水子の泥

序章1

《被告:石動(いするぎ)柘榴(ざくろ)―――最高裁判所内にて》

「主文後回し」

 裁判長の一声が静謐な法廷に響く。

「被告は初畝るなちゃん、野上楓ちゃん、佐々木紀野ちゃん、孤黒戸張ちゃん、佐藤大成くん、東野暮くん、胡桃沢九縷々ちゃん、そして須藤朱莉ちゃん。以上八名の小学生児童を極めて悪辣且つ残虐な方法で殺害。裁判中に於いても反省の色は見えず、開き直りを繰り広げる始末。よって、情状酌量の余地は一切無く死刑に処す。以上、これをもって閉廷とする」「最後の奴は知らないわよ!」女が異常な声でなにかを喚いている。とてもではないが聞くに堪えない罵詈雑言の類だ。幽鬼の如き顔で唾を飛ばし、顎を前に押し出すような喚き声だ。もはや言語として成立していない。静謐なはずの法廷にただただ耳障りな金切り声が鳴り響いている。爪で硝子を削る雑音の方がよほどましというもの。裁判長どのの、静粛にとのお言葉は蚊の落ちる音に等しい。これ以上、あの無様で惨めな醜い殺人鬼を見るのも聞くのもうんざりだった。私は早急に法廷を後にする。あんなモノを常に相手にしなければならないというのだから検察官という仕事は本当に碌なものではない。「お疲れ様です。猿渡検事、予定通りの見事な手腕でした」法廷を後にするなり声をかけてきたのは後輩の田中正数である。二十代の若手副検事だ。私よりも二十は年下である。「本案件の判決は最初からほぼ確定的だった。私はそれに乗っかっただけだ。わざわざ上に、この案件を私に任せてくれといったのは、そういう了見だ」「ですが猿渡さん、猿渡さんほどの実績の持ち主であれば、わざわざこのような案件を担当しなくても……」「このような案件だからだ。万が一があってはいけない、というのもある。だが、どうあれ、もう終わったことだ」判決は下った。石動柘榴は収容施設に回され、死刑を待つだけだ。私の仕事はここで終わった。


 アナログテレビが世間を騒がせる世紀の大ニュースを報道していた。1980年代の夜のことである。

『昨夜未明。何者かの乗ったトラックが××拘置所を襲撃。銃器の発砲に及び、その際死刑の執行を控えた死刑囚、三名が脱走するという、えー、前代未聞の事件が発生しました。脱走したのは石動柘榴、二十七歳女性。佐々木栄子五十六歳女性。倉石加奈子三十六歳女性。以上三名の死刑囚であります。繰り返します…』


本章1

 除夜の鐘が鳴った。長い年末が終わった。私は年明けを検察庁で過ごすこととなっていた。田中正数検事が大きな事件の検挙を行い、その後始末を私がやっているからである。私もまもなく定年を向かえる身であるのだが、彼と違い独り身だ。妻帯者は独身に面倒ごとを押し付けてもいいと思っている節が彼にはあった。

 年が明けた元日。私は彼の後始末を終えると、速やかに自身の雑事を片付け、一つの書類に手を伸ばした。

『B県H市少女暴行殺害事件』

定年直前の私の最後の仕事になる事案だ。

B県H市の河川敷で昨年十二月二十二日、尾石みゆきちゃん(10歳)の死体が発見された。死因は暴行によるショック死と見られている。私は自ら、この仕事を定年前最後の仕事にしてもらうよう上に掛け合い、この案件を取得した。ひとえに40年以上、ほぼ無休で勤めを果たしてきた信用が故である。改めて警察の捜査資料を見る。尾石みゆきは児童養護施設に在住しており、今だ、それより以前の素性は明らかになっていない。尾石みゆきが施設に現れたのは年齢が6つのとき、全うな教育を受けていた形跡は無く、たどたどしい口調で独りで訊ねてきたと記述してある。また、当時から今日に至るまで施設の人間に心を開く様子も誰かと積極的に係わり合いになる様子もなく、いつも独りでいたとのことだ。検死資料にある写真はかつてあった雪のような美しい、幼女にあるまじき陰の妖は無い。既に顔面は半分も残っていない。硬い棒状の何か(金属製のバットのようなものと推察されている)で殴打され続けた結果、顔面ごと削げ落ちていた。また身体には殴打の跡が執拗且つ狂気的に残っていた。「……」それ以上のものはない。全国区で見ても無能で有名なB県警のことだ、現時点での捜査状況はこんなものだろう。コーヒーを淹れてそのまま飲み干した。公僕に休みは無い。今日からでも捜査を開始できるだろう。初日の出は未だ昇ってはいない。窓の外には泥の底のような闇だけあり、私の姿が鎔けていた。


検察官には刑事同様に(厳密には些か異なるが)捜査権が与えられている。現場に立ちいることも可能だ。

H市の真ん中を流れる河川がある。中腹より下流にあり、流れが大きくうねる河川敷。ごみと一緒に死体は流れ着いていた。「いやぁ、猿渡センセじゃあないですか? 本日は何用でぇ」「捜査です。しかし、ここは相変わらずゴミ山ですね」私は現場で見張りをしていた顔見知りの刑事に答えた。「ええまあ、不法投棄が多い町ですからぁ」「……で、現場は、こちらですか」「はい、ここですよ。つっても、もう、このあいだの増水で形跡なんザ残っちゃいませんがね」「でしょうね。想定どおりです」「? わかってたんなら、何でわざわざこちらまで?」「確認ですよ」私は短く答えてから軽く現場を見て「そういえば、被害者の身元の特定はどのように?」聞いた。「はい、被害者の服には名前が書いてあったんですよ。それが一番の決め手ですかね、後は髪型とか体型とか、そこらへんから、まず間違いないだろうって」「……そうですか、犯人の目星はついているのですか?」「いえ、それが全然。何せ損傷が激しくてですねぇ。まあ少なくとも犯人は大人だって大人だろうってコトくらいかなぁ。あ、でも大丈夫ですよ。どうにも犯行に杜撰さが滲んだヤマなんで案外簡単に解決しそうですよね」「そうでしょうね。早期解決が一番です」私は端的に答えて、現場を後にした。やることはすぐに済んだ。次は、

 現場から程近い場所に尾石みゆきの通っていた小学校がある。彼女に関する場所は彼女の通っていた小学校と住んでいた児童養護施設だけである。彼女のクラス全員に話を聞いたが彼女をまともに記憶している人間はいなかった。大方予想通りである。あの娘が同年代の子供と馴れ合うことはしないだろうことは十分わかっていたことだ。これもまた確認作業に過ぎない。これから、児童養護施設に向かおうとしたところで「おや」見知った顔の中年男がいた。「お久しぶりですね猿渡さん、25年ぶりくらいですか」「25年……」「ええ、私ですよ、須藤です」「……ああ、お久しぶりですね」「はい」須藤は30年前に起きた連続児童殺害事件の最後の被害者、須藤朱莉の兄だ。当時、中学生だった。彼に聴取を行ったのをぼんやりと思い出す。随分と彼も老けていた。「今日は、どういった用件でこの学校に?」「事件の捜査です」「あぁ、尾石みゆきちゃんの」「はい」「惨い話ですよね。まだ年齢が二桁になったばっかりだっていうのに」「そうですね」「一体、どうしたらそんな人間になるんでしょうかね。鬼畜というんでしたか? 人間の所業ではないですよ」怒りを顕にするでもなく諦観を湛えた表情で須藤は言った。「あかりちゃんについて、知りたいことがあるんでしょう、猿渡さん。でも彼女はクラスでも孤立していたから情報がない」「ええまあ恥ずかしながら」「私から話せることを貴方にお伝えできたらと思っているんですよ。こう見えてスクールカウンセラーなもので」「それはありがたいです、ぜひお話をお聞かせ願いたい」「ここじゃ何ですから、場所を変えましょう」「わかりました。ではどちらに?」「どこか、これから行かれる予定の場所は? 私はこのまま病院にもどるので、ついでにお送りします。そのあいだに話しましょう」

 須藤の勤める心療内科は市内にあった。小学校からさほど距離も離れてはいない。私が次に向かう場所は尾石みゆきが住んでいた児童養護施設だ。必然、彼にとっては大きな回り道になるのだが、全く気にする様子は無かった。彼の車の助手席に同乗しそこに向かった。後部座席には一人の高校か大学生くらいの若者が既に座っていた。「ああ、彼は佐藤信介君です、私のかばん持ちみたいな助手です」長身で無表情の佐藤信介はおもむろに私に対して会釈だけした。「許せないんですよ。あんないたいけな児童を殺したような殺人犯が今ものうのうと生きている事実が」病院への道中語、須藤はしきりにいつかの事件のことを語った。語る内容に対して彼の口調は非常に淡白だった。「石動の脱走って確か一緒にいた暴力団幹部の佐々木栄子にくっついてでしたよね」「ええ、そのように記憶してます」「運命って馬鹿みたいですよね。どうせ老い先も短い婆さんや、死んで償うべき屑だけがあっさりと罰から逃れられる。実際、佐々木栄子は逃亡して一年もしないうちにくたばった」「逃亡者はもう一人いましたが」「知ってますよ。倉石加奈子でしたっけ、あの人は確か……」「放火殺人です。一家を焼きました」「そうそう、頭の悪い女だって話ですね。まあもう、そいつはどうでも良いんですよ。私が許せないのは子供を殺すような外道だけです。今頃、朱莉を殺した奴は何処でどう生きているんですかね?」「さあ? 石動柘榴の居場所は今だ明らかにされてませんから、それは倉石加奈子も同様です」「そうですね、そのふたりの行方はだれも知らない、何より、一番知りたいのは貴方でしたね、猿渡さん」「……」なぜ須藤がそんな話を続けるのか、どうにも理解に苦しんだ。なにか意図があるのか、それとも。「別になにか意図があるわけではありませんよ。ただ、思い出話に花を咲かせたかっただけ。……そう怪訝そうな顔しないでください。私はこれでも心理学は一通り習得しているんです。人の心を読む程度のことは出来ます。私はただ話がしたかっただけですよ」須藤は淡々と言う。「ああ、そういえばみゆきちゃんの話でしたね、私としたことが、すっかり忘れていました」自分の中でざわつくものを私は感じていた。「須藤さん、あなた、何を知っているんですか?」ずっと表情の変わらなかった須藤の顔が微かに歪んだような気がした。「大したことは、知りませんよ。スクールカウンセラーだったのでね、孤立しがちな子には何かと目をかけるものなんです。みゆきちゃんは、そうですね。とても大きな刺々しい壁を他者に対して築いているように見えました。自身の出生ゆえのものなのか、生来の性質ゆえか、そこらへんは本人のみぞ知る所ではありましたが、まあでも、そういう子自体は珍しくないんですよ。私もこの仕事は長いですから、適切な要領で彼女の心を開けると、そう思っていたんです」「……開いたんですか、彼女は?」須藤はかぶりを振った。「いいえ、それが全然。どうにも不思議に思いました。本当に孤独な人間というものは、いかに周囲と壁を作ろうと、どこかで誰かを求めてしまうものなんですがね。私がそれになろうとしても、どうにも出来ない。それどころかより壁は強固になる。その強固さはいっそ頑なでさえありました。そこで私は思い至ったのです、彼女には私のほかにどこか依存先が既にあるのではないかと」「……それで?」「それだけです。結局、それが誰かは私にはわからずじまいでした……っと、あそこですかね?」目前には既に児童養護施設があった。「ええ、あそこです」「そうですか、ではこれで。一雨きそうなので、お気をつけて」礼を言って私は須藤の車から出て「そういえば、みゆきちゃんの事件、あの時と手口が似ていますね」背中に須藤の声を聴いた。施設の門のところまできた。「猿渡さん」後ろからかけられる声があった。佐藤信介だった。「なにか?」「あ、いえ、……その、お聞きしたいことがあるんです……その、僕の単純な興味なんでが……」「なんでしょう」「……石動柘榴って、どんな奴……なんでしょうか?」なんとも不可思議な質問でもなったが、しかし、その質問をするのに私以上の相手はいないだろう。アレは天涯孤独の女であった。おそらく、奴が留置所に入る以前で最も会話した人間は立件した私だろう。おそらく、アレを最もよく知っているのは私だ。私は自分の知りえる限りの情報を彼に伝えた。彼の無表情の顔はだんだんと死体の色に近づいているように見えた。「どうかしたか?」私は彼に問うた。「いえ、いえ、……何でもありません、おし。えてくれて、ありがとうございます」たどたどしく彼は私に礼を言った。私は「何故、石動柘榴のことを知りたがるのか」と彼に聞いた。あいまいな返事が返ってくるばかりで要領を得なかった。

 児童養護施設での調査で得たものは小学校で得たものと大差が無かった。尾石みゆきはいつだって孤立しており、周囲に心を開くことが無かった。『そこで私は思い至ったのです、彼女には私のほかにどこか依存先が既にあるのではないかと』須藤の言葉が頭によぎった。そうだ、尾石みゆきが心を許したのはその人物だけだろう。施設を出ると強い雨が降っていた。

「猿渡先生。お帰りなさい。思ったより早いお帰りでしたね」検察庁に戻ると田中正数検事がいた。まだ、三が日が終わったばかりだというのに彼がここにいる事実に驚いた。「俺にだって仕事はあるんですよっと……どうです、調子は――良くなさそうですね」「ええ、ですが、あてができました」「あて?」「25年前の児童連続殺害事件だ」私は資料室から当時の資料を引っ張り出した。「え、この案件って、そんなに複雑なものだったんですか? てっきり、ただのペド野郎の突発的なもんかと」「……違うと、私は思いますがね」「はぁ、ベテランの勘って奴ですか? すごいっすね。俺も欲しいですよ」田中正数が軽口を叩くうちに資料を開いた。「うわ、酷いっすねえ、どれも。猟奇的だ」横から資料を覗き込んだ田中正数がぼやいた。惨殺されている児童のことが克明に刻まれていた。生きたまま釘を死ぬまで打ち付けられ続けたり、重石をつけて池に沈められたり、指先から徐々に寸断されていたり。とにかく猟奇的で執拗な殺害方法だった。「あれ?」「どうかしましたか?」私は問うた。「いや、この殺し方、このヤマににてるなぁって」田中が指差したのは須藤朱莉の事件だった。金属バットで滅多打ちにされて、捨てられたものだった。「確かに、似てますね」「はい、てか、これだけちょっと他の殺害と毛色が違う気がしますね」言動の軽い彼がいままでやってきたのは、この鋭さが一因である。「……どう違うんです?」「いえね、これまでのやり方に比べて、妙に雑な殺しだなって」「ざつ?」「はい、これ以前の事件は、なんつーか執拗ですよね。執念すら感じる。何が何でも苦しめて殺すっていう。でも、これだけ、なんか突発的です、勢いあまって殺しちゃったのをごまかすみたいな……猟奇性を感じないんですよ」「……」「あ、いえね、なにも猿渡さんの仕事を否定する気はないですよマジで! 実際、状況証拠も物的証拠も完璧に揃ってましたからね! 実際、ほぼ石動柘榴が一連の事件の犯人は確定だけど逮捕にはあと一歩足りないって時の決め手でしたし、それを見逃さなかったからこその猿渡検事の敏腕伝説なわけで」まくし立てるように田中は喋る。「ですが、そうですね。貴方の言うとおり。この事件と今回の事件の関連性は当たってみる価値がありそうです」私は手短に答えて、再び退出する。25年前の事件を調べるという名目でだ。扉に手をかけたところで「そういえば猿渡さん」声をかけられた。「どうして、この事件に自ら手を挙げたりなんかしたんですか?」田中正数の質問に私は「昔から、こういう事件には首を突っ込んでおくのが私の信条でしてね」「児童に対する犯罪ですか?」「ええ」「それは何故?」「何故と聞かれましても」私はわざとらしく肩をすくめた。「……そうでうね、各々の信条や正義はそれぞれですもんね」田中正数はそう返した。


 1と1/2

 心臓が切り刻まれるような感覚がした。知れば知るほど、それが真実のようであり、自分の中の常識と現実の常識が摩擦を起こしている。どうするべきなのか、答えは母さんが知っている。ママのいうとおりにすればいい。


 2

 佐々木栄子が所属していた指定暴力団琺瑯会の応接まで私は現在の若頭と相対していた。「率直にお答えして現在の我々には佐々木栄子の情報はほとんど残っていません」「検挙されたときに処分なされたのですか?」「それはお答えできませんがね。ただ、既に彼女は故人であり、我々としても思い出したくない過去であるという点ですかね、ところで、どうして貴方は今更になってこんな昔のことを?」私は彼に顛末を語った。「なるほど、やはりそうでしたか」「やはり?」「いえ、こちらの話です。では、もう、ここに来ない約束をしてください。代わりに取って置きのお情報を差し上げましょう?」「わかりました、約束しましょう」若頭は穏かに微笑んで。「倉石加奈子は既に死んでいます。そして石動柘榴は名前と顔を変えて、生きていますよ」


 2と1/2

 確定した確定した確定した。やるべきことが確定した。後は行うだけ後は行うだけ後は行うだけ。先生もママもそうするべきだという。でも先生の言うことが少し変だ何が変なのだろうよくわからないけれどまあいいか今までも何度もやってきたことだしだれもそれが悪いことだなんて悪いことだなんて悪いことだなんて悪いことだなんてあれじゃあ先生が言っていたことはあれたしかなんだっけわからなくなるわからなくなるわからなくなる男が出てきたじゃあやらなくちゃママのゆうとおりに。


 3

 目の前にフローリングがあった。頭が痛む、クロロホルムを嗅いだようだ。記憶を手繰ると最後に映るのはあの若頭の「大丈夫ですよ検事さん。すぐに貴方は彼女に会える」という言葉だけだ。

「こんにちは。お目覚めですか、猿渡さん」

 女の声がした。名前を変えても、顔を変えても、なるほど声だけは変えられない。いくらおぞましいほどに穏かな声音だとしてもこれは25年前に厭になるほど聞いた金切り声の持ち主の声だ。「石動……柘榴……ッ!」

「覚えていていただき、光栄ですわ。もう随分、昔のことだから私のこと、忘れてしまわれたのかとばかり思っておりましたが、安心いたしました」

 馬鹿をいえ、当時のあの無様な貴様を忘れるわけが無い。私は顔を無理やり上げる。そこには月日なぞ感じさせない、当時の石動柘榴よりも若々しい美しい貌をした女がそこにはいた。「貴様、一体何をした……私をどうするつもりだ石動!」

「人聞きの悪いことをおっしゃいますね。それと、いま現在、私は佐藤絵里という名前なのです。覚えていていただけると、幸いです」

「……」私は憎悪を込めて女を睨んだ。

「そう睨まないでください。息子に指示を出して貴方に手荒い歓迎をしたことはお詫びします。ですが、貴方にも相応の落ち度はあるんですよ。だって、貴方、私を事件の犯人に仕立て上げようとしていませんでしたか? それも25年前、ええと、須藤朱莉? さんの事件と同様に」

 女は微笑んだ。妖艶な、身が震えるような微笑だった。紅い、くちびるがうごく。


「犯人は貴方なのに」


「貴様、……」

「はい、気付いていましたよ。当時は薄々でしたし余裕も無かったのでわからなかったのですが、何かと考える時間は十分にあったので。

最後の事件。犯人は貴方ですよね。須藤朱莉は実は事件以前から貴方の知り合いだったのでしょう。お兄さんとも。事件をきっかけに疎遠になった……いえ、疎遠にしたのでしょうね。

どうあれ貴方は須藤朱莉を殺害し、当時連続殺人を行っていた私に、ここぞとばかりに罪をなすりつけた。

まあ、7人ぐらい殺していましたから1人ぐらい増えた所でだれも不思議に思わなかったのでしょう。

そして、私は貴方に検挙された。いわれの無いおまけ付きで。

私が栄子さんの手引きで脱走を図ったときから、生きた心地がしなかったのではありませんか? いつ、真実が明るみにでるか。私が暴露するか。そんなことはおきませんでしたが。

どうしてわかったのか? ふふ、不思議なことを聞きますね。

簡単ですよ、同類だと思ったからです。私と貴方は。

貴方に対して憎悪の感情はありません。私が当時、貴方だったとしても同じことをしていたでしょうから。私、昔から身内には甘いんです。栄子さんにも注意されてました。

ですが、流石に二回目はありません。残念ですが。

自分のお子さんを殺してことまで私のせいにしないでくださいな。

ええ、知っていますよ。私にも伝手があるんです。

琺瑯会。

私は栄子さんからあの組織を自由に使用して良いと、許可をいただきました。何でも、私にはそういうカリスマがあると。

ふふ、すこし照れてしまいますね。

すみません、私としたことが、脱線してしまいました。貴方のお子さんについてですね。

ええ、貴方は現在独身ですが、それは結婚したことがないという意味ではないでしょう。

いえ、御婚姻を結ばれていたかは存じ上げないのですが、尾石みゆきの母親はかつて貴方が関係を持ていらっしゃった方なのではありませんか。

きっと、様々な事情があったんでしょう。心中お察しします。

ええ、ええ。貴方もそう、お思いでしたか。自分の子供をどう扱おうと自分の勝手だと。わかります。私もそうですから。ですから子供には最大限の愛情を注いでいるのですわ。

貴方も、きっと、そうだったのでしょう。みゆきちゃんの唯一の拠り所と、貴方はなりました。とても可愛らしい娘さんだったと聞いています。

貴方はそのことをしって、孤立していた自分の娘に取り入った。実の父親ですもの、きっと、心を開かせるのは簡単だったのでしょう。

きっと、よいお父さんだったのでしょうね、貴方は。

ですが、何らかのトラブルが起きて、貴方は彼女を殺めてしまった。

ですから、このことを誰かに擦り付けるために、貴方は捜査という名目で証拠を隠滅し、対象を探した、そこで、私に目をつけた。

と、そういうことでよろしいですか?

ふふ、答えなくても大丈夫ですわ。貴方の顔を見れば正解はわかりますもの。

ですが、申し訳ありません。

私は、いま、ようやく得たこの環境をとても気に入っているのです。それを壊そうとなされるのは、その、とても。

困ります。

そういう事情が、こちらにはあるのです。どうかご容赦ください」

話が終わるなり、衝撃が頭部に走った。刃物で首筋を刺されたのだとわかる。意識が急速に薄れて、視界が狭まっていく。その刹那で。

「よく出来ました。信介くん」

 聖母のように穏かで慈愛に満ちた、おぞましい声を聴いた。


 3と1/2

「よく出来ました。信介くん」

 ママが褒めてくれたママが褒めてくれたママが褒めてくれた。僕を褒めてくれた。でもだけどなにかいつもと違う何が違うだれが違う?ママが違う?違う僕が違う?どうして違う?わからない何かがいつもと違う先生の言葉が物凄い勢いで頭に反響して――。

「信介くん?」

 ママ、まま、ママ、まま。聖母のようなまま、聖女のようなママ。だけどママはママじゃないらしいほんとはもっと醜いらしい僕の知らないまままあママママママッ麻ッママママ麻ッママッ麻ママッ麻ッ麻m。

「―――」

 あああ、あああああ、ママママッ麻ママッ麻まあ。

泥がでてるよ泥が、首を切ったら沢山濁った泥が小さい子供が嗤ってる、泥の中で笑っている。水子で出来た泥だったんだ。僕にも流れているのかな水子の泥が。

ママとおんなじモノが流れてたらって首切った。


終章

 佐藤と表札の書いてある家の中で3人の死体を須藤は見下ろしていた。復讐を決意してからどれだけ絶っただろうか。三人の脱走から、即座に琺瑯会とのパイプを繋ぎ、倉石加奈子と接触を図った。石動柘榴と佐々木栄子と倉石加奈子は良くつるむ三人だった。そして、倉石加奈子は馬鹿だった。若い男が軽く迫ればすぐに自分の持っていた情報をそうとも知らずに全てさらけ出した。佐々木栄子の死後、琺瑯会に用済みの倉石加奈子の処分を任せた。彼らにとっても佐々木栄子は汚点であり、その形跡を消し去りたかったらしい。妹を殺した犯人は猿渡という可能性を知った。事件の情報を収集し、それはほぼ確信となった。だが、もう一つ、確かなものが欲しかった。そして、それはそれとして石動柘榴が生きていることも許せない感情があった。石動柘榴は現在、佐藤絵里と名前と貌を変え、琺瑯会からのカリスマ的支持を得ていた。とても自分が容易に近づける存在ではなくなっていた。そんな折、彼女に溺愛する愚かな息子がいることを知った。そして計画を立てた。心理学を学び、マインドコントロールの技術を手にした。息子の佐藤信介に近づき、自分への「信仰」を植え付け、それとなく自分の母親が本当は自分の知らない別の誰かだったのだという事実に気付かせた。人間は自身の常識と周囲の常識に差異があるとき強いストレスを感じる。佐藤信介の精神に徐々に負担をかけて暗示が効きやすくなるようにした。猿渡は児童殺害の常習犯であったが、その手口は巧妙でなかなか露見しなかった。露見しない事件は事件ではない。日本の捜査機構の鉄則である。それでも、いつか尻尾を出す。そう信じて、待って、ようやくその機会がめぐってきた。既に佐藤信介はいつでもどうとでも動かせる状態になっていた。猿渡が石動柘榴に罪を擦り付けるように誘導した。その後の事は見てのとおりである。須藤は復讐を果たした。「案外、大したことでもないな」須藤は泥のように濁る血だまりを見下ろした。

 子供たちの嗤い貌が写っていた。・

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