かよ子さんの喫茶店

@sasakihanada

かよ子さんとパスワード

「これも違う」

 とびきり苦いコーヒーを注文した山岡さんは、苦虫を嚙み潰したような顔でパソコンと睨めっこをしている。

 甘党なんだからコーヒーなんて頼まない方が良かったんですよ、それもこれ以上ないくらい濃くて苦いのなんて。そう思ったけれど、彼が唸っているのはコーヒーの苦さのせいではないらしい。

「忘れちゃったんです。サイトのパスワード」

「何のサイトなんですか」

 聞き返すと、彼は口元を両手で覆って唸り声を上げた後、少しだけ頬を赤くしながらつぶやいた。

「投稿サイト」

「え?」

「小説を投稿するサイトのパスワードを忘れたんです。昔書いていた小説を削除したかったのに」

 山岡さんはあれでもないこれでもないとキーボードを叩いているが、成果は芳しくないようでどんどん猫背が酷くなっている。パソコンの画面と頭がくっつきそうになった辺りで、彼はがっくりとうなだれながら背もたれに寄りかかりため息をついた。

「どうして忘れちゃったんだろう。使いまわしのパスワードだったはずなのに」

「私が推理するに、小説を投稿するという特別なシチュエーションに興奮していつもとは違う特殊なパスワードにしちゃったとか」

「……そんな気がしてきました」

「大文字を使ったり、記号も入れちゃったり」

「絶対にそれだ。なんか楽しくなってビックリマークを入れた気がします」

 お茶目な過去の自分に苦しめられた山岡さんは重いため息をついた後、コーヒーを一口飲み、眉間のしわをさらに深くした。やっぱりコーヒーは苦手みたい。

「この小説、途中で煮詰まって書きかけだったんだけど急に続きを思いついて。どうせなら完結させて賞に出そうと思っていたのに」

「ダメなんですか?」

「もし賞が取れても、このサイトを見つけた人が盗作って言ったら俺犯罪者じゃないですか。だから削除したいんです」

「盗作も何も、作者は山岡さんなのに?」

「俺が作者である証明ができないなら、作者はやぶの中ですよ。ああ訴えられたらどうしよう」

「その時は私が証人になりますよ。山岡さんがパスワード分からないってお店で泣いてましたって」

 だからほら、コーヒーはやめにして紅茶を飲みながら続きを書きましょうよ。

 そう笑っても山岡さんは浮かない顔で苦手なコーヒーを啜るばかりだった。

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