第63話 水急不流月

「まだですか?」


「まだだよ」


 水泳部の練習試合、当日の日曜、午前9時過ぎ。


 人気のない校舎の片隅にある茶道部の活動場所である和室に、僕と秋芳部長は来ていた。


 ほかに生徒もいない。ある意味密室であるこの部屋に、僕と部長が二人っきり。

 しかも襖の向うでは、部長が今まさに水着に着替えているという。

 なんとも不健全極まりないシチュエーション。


 僕の心は、今日の天気のように穏やかではない。


 自分の精神を落ち着けるように、僕は床の間を前にして正座する。


「あの、部長? 前の時もそうですけど、なんでここで着替えるんですか?」

「えー だって更衣室、きっと混んでるよ」

「そうでしょうけど」

「ここだと、ゆっくり着替えられるし」


 ここは部長の部屋じゃないんですよ。


 中からは、服がずれ落ちたり、擦れる音が漏れてくる。


 こんなの、僕が襖をすぐ開ければ、部長の裸が丸見えだよ。


 でも僕はそんなことはしない。

 ……できない。


 そんな度胸も甲斐性も、僕には持ち合わせていない。

 それを部長は知っているから、男がいるこんなところで、水着に着替えるなんてマネできるんだ。


「覗かないの?」

「しませんよ、そんなこと! それよりも、早くしないと遅れちゃいますよ」

「大丈夫、大丈夫……あっ」


 なに? 今、あっ、って言ったよね


「まっ、いいか」


 何がいいの? すごく気になるんだけど……


「着替えたよ」

「はい」

「じゃあ、開けるよ」

「……どうぞ」


 どうしよう、中から水着の部長が出てくる。


 なんて声をかければいいんだろう?

 どこ見ればいいんだろう?

 僕はどんな反応すればいいんだろう?


 そしてゆっくりと襖が開き……


 中から出てきたのは……


 上下ジャージを着た部長だった。


 あー なるほどね。


「どうしたの? 春山くん?」

「……いや、べつに」


 自分でそんな想像をしていたのが恥ずかしい。

 よく考えたら当然のことだ。

 ここからプールまで水着のまま行く必要なんてないのだから。


 ほっとしたような、がっかりしたような、なんともいえない感覚が僕を包み込む。


「あれ? もしかして期待してた?」

「なにを、ですか?」

「私が水着で出てくるところ」

「……べつに」

「ふ~ん」


 からかう様に、上から目線の部長。

 なんで僕の方が恥ずかしくなってるんだよ。

 普通、逆でしょ。

 恥ずかしいからじろじろ見ないで~ って、部長の方が……

 そんなこと言わないよな、この部長さんは。


「じゃあ、そろそろ行こうか」

「そうですね」


 僕たちはプールへと向かう。


 プールのある建物へと近づくにつれ、人が多くなってくる。

 ちらほら、見知らぬ制服の人や体操着の人もいる。


 1校の水泳部が10名ほどだとして、5校から来てれば50人。その他関係者。

 結構な人数が、今日プールに集結していることになる。


 僕はあまり知らない人の多いところとか、行きたくないのだが。

 でもそんなことを気にしないような素振りの部長は、プールへとつながる廊下をどんどん真っすぐ向かっていく。


 僕は周囲に目を配る暇もなく、ただ前を歩く部長の背中だけを追っていく。


 情けないな。

 部長の方が恥ずかしくて緊張してるっていうのに。

 そんな部長の後ろを付いて行ってるだけなんて。


 ごみごみする更衣室を抜けてそのままプールサイドへ。

 制服のままやってくるプールサイドに、僕も周りも違和感は感じている。

 そこでは、学校別にいくつかのグループが形成されていたが、その中の一つに体操着姿の南先輩を発見した。

 きっと、その集団がうちの高校の水泳部だろう。


 僕たちに気付いた南先輩が、こっちまで迎えに来てくれた。

「おはよう、南さん」

「ありがとー 秋芳さん。春山もごめんな、せっかくの日曜日に」

「大丈夫ですよ」


 僕たちは南先輩に案内されて、水泳部のところに。

 水泳部の男子生徒は10人くらいいるのに、女子部員はその場には2人しかいない。

 これじゃあ確かに練習試合もできない。


 集まって談笑している男子部員は、みんな僕より体がでかい。

 そのなかでも背が高く、ジャージを着ていても筋肉質だと分かるほどの体格のよい、短髪に刈り上げた男子生徒の前まで、部長は歩み寄る。


「おはようございます。今日はよろしくお願いします」

「おはよー かなちゃん。悪いね今日は。よろしく頼むよ」


 頭を下げた部長のことを、陽気な声で馴れ馴れしく、かなちゃん呼ばわりするこの男。

 何者?


「助かったよ、ホントに。うちに女子部員は、使えねーやつばっかりでさ。かなちゃんに、水泳部に入ってもらえると嬉しいんだけどなー」

「ごめんなさい。私、茶道部なんで」

「今年の夏だけでもいいからさぁ……」


 なんだこの人? 水泳部の部長? 

 部長のこと引き込もうとしてるの?


 僕がそんなやり取りを、じーっと見ていると……

 その水泳部の部長? が僕の存在に気付き、不審者を見るような目つきをして言い放った。


「だれ? こいつ?」


 ……僕のことはこいつ呼ばわり……か……


「茶道部の部員で、私の応援に来てくれたんです」

「あ―― っそ。関係者以外は立ち入り禁止なんだけどなぁ」

「私が無理言って来てくれたんです」

「あぁ、かなちゃんが? なら、いっか」


 なんか嫌な感じだなー

 なんで関係ない水泳部のために南先輩や、さらには部長が出てこないといけないんだ?

 変な反発心を抱くとともに、部長はやっぱりどこへ行っても人気者なんだなと、改めて痛感した。


「行こっか。春山くん」

「あー はい」


 とは言っても、居場所が……

 控えの生徒が座るベンチは、もういっぱいになってるし……

 観客席なんてないし……


 僕があたりを見渡していたら、いつの間にか部長はまた別のうかれた男子部員に捕まっていた。


「いやー 助かるよ、来てもらって」

「私でよければ。でも泳ぐの遅いですよ」

「いーんだよ、水着になって浮かんでくれてるだけでも」


 こんな奴らにも笑顔で接するんだな、部長は。


 部長の僕に見せる笑顔は、僕だけではなくて、ほかの人にも見せている。

 決して僕は特別な存在ではなく、部長に接してくる数人の中の一人。

 もしかしたら、その笑顔と優しさは僕だけに向けてくれていたもの、と勝手に錯覚していたのかもしれない。


 あ―――ぁ、なにしに来たんだろう、僕は。


 ボケーっとプールサイドで突っ立っていると、僕は水泳部の人たちとぶつかりそうになる。


「すいません。あの、僕はどこにいればいいですか?」

「あ? 水ん中にでも潜ってれば、いいんじゃね?」


 ……


「お前、それは酷いんじゃね」

「そこくらいしかないだろ」

「重りでも巻き付けて沈めとくか?」

「お前こそ、ひでーな」


 と、笑いながら去っていく男子部員。


 なんだよ、ここの人たちは。

 感じ悪いなー


 僕はしょうがなくプールサイド横の壁側に寄りかかって、ぼんやりと波紋の広がる水面を眺めていた。


 せわしなく動き回る他校の生徒、準備運動する生徒、一足早く水に浸かって泳ぎ始める生徒。


 理由もなく眺める。しまいには意味もなく、プールの水面の生徒が立てた波の行く先を目で追うようにっていた。


「こんなところにいたんだ」

「あー 部長」


 急に僕の視界の中に、長い髪を小さくまとめて、白い水泳帽の中にしまい込んだ部長の顔が現れた。

 髪がない分、いつもとは違った印象を与える。

 顔が小さく可愛らしく見え、整った輪郭が余計にはっきりするため、さらに美しさが増す。


「探しちゃったよ、急にいなくなっちゃうから」

「邪魔にならないところにいようかと」


「大丈夫だよ、一緒にむこうで座ろう」

「……」


「どうしたの? 元気ないよ」


 そりゃあそうだよ。

 周りはこんな人ばっかりだし。

 惨めな気分になる。


「まわりは知らない人ばかりだし、年上だし、かっこいいし。僕がいるには、ちょっと場違いな感じがして……」


「べつに春山くんが気にすることじゃないよ」

「気になりますって」


 自分は何の取り柄もなくて、弱くて、ちっちゃくて、かっこ悪くて……


「春山くん、ちょっと来てみて」

「なんですか」


 部長に手を掴まれ、プール際まで引っ張られる。


「ちょっと覗いて見て」

「落とすんじゃないですよね」

「そんなこと、しないよ」


 部長に促されて、静かに波打っているプールの水を覗き込む。


「水面に何が写ってる?」

「僕、ですけど」

「だよね」


 そこにはパッとしない僕の顔と、たとえ水面に写っていたとしても、その美しさは変わることのない部長の顔が、並んで浮かび上がっている。


 むこうで生徒が泳ぎ過ぎるたびに、数秒遅れて波がやってきては、僕の顔をぐしゃぐしゃに醜く潰していく。


 そこにさらに今度は、部長が水に手を突っ込んで大きな波を立たせる。


「水、急なれど月を流さず。って言葉、知ってる?」

「はい?」


 また茶道の言葉?

 急にそんなこと言われても……


「水の流れがどんなに早くても、水面に写る月は流れないって意味だよ」


 ??


「周りが変わっても、自分は自分をしっかり持っている限り、流されない」

「……」


「水に映った春山くんは、波が当たっても春山くんには変わりないでしょ?」

「そうですけど」


「時間が変わっても、どんなに周りが騒ぎ立てようとも、春山くんは変わらないよ」

「……僕なんか周りに流されっぱなしですよ」


「それは逆に、水みたいに柔軟性があって周りに合わせられるってこと。それでいて自分自身をしっかり持ってるからね、春山くんは」


 そう言うと部長は、両手をプールの中に静かに入れ、手で水をすくう。


「水はプールみたいに大きくなれば、この手のひらの中にも収まる柔軟性がある。それでいて水面に写っているのは誰?」

「僕……」

「そう」


 部長は優しくにっこりと笑う。


「私も恥ずかしいんだよ。泳ぎの上手い人たちの中で泳ぐのも」


 部長も、抵抗はあったんだ……


「ほかの学校の可愛い女の子と比較されるし、男の子はじろじろ見るし……」


 じゃあ、なんで……


 その時、部長は今までの鬱憤を晴らすかのように、手にした水を僕の顔にぶっかけてきた。


 わっ、冷たっ!


「ちょっと、部長!」

「目、覚めた?」


「もともと起きて……」

「でも、私はどこで何してても、私は私だし」

「……」


「春山くんは今日は他の人、気にしなくていいから、私だけ見ててくれればいいよ。そうすれば、私、がんばれるから」


 部長はそう言うと、全てを忘れさせてくれるような澄み切った笑顔を見せてくれた。


「部長?」

「ちょっと泳いでくるね」


 と、その場で着ていたジャージを脱ぎ始める。


「ちょっとお!」

「預かっててね」


 スルスルっと、脱皮するように身につけている物を脱ぎ捨て、中からは薄い水着をまとっただけの姿が現れる。


 慌てて僕は、部長の落ちたジャージを回収する。


 目の前の部長の白く滑らかな肌が、目がくらむような怪しい光を放つ。

 紺色のスクール水着に包まれていても、はっきり二つに割れているのが分かる、ふっくらとした形の整ったお尻を僕に向けながら、部長は走っていった。


 そんな姿に今までの嫌な気持ちも忘れ去り、部長の体に目が釘付けになってしまう。


 そして部長は、開いているレーンの飛び込み台に上ったかと思うと、そのまま奇麗な放物線を宙に描きながら水面へと飛び込んだ。


 飛び散った水しぶきが、光となって降り注ぐ。


 水中を気持ちよさそうに泳ぐ部長は、水面に反射する光の飛沫のように、美しく輝かしく見えた。



 確かに秋芳部長は、


 水中にいても、


 水面に浮かび上がっても、


 プールサイドに上がっても、


 どこにいても、そこにいる部長は、


 いつもの輝くほど明るく、美しい女の子であった。

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