かが騙して悪用するかもしれない

だから女性職員も警戒を兼ねて母に付き添い館で寝起きしてくれているとか


母もお人好しかぁ、言われてみれば私も頼まれ事を断るのが得意ではないし……


一方、母自身は暫定政府の調査に全面的に協力しているので心証は悪くない

そもそも国教会の傘下にあるとはいえ、信仰を重視した修道会組織の管区長

国教会が世俗化し堕落してきたと異を唱える形で始まったのが修道会だった

歴史こそ浅いけど源流回帰とも言われていて他国の教会組織とも交流が盛ん

とはいえ修道会の中にも国教会と密な繋がりを持つ者がいるので調査は必要

しかも修道院長や管区長という高い地位で資金を動かす立場の母なら当然だ


現時点で把握できている限りの情報では、母の管理権限が及ぶ範囲の資金に

ついて人々から必要以上に献金を集めたりしていた証拠は特にないとのこと

管区長や院長として集めた資金の行き先には、まだ使途不明のものがあって

虱潰しに深掘り調査をしているものの、調べがついた範囲では修道会による

庶民への慈善事業の一環として支出され、まだ調査中の箇所も母の証言では

相手先の帳簿がないので使途不明になっているものばかりだ、といった話も


また教会組織の金融機能を用いた貴族の蓄財にも母の関与は確認されてない

貴族たちからの寄付や預金の流れは、管区長の母でなく修道会全体の代表が

管理していたことも判明しており、つまり調査においては代表こそが本命だ


「だから裁判に関しては無罪か、もし収監されても微罪ですぐ戻れると思う。

 あっ、それからハナちゃんのお父さんの件は内緒にしておくから、心配しないでね。こう見えても私、口が固いって評判なの」

「すみません、気を遣っていただいて」


どの口が固いのだろうと思ったけどまあいいや、今の役目を任された理由は

少なくとも、この職員さんが職場で信頼されているからこそ、のはずだから



そうして女性職員に見送られた私が、父と待ち合わせている広場へ向かうと

ベンチに腰掛けて本を読む背中が見え、私も隣に座って母に借りた本を開く


母の蔵書にしては珍しく紙の刷り本、程度も内容も、あまり古くもない書籍

余白に大量の手書きの筆跡があったのは、大量生産の本ゆえの気楽さだろう

二人とも黙ったまま、本に視線を落としつつも、内容はあまり入ってこない


かなり時間が経ってようやく、父は読んでいた本を閉じてから、本題に入る


「どうだった?」

「お父さんの書斎と同じ匂いだった。

 紙と獣皮紙とインクと革表紙、装丁の糊、それからお茶……」

「そうか。相変わらずなんだな、あの人も」

「あとね、この本を貸してくれたの」

「これは……!

 なるほど、懐かしい。二人の、なれそめの一冊だよ。持っていてくれたんだ」

「やっぱり。薄々そんな気はしてました」

「この本を手に入れた直後の帰り道、途中で落としてしまってね。

 たまたまあの修道院の前で。それが最初のきっかけだったんだ」

「じゃあ私も、大切に読まないと」

「ただ、残念ながら内容は色気も何もないけどな」

「うん……。でもそれも含めて、“らしいな”って思う」

「そうか。ハナもそう思うか」

「だって、お母様の蔵書を見ちゃったら、ねぇ。

 二人とも本なら何でもありなんだもの。私もそうなってきちゃった自覚あるけど」

「ははっ。将来のハナの書斎も楽しみだな」


「……ありがとう、お父さん」

「えっ?」

「お母様と、私のために、色々なことを背負ってくれてたんだよね。

 私たち母娘は、お母さんにも苦労や苦悩をさせてしまったし、義父上にも面倒をかけて、みんなに感謝しないと」

「いいや、感謝すべきは俺だ。もとはといえば俺の責任なのに、責められるどころか礼を言われるなんて、思ってもいなかった。だから本当にありがとう、ハナ。

 それに俺は、お前の成長が楽しくて、ハナの親でいられたことを嬉しく思う。きっとお母さんもそうだし、お前の義理の実家もな」

「なら良かった……」

「院長さま、いや管区長さまも、お前の成長を喜んでくれのだろう? だからハナは、そのまま育ってくれればいい」

「うん……」




◇証拠品が動かないなんて誰が言った


幸い私は、その後も月に一~二度くらいは母と会う機会を得ることができた


父たちには、たびたび面会許可のために奔走させてしまったかとは思うけど

私にしては珍しく本以外のことで(いやまあ母とは本の話ばかりですけど)

自分から積極的にやろうとしていることだったから、父たちも嬉しくなって

労を惜しまず私を応援してくれたのだろう、あと父は母への思いもあるかな


もちろん修道院には図書室も母の書斎とは別に存在しているし写本室もある

母の軟禁が解かれた後に、つきっきりで案内してもらったのは楽しい思い出


母が運営してきた修道院だからか図書室も家政学校よりずっと充実している

写本室の机の配置も素晴らしく、試しに少し使わせてもらったら最高だった


直射日光を避けた南向きの背の高い窓は当然、左手側から光が入る机の向き

(左利きの挿画師がいるとのことで列の端に一つだけ反対向きの机もある)

奥に見本、手前に書き写す紙を、それぞれ高さや角度を工夫した台に置くと

右手を少し伸ばしたあたりにインク壺やペン先洗い、左手には吸取紙がある

いずれも台より少し低い位置で、インクや水がこぼれても紙への影響はない


これはもう完璧、母が修道院長だからか私の座高でも使いやすい椅子もある

見上げて気付けば天井近くに一つだけ北向きの窓があって、この窓枠が作る

影と壁の模様の位置関係で時刻までわかる工夫をしてあるというからすごい



敷地内には付属の工房もあって、インクを調合したり、鞣から獣皮紙を作る

までの職人もいるというので気になった、それぞれの特有の匂いにもだけど


この修道院で作られたインクは、実は私も鋏町の筆記具店でお馴染みの品だ

インクには民間の工房のものも何種類かあって、最初はどれでも同じかなと

思ってたけど全然、数年後に日記帳を見返したら色合いに大きな差が出てた

インクというのは書いてから年月が経つと次第に変色していくものだけれど

多くは青か緑みがかった黒ないし灰色になるのに対し、修道院の印がついた

インクだけは他のと少し成分が異なるのか、少し赤味を帯びた色合いになる


でも製法は秘密、管区長という高い地位の母ですら教えてもらえないそうで

ここの職人たちが代々受け継ぐ秘伝の調合、それはそれは貴重なものらしい

そんな事情を知って以来、ずっと私は専らここのインクを使うようにしてる


獣皮紙は、教典には植物の繊維で作った紙より価値が高いとされている上に

法令などの原本に用いられることも多く、今も一定の需要があるのだそうだ

ここ一世紀くらいは用途が減って、大した売上にならなくなっているものの

修道会発足以来の歴史ある事業でもあることから今も大切に維持されている

その工程は詳しく見せてもらえたけど、手間と時間と根気が要る大変な仕事

迂闊にやればすぐ破れたりするそうで、不器用な私には到底無理だと思った


ちなみに素材となる鞣は古い民、つまり大公国では被差別民が作っていると

かなり前に父から聞いたことがあり、私も何冊かの本を借りて調べたところ

四つ足の獣の死に関わる仕事の多くは、この被差別民が専門に手掛けるとか

私は会ったことがなかったけど、生まれながらにして差別を受ける人生には

きっと嫌な思いをすることが多いのだろうなと、私が嫌な思いをしてしまう

獣皮紙は私にとっても大切な品物、それを作る上で欠かせない人たちなのに


さらに余談だけど、植物の繊維を使った紙の生産は平野部より山間部が多い

原料になる植物が山の斜面に多いことや、冷たい水を大量に必要とするため

雪解け水が集まったような沢の多い土地ほど紙の工房に適しているとのこと

大公国内で有名な産地は国教会総本山に近い東の国境付近の山間と裾野地方

そして大公一族が離宮を置いた北東部の小都市周辺、三箇所といわれている


もちろん私が普段使うのも植物繊維の紙、主に離宮の街周辺で作られた紙だ

母と会えない間にも、その紙に手紙を書き数冊の本を添えてやり取りできた

上司にも内緒で個人的に取り次いでくれた職員さんには本当に感謝しないと



二度目の面会が叶ったときには「なれそめの一冊」を一通り読み終えており

修道院に携えて母に返したものの、私に譲ると言われてその場で手渡された

「あなたがこの世に生を受けるきっかけを作った本なのだから手許に」と母


母と父との心を繋ぎ、母娘の再会の約束の証となった本を、私が受け継いだ


まあ内容は、大公の一族の系譜という、父が言うように色気も何もないけど

枕元の小さな本棚に置いて、ときたま読み返しては、余白や行間にびっしり

書き込まれた筆跡から、父母それぞれの心の動きを想像して楽しむのだった



何度かに一度は修道院に泊まることも許されたので長い時間を母と過ごせた

その最初は越年祭のときで、軟禁状態にある母は外出が認められないものの

逆に私が泊まり込んでよいと言われ、そんな幸運が許されるのかと驚いたり


しかもこの年は閏年で越年祭が二日間に及んだので、いきなりの連泊となる

初日に一泊した後、外出できぬ母に頼まれ街の様子を見て、ついでに屋台で

色々な食べ物を買って持ち帰り、母と分け合って食べたのも楽しい思い出だ


本来ならば修道院長かつ管区長として越年祭を取り仕切るべき立場のはずが

未だ嫌疑の晴れぬ母は祭礼を司ることもなく、自室で私と一緒に夜を明かす

そんな夜には母と父との間に何があったのか、ある程度は聞かせてもらえた


親しくなった経緯についての父からの説明は相当に端折った内容だったけど

母の書斎を見れば本好きつながりで親密になっていったのも納得できること

といった話をしたら、さすが私たちの娘ですと母は笑い、私も少し誇らしい


もとは恋愛以前に本好き仲間として親しくなったけど、お互い男女としても

魅力を感じていたはずだし、だからこその過ちだったのだろう、と母はいう


ときとして男と女の間には、そういうこともあるのは私も恋愛物語で読んで

知ってる、いや私自身あまりよくわかってないけど、そうらしいと知ってる



母曰く、商業組合の学校に通う父と育ての母が恋仲になって卒業したら結婚

しようと考えていた頃、育ての母の実家から横槍が入って難航してしまって

深く悩む日々を過ごす中、父が修道院の前で落とした本を母が拾ったところ

落とし物に気付いて探しに戻ってきた父が出くわして、言葉を交わすうちに

お互い本好きだとわかったので、もし良かったらと書斎に招き入れたという


当時の父は今の私と同年代、やはり鋏町の怪物たちには赤ちゃん扱いされた

けど母は書斎の稀覯本を、同じ本好きであれば丁寧に扱ってくれるだろうと

気軽に見せ、代わりに母は父が落とした本を借り、読書したり語り合ったり


同じ本好きなら異性でも気易く書斎へ通してしまう母もどうかとは思うけど

以前から稀覯本蒐集家界隈との交流があったので気にしていなかったそうだ


おかげで父は稀覯本の知識を少しは得て、怪物たちにも認められて赤ちゃん

から小僧扱いに昇格、というのはともかく、まだ若かった父にとってみれば

母の凜としつつ優しい接し方は、親愛や憧れを感じるに充分すぎたのだろう

いや、ひょっとしたら父は無自覚のまま母性を感じて甘えたのかもしれない

お母様って、父の母、つまり私の祖母にも口調など少し似てる気がするから



「最初に会ったのは、たしか春先だったと思います。あなたのお父さんは、学校を卒業する少し前くらいでした。今のクロリスと同じくらいの年頃ですね。

 書斎に上がってもらって、お茶を飲みながら一緒に読書していると、あの人は抱えている悩みを打ち明けてくれたのです。恋人と結婚できるかどうか、というのがやはり最大の悩みでしたけど、卒業後に継ぐつもりの家業を上手くこなせるか自信がなかった、という悩みもありました。また、幼いころから実家の商売を継ぎたいと考えていた一方で、実は高等教育を受けたいとの迷いも少しあったそうです」

「お父さんの悩み多き少年時代……。初耳です。

 私は悩む間もなく色々な出来事に巻き込まれてしまいましたけど」

「そうですね。クロリスには不思議と、様々なものが引き寄せられてしまうのかもしれません。それこそ人間だけでなく、色々な出来事まで寄ってきてしまって」

「もしかしたら、お花ゆえの宿命なのでしょうかね」

「あら、上手な言い方ですこと」

「えへへ……」

「ともあれ、あなたのお父さんは、その後もこの書斎に何度となく足を運んできました。といっても一緒に読書をしたのは最初の頃だけで、やはり恋人を差し置いて私と二人きりの読書会というのは気が引けたのでしょう、ほどなく本の貸し借りをするだけになったのです」

「それで、あの『なれそめの本』が、手紙代わりになったのですね」

「私からは蔵書を見繕って貸し、彼は主に近年の印刷本を買っては私に貸してくれました。お小遣いを心配した私が聞けば、少し前から実家の手伝いや街の店の臨時雇いなどしていて、自分で稼いで貯めたお金があったそうです。それを少しずつ取り崩して、きっと本の選定にも、かなり探し回ってくれたことでしょうね。私の蔵書になくて、かつ興味がありそうな本を探そうとしてくれたのは、見ればわかります。その中に、あの一冊が必ずあって、余白に一筆、私への伝言を記していたのです。意図はすぐ察しました」

「お父さん、粋なことをしますね。

 あっ、でも手紙にはしたくなかったのでしょうか」

「そうだと思います。後にあなたの育ての母となってくれた恋人の手前、他の異性と手紙を交わすのもためらわれたのでしょう。多感な、人の心の機微に聡い青年でしたし」

「たしかに、お父さん変なところで気が利きます」

「そう、気が利く方です。それでつい、私も自分の悩みを、余白で打ち明けて……」


「なれそめの一冊」の余白の筆跡を何度となく読んでいた私には、何となく

二人の間の心の動きがわかるような気がする、恋愛とは少し違うのだけれど

互いを思いやって、とりわけ母が、苦悩を抱える父に寄り添おうとしていた


一方で母もまた、ここに赴任する少し前の出来事、別の街にある教会内での

派閥の対立などに悩んでいたのを打ち明け、父が心配する様子も読み取れる


「お母様の悩み、私も読ませていただきました。教会の中にも派閥のようなものがあったのですね」

「ありますとも。そういったことは、複数の人間が集まれば多かれ少なかれ生じるものです。

 かつて私は別の街の教会で役職を与えられていましたが、ちょっとした原因から同僚の司祭たちの関係が険悪になってしまい、仲裁に大変苦労しました。それで人間関係に疲れてしまった、環境を変えたいと教区長に相談したら、修道会に移ることを薦められたのです。それがここ、城下女子修道院。当時の院長が高齢で引退を希望していて、次期院長候補に悩んでいたそうで、私が院長候補の副院長として異動することになりました」

「国教会は金融機関という性質も強いですものね。それに比べると修道会は金融事業の規模も小さく、祈りに明け暮れる日々、険悪になる原因も多くはない、ということですか」

「修道会の中にも、派閥のようなものはありますが、どちらかというと日々のおつとめの中での役割の違いなどによる、小さな集まりです。この程度であれば、お互いに尊重し合っていれば軋轢を避けたり、減らすことはできます。もちろんそれでも、稀に仲違いすることはありますが、少なくとも国教会ほど険悪になることは滅多にありません。おかげでようやく私も落ち着いた日々を送れると安堵しました。とはいえ移ってからも、しばらく国教会のしがらみが残っていて、たびたび前職の関係者から手紙や使いの者が来るものですから、辟易したものです」

「お母様が辟易したり人間関係に疲れるほどの国教会も、相当なものだと思います」

「あら、クロリスったら。

 当時は私も若くて未熟だった、という可能性を考慮してくれないのでしょうか?」

「あっ、ごめんなさい、お母様。

 お父さんが若かったのだから、お母様も今より若かったのは当然ですよね」

「二人とも未熟だったからこそ、あのようなことになったのだと思います」


その年の夏の盛りに父は家業、母は修道院の用事で、それぞれ個別に仕事の

旅行に出て、途中の宿場町に立ち寄ったとき、偶然にも同じ宿で鉢合わせた


父は学校を卒業して家業の後継者として本格的に仕事をし始めて、以前から

手伝っていたのもあり早くも単独出張となって旅の空で一人悩んだのだろう

恋人との結婚が先方の家の都合により破談になるかもしれないという状況に


その夜、半ば上の空だった父の様子を心配した母が意を決し父の部屋を訪れ

父は酒の力を借りて勇気を出して悩みを相談、母は深く同情して慰めつつも

父の情の深さを褒めると父がそれに甘え、気付いたら同衾していた、という


翌朝、同じ寝台の上で目覚めた母は、これを過ちだとして二人の間の秘密に

することを提案し、父も全くの同意見で、それぞれの仕事に向かっていった


ところが十一月頃、どうにか相手方の家を説き伏せることに成功して育ての

母との結婚を果たして実家での新生活も落ち着いてきた父が、一連の報告と

感謝を伝えるべく修道院を訪問したところ、母は修道女を介して面会を拒否

何か問題を抱えているのではと心配し強引に乗り込んだ(女子修道院に!)

父は、そこでようやく母が私を身ごもったのを知って深く反省するも時遅し


母は修道会を辞めて何処か遠くの地に去り母子二人で生きると伝えたけれど

父はそれを許さず、母と生まれてくる子のためにも責任を取ると言い出した

問答の末、互いに相手や子供を思い遣っていることだけは理解し合えたので

少なくとも生まれてくる子供が不幸にならぬよう、そして母にも可能な限り

穏当な結果となるよう目指すと父は約束、それで親しい貴族に相談したのだ


「何の罪も責任もないクロリスを複雑な生い立ちにさせてしまいましたけど、あのときの状況で選ぶことができた、全員が納得する最善の解決策だったと、今でも思います」

「私は、暖かい家庭の一員として育てられて、何の不自由もありません。お母様の方こそ、私と離れ離れになって、真実を伝えることもできず、苦しい思いをされたのでは?」

「ありがとう、クロリス。あなたがそう思ってくれるだけで、私は充分です」



それよりも彼の婚約者には辛い思いをさせたと、今なお母は後悔を滲ませる


父は母と知り合うより前に育ての母と恋仲となり結婚を誓い合っていたのに

母はその恋人を一夜限りの過ちとはいえ奪ってしまい、育ての母を苦しめた

しかも私という動き回る証拠まで作ったのだから相当な罪悪感があるだろう


罪悪感は、もちろん複雑な生い立ちを与えてしまった私に対してもだろうし

そういった幾重にも重なる罪の意識は、私と会うたびにも直面しているはず


その一方で育ての母だって負けず劣らず心優しい女性、私の実母の罪悪感に

気付かぬはずもなく、実母と娘の関係を引き裂いている現状があるのだから

同じ母親として自分自身を責めるような罪の意識があるのではないかと思う

幼い私に出自を伝えた後、取り乱すほど涙したのは、きっとそのせいもある

しばしば修道院の礼拝堂に私を連れてきたのも、会わせたいとの考えからか


二人のわだかまりを解きたいと決意した私は、自宅に戻って父とも相談の上

育ての母や、妹と弟にも秘密にしたまま、何か上手い方法はないかと考える

というか父も重要な当事者なのだし、ここで何とかすべきだと娘として思う

とはいえ父も重大な当事者すぎて、なかなか何ができるか考えつかない様子


これでは三すくみだ、誰も動けないまま悩みを抱えるだけの人生になりそう

だとすると何の責任もない私が動くしかないだろう、そう決めたら早かった

当時の事情を知る義父や、田舎で隠居生活を送る父の母にも事情を聞きたい


そう決意したのは春分の日、まさに礼拝堂で母の話を聞いている最中だった

私の隣で祈りの姿勢を崩さず、穏やかなようで微かな緊張も含む育ての母の

表情を見ていたら居ても立ってもいられなくなった、というのが最大の動機


勝手に動き回る証拠品の私は、とにかく情報を集めようと、勝手に動き出す




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る