香薬師ルシリカと死者の花
天柳李海
第1話 こんなこと、ありえない
薄暗い牢屋の中。響き渡るのはどこからか滴り落ちる水音だけ。岩盤を削って作られた冷たい寝台に腰掛け、私はただ座り続ける。
「こんなこと……ありえない」
目を閉じると脳裏に何度も何度も蘇る。
姉エリスの微笑みが。
病苦と焦燥に満ちた顔が、最後の瞬間ふっと花開くようにほころんだ。
「ありがとう……ルシリカ。私の好きな香りで、送ってくれて」
私は無言でエリス姉様の両手を握りしめた。
あなたの望み通りの香りで寝所を満たし、病の苦しみを一時でも良い。薄れさせること。香りで人々の心を癒やす『
それなのに。
どうしてこうなってしまったのだろうか――。
◇◇◇
数時間前――。
オルラーグ国・王太子妃エリスの枕元に置いた金色の香炉からは、静かにマロウ銀葉樹の香りが立ち昇っていた。しんとした早朝の森の中。あるいは、朝霧に包まれた湖畔の辺を思わせる清々しい香り――それは、優美で聡明なエリス自身をイメージして私が調香したオリジナルの『
この森の香りを嗅ぐ度に、私はこれからもずっと彼女のことを思い出すだろう。
「さよなら、エリス……姉様」
ぬくもりが消えた彼女の手を握りしめて、涙が溢れそうになるのをこらえながら、私はふと違う『香り』を意識した。かすかだがとろりと甘やかな花の匂いがする。
おかしい。エリス姉様は花系の香りが苦手といって遠ざけていた。
その香りが、今は黄泉路へと旅立った彼女の冷たくなった手から漂っている。
私は匂いに敏感だ。自慢じゃないけど、人よりがぜん鼻がきくの。特に母が作る好物のキノコシチューなら、家から王城まで歩くと二十分かかる距離だけど気づく事ができる。嘘じゃないわよ。
今感じたエリス姉様から漂う花の香りだって、非常にかすかなものだ。きっと嗅ぎ分けられる人間は私ぐらいなものだろう。
でもエリス姉様が、何故嫌いな花の香りを身にまとっているのかしら?
違和感を覚えた時、寝所の扉が音もなく開いた。
「そこにいるのは……誰だ?」
戸口に覗いたのはふわりとした淡い金髪に、憂いを帯びた青灰色の瞳を持つ若い男性だった。エリスの夫であるカランサス王子だ。
うわ。
話しかけられたの……初めて。
王子はベッド際の椅子に座り、エリス姉様の手を握りしめた私を鋭い眼差しで見つめた。私は立ち上がってカランサス王子に頭を下げた。
「エリス様の……異母妹ルシリカです。今日はお見舞いに来たのですが……エリス姉様の呼吸が弱くなって……」
私は言葉に詰まった。
そうだ。早く誰か人を呼ばないといけなかった。
「なんだと? エリスっ!?」
カランサス王子がエリス姉様の寝台へ駆け寄る。そして何度か呼びかけた。
「エリス! エリス!!」
「どうされましたの? エリス様?」
王子の呼びかける声が大きくなって、それに気付いたのだろう。紅茶色の髪を結い上げた白いドレス姿の女性が部屋に入ってきた。
侍女のカルミア様だ。
侍女といっても貴族の身の回りの世話をするメイドの方ではない。王太子妃の相談役という立場で、エリス姉様が輿入れの際、侍女にと国王陛下にお願いした幼馴染でもある。スフォルツオ家の伯爵令嬢であるカルミア様は、王太子妃の公務や衣装の選定、お茶会のスケジュールなどを管理していた。
「ルシリカ、これはどういうこと?」
「どういうこととは……?」
私は侍女のカルミア様とは面識があったし、今日はエリス姉様の見舞いに訪れることを伝えていた。
「カルミア、エリスが息をしていない。侍医を呼べ」
慌てた様子でカランサス王子がカルミア様へ言った。
「か、かしこまりました」
だがカルミアは徐ろに長手袋をつけた手で口を押さえ、こほこほと咳き込みだした。
「どうしたカルミア」
「す、すみません。ちょっと香りのせいで急に咳が……」
「ええっ!?」
カランサス王子はエリス姉様の枕元で白い煙を上げている香炉を凝視する。
「先程から匂っているとは思っていたが、この香のせいか? まさか……」
カランサス王子は火の着いた香炉を先に窓の外へと投げ捨てた。
「近衛騎士! 王太子妃寝所に賊が侵入した。早く来い!」
「えっ?」
私はカランサス王子に腕を掴まれていた。
今、何とおっしゃいましたか? 王子様。
「カランサス様、何事ですか!?」
黒の軍服と白マントをまとった近衛騎士たちが、あっという間に私を取り囲む。
カランサス王子は私を射すくめるように見つめながら声高に叫んだ。
「この者を直ちに拘束しろ。毒の煙をエリスに吸わせて毒殺の疑いがある」
「ちょっと待って下さい! 私は『香り』で人々の心を癒す香薬士なの。私は職務を全うしただけなのに。毒殺ってどういうことですか!?」
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