就活生、パパ活女子を救う。

東蒼司/ZUMA文庫

就活生、パパ活女子を救う。

 平日のお昼時を過ぎてもドトールコーヒーは混雑していて、カウンター席には暇そうにスマホを眺めるサラリーマンや中国人の家族などが座っていた。

 一番端を陣取ってアイスコーヒーとノートパソコンを置く。SPI対策のサイトが開くまでの間、所在なく通りを眺めた。


 新宿に来るのは久しぶりだ。最後に来たのがいつで、何の用事があったのかも覚えていない。

 変わらないのは漠然とした嫌悪感だった。ビジネスマンも、学生も、外国人旅行客も、誰もが忙しなく歩いている。ゆとりがないのを肩書にして自分を強く大きく見せている。

 その雰囲気に圧されて寄り付かなくなった街だが、合同企業説明会が開かれるので来ざるを得なかった。慣れないスーツ、革靴、ビジネスバッグ。ゴールデンウイークが過ぎた5月は就活が盛んだ。

 アイスコーヒーに挿したストローでさえ、パキッとした嫌な感触がした。


 ドトールのWi-Fiが重いのかサイトが混雑しているのか、演習は中々画面に表示されない。

 マウスポインターが円の形をしてグルグルと更新しているが、ブラウザはドッと柄の背景ばかり映した。


 ふと顔を上げると、歩道にミニスカートを履いた白い肌の女がいた。年齢は僕と同じくらい。ジロジロ見てはいけないと思いつつ、ひと際目を引く美貌を凝視してしまう。

 肩まで伸びた髪は黒いが、耳の辺りは赤のインナーカラーを入れている。肌は白く柔らかで、目尻に惹かれたブラウンのアイラインが緩く湾曲していた。涙袋の大きな垂れ目と紅い唇が儚いものの、ファスナーを閉め切った黒いパーカーが、シンプルで洗練された印象を与える。

 何より目を引くのが、ロリポップのミニスカートから伸びる肢の、しなやかな白さ。ほんの少し突いただけでミルクゼリーのように深く沈み込んでしまうのが、目に浮かんだ。


 彼女はガードレールに体を預けて、無愛想にスマホを眺めている。ただ表情がないだけのそれは、涼し気な目元のせいで泣き出そうにも見えた。常に自分の弱さを見せている――正確には、自分を弱そうに見せているのだと思った。

 やがてカーキのブルゾンを着た中年の男が、彼女に近寄って声を掛けた。一言二言のやり取りを経て、揃って歌舞伎町方面へ歩いて行った。


 僕はガッカリしてパソコンに目を戻した。画面はSPIの演習問題を表示していた。

 

   ※


 東京メトロ千代田線から赤坂で降りて地上へ。

 高いビルか、瀟洒な建物か、ローマ字のブランド。あるいは凄そうな美術品。一体僕に会う街はどこにあるのだろう。

 街中の全てが近寄り難いハイソサエティの場所に、それでも来なければならないのは、やはり就活のためだった。


 年間休日数120日以上。夏季休暇年末年始休暇有。基本給25万~(20時間の見なし残業を含む)。残業平均15~40時間。

 これでも僕には働きすぎな会社に思えたが、妥協して許せる範疇ではあった。

 こうやって偉そうに言ってはいるが、内定はひとつもないので選べる立場にはない。妥協の理由はそこにある。


 数年前にできたばかりの、新しいIT系企業だった。服装自由髪色自由。説明会の案内にも「ラフな格好でお越しください」とある。

 もちろんそれを真に受けるわけがなくて、革靴をコツコツ鳴らしながら赤坂を歩いている。大学の入学式――つまり3年前に買ったスーツは、肩の辺りがきつい。ビジネスバッグもずっしりと右手に食い込むが、それはひとえにノートパソコンを入れているせいだ。


 エレベーターに乗ってビルの8階に行き、案内に従って会場へ。

 セミナーのような大会議室を想像していたが、ダークブラウンのインテリアと一面ガラス張りの窓が張られた応接室に通された。


「佐藤こうたさん、ね。今日の説明会を担当する大岡です」


 シルバーフレームの眼鏡を掛けたツーブロックの男は、本当にIT系の人間なのかと疑いたくなるほど、ガタイがよくてハキハキと喋った。

 現役のラガーマンと言われても違和感がない。さり気なく襟元に手をやった。


「よろしくお願いします」

「今日は君の他にもうひとりいるから。その方が到着したら始めますね」


 恭しく頭を下げると、脳天の辺りに大岡の声が刺さった。


「そういえば佐藤くんさ、服装自由って書いてあったよね」

「あ、はい。一応スーツにしたんですけど……」

「真面目だねえ。うちは本当に服装自由だからさ、別にデニムとかジャージでもなければ何でもよかったのに」


 皮肉なのか冗談なのか分からない大岡に、せめて愛想笑いを浮かべて応える。今になって、彼がスーツではなくネイビーのジャケットを羽織っていることに気付いた。


 肘掛け付きのレザーチェアに腰を下ろして、就活生ごときがこんな椅子に座っていいのか疑問だったが、大岡が「佐藤くんてJリーグとか観る?」と聞いてきたので、別に構わないのだと思った。


「いえ、サッカーは……」

「あー観ないかあ。僕は浦和レッズを応援してるんだけどさ、今年も優勝できそうになくてねえ」


 大岡が何の抵抗もなく話を続けるので、何かを間違えて「観ます」と言ってしまったのかと疑った。

 自分のことは信じられないし、大岡は興味のないサッカーの話を続ける。窓の向こうでは鳥の群れが弧を描いて飛んでいる。


 話の流れで僕がDAZNを契約することになったとき、もうひとりの参加者がやって来た。開始時間の5分前だった。


「こんにちは」


 選考を受ける側とは思えないほど、ぶっきらぼうな声を出す彼女には見覚えがあった。

 白桃色のパーカーにアディダスのスウェットパンツを履き、足元はコンバースのスニーカー。

 服装自由を真に受けた彼女の、その出で立ちなんかよりも、儚げな目元や赤いインナーカラーの方がよほど目を引いた。


「佐伯ユナです」

「佐伯さんね……よし、じゃあ彼の隣に座って」


 大岡は彼女の非常識を非難するか勇気を称えるかを迷って、結局中間を選ぶみたいに余計なことを口走らなかった。

 僕はいっそ拍手喝采でも送ろうかと思った。紋切り型のマナーを押し付ける就活市場に一石を投じ、臆さずに我が道を突っ走る佐伯は自由の女神さながらだ。


 堂々と椅子に腰掛けた佐伯は、ショルダーバッグを背もたれに掛ける。僕は彼女の背中に会釈をしたが、佐伯は一瞥もくれなかった。彼女のたおやかな手がバッグに伸びて、思い直したように引っ込む。スマホを触りかけたのだと思った。



「モバ充、ある?」


 説明会を終えて「簡単な面談をするから」と大岡が姿を消したときだった。僕らは選考アンケートなるものを渡されて、そこに名前やら大学名やら選考中の企業やらを書いていた。

 佐伯がそう言って、僕に声を掛けたのだと気付くまでに数秒かかった。


 驚いて振り向くと、緩やかなアイラインの引かれた目がこちらに向いている。同情を誘う儚い垂れ目は侮蔑的でもあって、それが余計に僕の心を吸い込んだ。


「iPhoneのモバ充。持ってないの」


 焦れもせず、和らぎもせず、佐伯は言葉だけを変えた。

 

「ああ、ある」


 慌てて頷く。佐伯が2度瞬きをして、ため息をつく。


「貸して」


 充電コードを巻き付けたモバイルバッテリーを渡すと、佐伯は「ん」と口も動かさずに言って受け取った。

 今の「ん」は、ありがとうの意だと解釈した。


「おまたせ、じゃあ佐藤くんから。これ選考関係ない面談だから、気楽にね」


 先に呼び出されたのは僕で、モバイルバッテリーを貰いそびれたのには、そういう事情がある。


   ※


 就活は自分との戦いだ、という格言なんて聞いたことがないが、それなら僕が言い出しっぺになろう。そのくらい、僕は自分と戦い続けている。そして案外、自分は手強い。

 僕に向いている会社――というより仕事が、社会には存在しないのではないかと思う。就活を進めるほど思いは募り、だからといって無職のままでは両親に合わせる顔がない。

 屈するまいと自分を鼓舞し続けて就職先を探しているが、もしも屈するとしたら何に対してなのかは分からなかった。


 だからというわけではないが、いささか、疲れた。

 条件のいい会社だと思って応募した先の企業が、大岡のような厳つい男を採用担当にしているのでは堪らない。

 DAZNの無料トライアルを使ってサッカーの試合を観てみたが、5分と経たずに画面を閉じた。次の更新日前に『DAZN 契約解除』とリマインダーを入れる。


 就活から自分を解放しようと決めた。しかしやることが思いつかなかった。

 ライターバイトは先月以来やっていない。お陰で今月の収入はゼロだ。友達が多くないから遊びの予定もないし、無益にスマホを触って時間を消費するばかりだった。


 スマホでマインクラフトをやっていると、インスタのDMに通知がきた。知らないアカウントだった。

 スパムだと思ってスルーしかけたが、文面に『充電器』とあったのが引っ掛かる。


 メッセージを開くと詳細が――簡潔というより不親切な短さで書かれていた。


『充電器。返したいから新宿来て』


 そんなわけで、僕はまたもや好きではない新宿に行く羽目になる。

 Tシャツの上にジャージを羽織って、ズボンにはデニムを選んだ。こういうどうでもいい抵抗をするときだけは、自分に嘘をつけない。


 新宿に着いたときは18時を回っていた。

 待ち合わせ場所には東口を指定されていたので行ってみると、相変わらず前しか見ない人々でごった返している。

 人ごみを掻き分けて交差点前の花壇に辿り着き、インスタを開くと佐伯からメッセージが来ていた。


『ここのドトール』


 不親切な文面の下には位置情報が載っていて、駅からは随分離れていた。僕が初めて佐伯を目にした場所だった。

 彼女が目の前にいないから、イラ立ちのままに舌打ちをした。佐伯が僕をフォローしていないことも、怒りに拍車をかけた。


 蟻みたいに蠢く人ごみを押しのけて、何度か肩をぶつけられながらドトールに辿り着いた。

 佐伯は以前見たようにガードレールに体重を預けていた。白桃のパーカー、アディダスのスウェット、コンバースのスニーカー、ショルダーバッグ。赤坂のベンチャー企業では非常識に見えた服装は、歌舞伎町だと健全に映るのが不思議だ。


「えっと……佐伯、さん?」


 頭の中で何度も呼んだ佐伯を、実際に口にするのは初めてだった。

 佐伯は僕に気が付くと、チラリと一瞥くれて興味なさそうに目を逸らした。


「これ、ん」


 彼女はショルダーバッグからコードと充電器を取り出して僕に差し出す。

 また「ん」だった。

 

 生クリームのように柔らかい佐伯の指に触れないよう、慎重に充電器を受け取る。

 それで用が済んだら佐伯はさっさと去りそうだったので、気になっていたことを口にした。


「どうやって僕のアカウント見つけたの?」

「本名でやってたから、インスタ」


 じゃあ僕の本名をどうやって見つけたんだよ。

 口には出さなかったが、佐伯は察したらしかった。


「エントリーシートに書いてたじゃん、名前。君の学歴も知ってるよ」


 エントリーシート、と記憶を辿って、面談前に書いた選考アンケートのことを思い出した。

 僕がアレを書くのを佐伯が横目に見ていた、というのがいみいち信じられなかった。とはいえ最終的にはモバイルバッテリーは無事に戻ってきたのだ。それ以上のことはあるまい。


「じゃあ」


 今度こそ佐伯は去っていく。

 もっと彼女と話したかった。「ドトールで話して行かない?」と声を掛けられたらどんなに良いか。だが、それができないからドギマギしているのだ。


 気落ちだけして佐伯の背中を見送っていると、背後から誰かにぶつかれた。

 僕が文句を言う勇気を絞り出すよりも先に、ぶつかってきた男は佐伯の肩を掴む。


「おい!」


 背後からでは伺えないが、凄まじい剣幕を浮かべていることは間違いない。そのくらい、鋭い憎悪に満ちた声色だった。

 男はグレーのスーツ姿だった。片手に提げたビジネスバッグが、佐伯を脅すに連れてブランブラン揺れる。白髪交じりの髪で猫背なのが侘しい。


 佐伯は冷静だった。垂れた眼差しの中の瞳が真ん丸になっていて、若干の動揺が見えなくもないが、あくまで見えなくもない程度だ。

 彼女が何も言わずに男を眺めるままで、それが男の憎悪に薪をくべた。


「ざけんなよ、お前のせいだぞ! ざけんなよ!」

「……逆恨み?」

「逆恨みじゃねえよ! ざけんな!」


 男の言っていることは支離滅裂で、落ち着き払っている佐伯に理があるように見えた――何も知らなければ。


 昼間から見知らぬ中年男性と待ち合わせて歌舞伎町に消えていった佐伯を知っているから、僕は彼女と男の間に何が起きたのかは感付いていた。

 どっちが悪いかと言われたら、どっちも悪い。自分を売る方にも、買う方にも、同情なんてできなかった。


 行く末を眺めながら、さっさと立ち去ろうと思った。佐伯への憧れはとっくに失せていたし、性欲に突き動かされた末路をありありと見せられている。

 せいぜい警察を呼ぶのが関の山だ――そのとき、男の右手にギラリと光るものが見えた。


「ッ!?」


 息を呑んだ。

 紛れもなく刃物だ。


 左手で佐伯の肩を掴んだまま、右手には果物ナイフを振りかざしている。ブルブルと震えていた。

 反射的に男に飛び掛かって、タックルを食らわせた。


「なんだよお前――」


 構わず男諸共バランスを崩して側溝に倒れ込む。

 男が何かを喚いた。顔を上げると、真っ赤になって激高する顔があった。何を言われているかは分からない。声にならない怒声を浴びせられて、唾が飛んだ。


「なんだよお前、どけよ!」


 目の前で男が怒鳴って、生温い呼気が臭った。カサカサに荒れた唇の中に黄色い歯が見え隠れする。

 男の右手を見ると果物ナイフはない。どこかに落としたのだ――そこまで確認できた自分に驚いた。


「早く、早く逃げろよ――」


 男に馬乗りになって佐伯に言った。

 彼女は呆然と立ち尽くしていたが、やがてスッと動き出して――果物ナイフを拾った。


 何をするつもりだ? 訊ねるようとしたが、男が僕を跳ね除けた。仰向けに倒される。お尻、背中、後頭部の順でアスファルトに打ち付けた。痛い先に熱いと、感じた。


 後頭部を抑えてのたうち回りたい衝動を我慢して、必死で目を見開く。

 歪む視界の中で、男がよろめきながら立ち上がる。佐伯が果物ナイフを持っている。男が何か言っている。佐伯は何も言わない。男が後ずさりする。佐伯が駆け出す。

 グサリ。音がしたわけじゃない。でもたしかに聞こえた。


 佐伯の突き出した果物ナイフは、男の下っ腹に突き刺さっている。


「おま……ざけ……」


 恨み言を零しながら、男が倒れ込む。刺された箇所を必死でさすっている。

 刃物を抜くか抜くまいか迷っているようだったが、逡巡はみるみるうちに苦悶に染まっていった。


「ああ……もう」


 ため息交じりの声は、佐伯が漏らした。


「佐伯――」

「最っ悪なんだけど」


 呆れるくらい素直に後悔を口にして、佐伯は駆け出した。

 後頭部を抑えながら僕も追いかけた。


 走りながら、何故彼女を追いかけているのだろうと不思議に思う。追い付いたとして、僕はどうするのだろう。

 いや、それは追い付いてから考えればいいのだ。


 佐伯がタクシーを捕まえて乗り込んだ。僕もそれに乗った。


「何の用?」

「しょうがないだろ!」


 佐伯はため息をつくと、運転手に行き先を告げた。


   ※


 タクシーが止まったのは、見たこともない住宅地だった。


「3500円です」


 運転手の言葉に、佐伯は手を動かそうともしない。それどころか、僕に「はやく」とだけ言った。


「僕が出すの?」

「ちょっと、払ってよお客さん。まさかお金ないとか言わないよね、え?」


 運転手が語調を強めるので、仕方なくデビットカードを出した。


 タクシーを降りると、辺りはすっかり暗くなっている。

 白い街灯が不気味に転々としていて、民家に明かりが点いているのに生活の気配はまるでしなかった。


「結局さ、何しに来たの?」


 不意に佐伯が言った。


「何しにって……」

「私のこと捕まえるわけ?」

「そういうんじゃないけど」

「言っとくけど共犯だから」


 そんなわけがない。頭では分かっていても、妙な説得力があって、共犯なのかもしれないと思わされた。佐伯が大人びてみるせいかもしれない。


「……共犯ならさ、逃げるしかないじゃん。共犯なら」

「勝手にすれば」


 佐伯が迷いなく歩き出すので、ついて行くしかない。


 やはりというべきか、到着したのは佐伯の自宅だった。木造アパートの2階、1K。いかにも就活生の一人暮らしだ。

 佐伯が鍵を開けたので続いて入ると、中は意外に質素、というより散らかっている部屋だった。


「身体目的?」


 ベッドに腰掛けてマットレスを撫でながら、佐伯は出し抜けに言った。

 僕はうんともすんとも言えないから「ええと……」と口ごもる。


「それ、みんなそうする」


 佐伯の言う「みんな」が誰のことなのかは察しが付いたし、その「みんな」にこれを聞いているとしたら苦いことだ。


「逆にどうやって答えればいいの?」

「素直に答えりゃいいじゃん。どうせみんな身体目的なんだから」

「……素直に答えるなら、僕は身体目的じゃないよ。少なくとも今は」


 一生懸命目を逸らさずに伝えると、佐伯は視線を何度か泳がせてから「そうかもね」と言った。

 佐伯はリモコンでテレビを付けた。お笑い芸人がMCのクイズ番組だった。教科書の内容から問題が作られていて、若手俳優がしかめ面で頭を抱えている。


「座りなよ」


 佐伯が言った。椅子が見当たらないのでカーペットの上に胡坐をかいた。佐伯は冷蔵庫からビールを2缶取り出して、片方を僕の傍らに置いた。


「どうする?」

「飲むよ」

「そうじゃなくて」


 佐伯がプルタブを引く。心地よい音がした。

 沈黙が訪れた。佐伯が言葉を付け足すのを待ったがそれは叶わない。


「だから、身体目的じゃないって――」

「私さ、さっき人を刺したわけじゃん?」


 ほんの少しだけ苛立ちが含まれていた。初めて佐伯の感情が見られた気がした。


「だから、どうするってこと?」

「うん。だってさ、君ついて来たわけじゃん」


 ついて来たから、何だと言うのだ。

 のこのこ佐伯の家まで来てしまったのはただの衝動だし、妙案があるならとっくにそうしている。


 テーブルに置かれた佐伯のスマホ画面が光って、Yahooニュースの通知がきた。


『新宿で男性刺される。容疑者逃亡中』


 自分のスマホでも同じ速報を見て、答えは決まった。


「自首するしかないよ。刺しちゃったんだから」

「やだよ」

「だってニュースになっちゃったし。きっと監視カメラにも撮られてるよ」

「だから、それをどうする? って聞いてるんじゃん」

「警察も馬鹿じゃないよ。先に襲ってきたのは向こうだし」

「親にバレたくないんだよね」


 涼しい目元をこちらに投げかけて、佐伯は平然と言った。テレビから大勢の笑い声が聞こえてくる。

 僕のスマホには親からのLINEが来ている。『夕飯はいるの?』『いらないよ。今日友達の家泊まる』。やり取りを手短に済ませて、佐伯を見返す。


 ふつふつと僕の心に後悔が湧いてきた。親にバレたくないのはこっちも一緒だ。いずれ僕の家にも警察が来るのだろう。

 帰って来ない僕のことで両親が問い詰められ、困惑すると同時に僕を酷く心配する。想像するだけで動悸がした。


「……ごめん、やっぱり帰るよ」

「あっそ」


 佐伯に背を向けて玄関へ向かった。脱ぎ散らかしたスニーカーを整えながら靴ベラを探すが、見当たらない。仕方なく人差し指と中指で踵を滑り込ませた。

 下駄箱には見たことのあるコンバースが並んでいる。


「ねえ」


 部屋の方から呼び止められた。

 振り向くと、佐伯が下着姿で立っていた。


「したいんじゃないの?」

「そんなんじゃないよ、本当に」

「嘘じゃん。いいよ、そういうの」


 紅い唇がふんわりと歪む。白い柔らかな脚がゆっくりと蠢いて、左右の膝頭が擦られた。佐伯の笑顔を初めて、見た。


「したいんじゃん」

「そういうんじゃない。そういんじゃないって」


 そういうのじゃないけど、彼女を見捨てられないとも思った。


   ※


 雀の鳴き声で目を覚ましたとき、僕はカーペットの上で仰向けになっていた。ベッドでは佐伯が掛布団にくるまっている。服をまとめて皺を引っ張り、部屋の隅に畳んで置いた。

 キッチンに行って適当なコップに水を汲んで飲んだ。喉が渇いていた。2杯3杯と飲んでも足りなかった。冷蔵庫にデジタル時計がくっ付いていて、05:48を指している。昨日のことを思い出すと足が竦んだ。


 やや迷って、シャワーを浴びた。汗ばんでもいないし寒くもないが、全身にへばりついたものを洗い流したかった。

 放り投げられていたタオルで全身を拭いて部屋に戻ると、目を覚ました佐伯がこちらを見ていた。


「洗濯機に入れといて」


 ややあって、タオルのことだと分かった。


「ごめんシャワー浴びてた」

「すぐ出るから」

「どこ行くの?」

「どこでも」


 佐伯が洗面所に入った隙に、僕は服を着てテレビを付けた。淡々とニュースを流す情報番組か、誰が買うのか分からない通販か、古い歴史ドラマしかやっていない。

 ニュースを流していたが、どれも他人事ばかりだった。


 洗面所から出てきた佐伯は、白いレースのシャツにブラウンのロングスカートを履いていた。クローゼットからレザージャケットを引っ張り出して、羽織りながら「行こう」と言った。


「えっと、どこに」

「どこでも。あ、じゃあマック」


 コンバースを履いて佐伯は言い直す。



 僕らは15分近く歩いてマックに辿り着いた。ドライブスルーのある店舗だったが、車は通っていなかった。

 通りに面したカウンター席に並んで腰掛け、モバイルオーダーで注文した。他に客はいない。注文はすぐに届いた。


「実家暮らし?」


 ハッシュドポテトを齧りながら佐伯が言う。


「うん」

「私地方から出てきたの」

「へえ、どこ?」

「ずっと片親だったんだけど、高校のときにママが再婚して」

「大変だったんだ」

「新しいお父さんに襲われそうになってさ」

「えっと、それで家を出たってこと?」

「高校中退して無理矢理こっち来て。高卒資格取ってから受験した」


 佐伯のハッシュドポテトはなくなって、今度はマフィンにかぶりついている。

 何と答えればいいのか分からず、逃げるようにポテトを食べた。彼女が親にバレたくない理由が分かった気がした。


「あのさ、佐伯」


 返事はない。代わりに視線が向いた。


「俺今日午後からリモート面接あるんだけど」

「あっそ」

「家貸してくんない? あとスーツも」

「ジャケットならいいよ」


 僕らは朝食を済ませた後、遠回りをして自宅に戻った。

 どこでも、と言った佐伯の希望は叶えられなかったし、警察が来る気配はまるでない。そのお陰で、油断ではないけど、昨晩のような義務的な正義感から解放された。


「君はストレートで大学?」


 歩道を進みながら佐伯が言った。


「うん。4年生、今年で22」


 答えながら、佐伯がそうではないことを感じた。

 足元では赤いコンバースが左右交互に進んでいる。履き口から白い陶磁器みたいなくるぶしが見えた。佐伯の肢体を支える足首は、華奢で頼りない。


「弁護士に相談しよっかな」


 アパートが見えていた。佐伯のジャケット着られるかな、とか服装自由って言ってたけど今度は本当かな、とか考えていたから冷や水を浴びせられたような気分になった。


「自首するってこと?」

「しない」

「じゃあ相談しなくてもいいんじゃない」

「分かってる」


 それは何をどこまで、分かっているのだろう。おそらく佐伯自身にも分からないのだろう。

 自分の分かっていることが、分からない。だから思いつく限りの分かったようなことを言うしかない。


 僕は分からなかった。「分かってる」なんて口が裂けても言えないくらい、何もかも分からなかった。

 分かっている佐伯が――たとえ分かっているいうな素振りであっても、途方もなく大人びて見えた。


 部屋に戻ると、佐伯はすぐにジャケットとシャツを脱いだ。


   ※


 年休125日以上。基本給23万円~。残業代別途支給。服装髪色自由。一部リモートワーク有。健康経営有料法人。


 条件だけで選んだゲーム会社の担当者は、ラフな白シャツにレディースのオフィスジャケットを羽織る僕を見ても、顔色一つ変えなかった。


 自己紹介をお願いします。

 志望理由を教えてください。

 学生時代どんなことに力を入れましたか。


 ありふれた質問にありふれた答えを返している間、佐伯はずっとキッチンにいた。

 包丁がまな板を叩く音、卵を割る音、何かを焼く音。調理の音が入っていないかと心配だったが、やはり担当者は何も言わない。


 インターホンが鳴ったのは、最後の逆質問をしているときだった。表情の強張った自分が画面に映った。


『続けても大丈夫ですか?』


 担当者が微笑みを浮かべて言う。


「大丈夫です」


 玄関の様子が気になったがそう言わざるを得ない。

 もう一度インターホンが鳴ったとき、キッチンの音が止んだ。佐伯のため息が聞こえた。


「御社ではどのような人が活躍していますか?」

「すいませーん、荻窪警察です。佐伯さんいますよねー」


 僕の質問に答えるみたいに、扉の向こうから声がした。


   ※


 犯人隠避罪、と警察は言った。大村という、中年の男だった。


「事件現場を見てて一緒にいたらさ、そりゃ疑われるよね。犯罪者が逃げるのを手伝ったら、それも犯罪なんだよ」


 はい、と言ったはずだが、言えていない。だから代わりに頷いた。


「結局佐伯とはどういう関係なの?」

「友人、ですかね」

「どこで知り合ったの?」

「就活で説明会が一緒になって……」

「へえー。彼女とかじゃないんでしょ?」

「そうですね。そういうのは、全然」

「でも佐伯の家に泊ってたんだ」


 もはや隠すつもりはなかった。というより、そもそも隠せるようなことがない。 

 佐伯を僕の家に匿ったわけでもないし、あの男を刺すのを手伝ったわけじゃない。


 大した意味もなく美人についていっただけの僕を、大村は軽んじているようですらあった。

 同時に、性欲に踊らされた浅はかな男を犯罪因子にしないよう、徹底的に脅しつけるようでもあった。


「きみ大学生なんだよね、刑法とかやってないの?」

「いえ、そういうのは……」

「ふーん。犯罪隠避罪ってよくあるんだよね。友達とか家族の頼みだからーてのもあるし。自分にも後ろめたいことがーってのもあるし。判例もあるよ?」

「はい。でも僕――」

「一番くだらないのがさ、見た目だけはいい女の子に騙された男ね。そういうパターンって、大体いいように使われてるだけなの。自分でそれ思わなかった?」

「――思いました」


 取調室は寒いくらい殺風景だ。真っ白な壁、頼りないパイプ椅子、凹みと傷だらけのテーブル。一番目に付くのは窓に取り付けられた鉄格子だ。


 大村はひと息吐いた。うんざりしたように眉間に皺を寄せている。

 取調室はうっすら暑かった。梅雨もまだ始まってないのに、どこからこの熱が出ているのか不思議だ。同時に寒気も感じるのだから、余計に不思議だ。


「今回で佐藤くんを何か罪に問うってことはないんだけどさ」


 二度と来るなよ。大村に見送られて警察署を後にした。



 家に帰ったときには20時を過ぎていた。

 母親も父親もあらましを知っていた。母親は口元を覆って泣き崩れ、父親は「風呂できてるぞ」と言ったきり口を真一文字に結んだ。


 まる1日着続けた服からは嫌な匂いがする気がして、まとめて洗濯機に放り込んだ。シャワーを浴びて全身をくまなく洗った。

 風呂を出てから、何も言わずにすすり泣く両親に改めて説明した。


 佐伯のこと、事件のこと、通り魔のこと、昨晩のこと。

 僕は「男を刺した女に騙された大学生」でもあり「通り魔に襲われた可哀想な大学生」でもあった。警察は両親にそう伝えていたらしい。

 佐伯を助けた、とは誰も言わなかった。


「ごめんなさい」


 2人に頭を下げた。数秒そのままでいると「もう二度とやらないでね」と母親が涙声で言った。


 自室に戻ってから知ったことが2つある。

 新宿で中年男が刺された事件の続きはまるで報じられていないこと。

 昨日受けたIT系ベンチャー企業は不採用だったこと。


   ※


 あれから2カ月が経つ。佐伯からの連絡はない。内定はひとつだけ貰った。年休120日以上月平均残業20時間以下の人材派遣会社。そこで僕は施工管理士になるらしい。

 なるつもりはないから就活は続けている。


 スーツを着て例のドトールコーヒーにいるのは、そういう事情からだ。


 ライター職の応募課題に取り組みながら、白紙のWord画面を睨んだ。僕のか弱い眼差しでは文章を浮かべられなくて、視線を前方にやった。

 通りではサラリーマンや外国人旅行客が闊歩している。誰もが前だけを見て一心不乱に歩いている。立ち止まる者は誰もいない。


 青白のチェック柄シャツを着た冴えない風貌の男が、スマホを片手にキョロキョロとしていた。何度か通りを往復してから、ガードレールに寄って立ち止まった。


 彼が何かの拍子に逆上して女の子を刺そうとして、そして返り討ちに遭う未来を想像した。

 止めるべきなのだろうか。他人事ではない、最悪の結末を。


 彼を思いとどまらせる術が思いつかない内に、見知らぬ女の子がスマホ片手に彼に声を掛けた。

 2人は連れ立って去って行った。視線を画面に戻す。文章は思い浮かばない。


 インスタを開いて佐伯にDMを送った。


『あの後どうなったの?』


 何もできなくてごめん――メッセージはその前で途切れている。

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