葉桜冷の古い短編集

葉桜冷

暗夜の

 列車が夜暗のなかをごおごおと音を立てて走っている。

 私は車窓に目を向けた。真っ黒の画用紙に白い絵の具をたらしたような光景ばかりが続いている。

 車内にはほとんど人が乗ってない。オレンジ色の照明が揺らぐように虚空を照らすばかりである。

 私は車窓に頭をつけて、船をこいでいる。

「ここ、いいですか」

 いつのまにか列車が止まっていた。

 この駅で乗ったのか一人の齢若い女性が私の向かいの席に座ろうとしてきた。

「かまいませんよ」

 私は言った。彼女は椅子に座り、所在なさげに真っ暗のまま変わらない車窓を見つめた。

 扉が閉まる音がして、また列車が動き出したのであろう。ガタリと振動があって、彼女の首筋には蒼い宝石のネックレスが揺れた。

 ごおごおと動く列車に揺られて、沈黙の中にいる。

「失礼ですが。笹中さんですよね?」

 彼女が私に言った。

「私、朱鷺亜矢の娘です」

 彼女は私の目を見ようとする。私は黒い車窓に反射する老婆を見ている。

「母が先日、亡くなりました。母は死の間際に、ずっと笹中さんの名前を呼んでいたんです。ずっと、あなたに謝りたいといっていました。ですが、母はその詳細を話してはくれませんでした。ですから、どうか教えてください。母は、あなたに何を謝ろうとしていたんですか?」

 それを知ってどうするつもりだというんですか?

「どうにも、できないかもしれません……っでも、知らなくちゃいけないことだと思っています。場合によっては私から謝罪させていただきます。母は、それほどに慙愧の念を抱いていました。それだけのことをしたのだと」

 それで、奥様と私のあいだにあったことを知りたいと?

「はい」

 知らないほうが良いこともありますよ。

「それでもです。それに、」

 それに。

「私は、母のことを知らなすぎるから」

 奥様とは仲が悪かったのですか。

「いえ、そうではないです。母との関係は良好でした。きちんと大事にしてもらえたし、私は幸せであると自分でも思っております。ただ、母は私が生まれる前の話をしたがらなかったから……」

 ……。

「でも、だからこそ。母は亡くなってしまいましたが、母の反省が罪にまみれていたとしても、それをずっと誰も知らないままなのは、なんだか可哀相で」

 お母様が好きなんですね。

「ええ、まあ」

 なら、なおさら貴女は知るべきではないでしょう。

「覚悟は出来ています」

 貴女にとって辛いことです。

「承知の上です」

 お聞き苦しいことでございます。それでも。

「知りたいんです! 知らなくちゃいけないんです! お母さんのためにも!」

 列車が動いている。外灯はもうどこにもない。

 町はなく、村もなく、明かりは無く、道も亡い。

 彼女の決意は固く、おそらく列車が終点に着いても私の傍から離れないだろう。

 暗夜の中でちかちかちかちか橙の灯火がユラめいている。





……いいでしょう。お話しますよ。ええ、おそらくは、あの日のことでしょうから。私自身、片時も忘れたことのない――。

あれはいつの日のことでございましたでしょうか、ええ、遠い、あなたが生まれるずっと前のことでございました。

ご心配には及びません、嘘偽りや過多過少なことは申しません。私はトウにおつむまで古びた老婆でございます。斯様なこと出来はしませんよ。

大丈夫でございます。もとより嘘等吐けない身ゆえにこうして逃げ続けてきたのでございます。

ああそれと、大丈夫とは申しましたがそれは真実を話すということについてはです。その結末、そのあとに何を思うかは保障いたしかねますので。

さて、お話を戻しましょうか。ええ、憶えていますよ。薄寂れた昔話でございます。

人気のない薄暗い森の中にお屋敷はありました。大きな古びた洋館でございます。

私はしがない使用人でございました。ただ働くだけが取柄の若いだけの使用人です。他に使用人の類はおりませんでした。なにせ、さきの戦争のせいでどこにも人手が足らなかったのです。全ては戦争のために。そういう時代でした。それもあり旦那様の経営もよろしくなかったようでした。そこは女だてらの私にはあまりわからぬことではございます。私だけが屋敷に残されたのも単に一番給料が安く済む、どこに遣ることも出来ない役立たずだったからという、それだけのことでございましょう。

旦那様、そう、私のほかに屋敷は旦那様と奥様がいらっしゃいました。お二人は御歳こそ召しておられましたが、それは円満な夫婦でございました。

旦那様、奥様、そして若き日の私。そのお屋敷に住むものはその三人だけでございました。

本当になにもない、ゆっくりと時間が流れるような。そんな静かな日々でございました。それも戦争が終わるまででございましたが。

ええ、ご存知の通り大戦が終局しました。とはいっても、森の奥のお屋敷に戦火は降ってきません。私と奥様にとってはラジオの向こうの遠い出来事でした。

今までどおりの日々が続くと思っていたのでございます。

ですが、旦那様は違いました。戦争が終わって物の需要が増える。経営を立て直し、かつてのような賑わいを屋敷に取り戻すのだと一人いきまいておりました。

私は屋敷で奉公させていただいてから未だ十余年立たずの若輩でしたから。かつての賑わいなどわかりません。ですがそれに、旦那様は執心しておいででした。

旦那様は様々な法人、企業、果ては個人にまで蓄えていた多額の資財を投資していました。かなりの自信があった様子でした。


そんな折でございます。お嬢様がお帰りになられたのは。

お嬢様は戦時中にとある財閥貴族の下に嫁いでいたのです。まだ幼かった頃の話だったと、聞き及んでおります。

ええ、ご存知の通り。財閥は解体されたのです。いえ、されずとも、つぶれる家はつぶれていたでしょうが。

お嬢様が嫁がれていらしたのは、そういう家だったのです。

その家は、お嬢様一人を残して消失してしまい、お嬢様は家に帰ってくるしだいとなったのでございます。

お嬢様は、それはそれはお綺麗な方で。まるでこの世のものとは思えぬほどに、耽美で玲瓏、翳も艶も備えていらした……そうですね、私が初めてお嬢様にお目見えいたしました折に、私はつい彼岸の花を連想してしまったのでございます。

ええ、それほどにお美しいお方でした。

旦那様も奥様もそれはそれは驚かれていらして。

無理もありませんでしょう。幼子が帰ってきたと思ったら、それはそれは艶やかな美人に変っていたのですから。

ええ、ええ、本当に。嫉妬だなんて考えないほどでした。

こうして4人でお屋敷に住むことになったのでございます。

思えば、それが転機であったと、お考えになるのも無理からぬことでしょう。

動乱の時代だったのでしょう。時代と世相に深く関わる旦那様にとっても。

気付けなかったのでございます。嗚呼、愚かしくも私たちは気付けなかったのでございます。何せ、お屋敷は現世との関わりを持たない陸の孤島――いえ、もはや隠世といって差し支えないほどに人の出入りの無い場所だったのでございます。

常世とは旦那様が関わるのみで、私たちの知らぬもの。

愚かしくも私たちは気付けなかったのです。旦那様のお心が乱れていらしたことに。


動乱の時代。それはあらゆる物事にいえることでした。

そのために出世するもの成功するものもいたことでしょう。ですがそれはつまり、そうでないものもいたということに他ならないのでございます。

ええ、お察しのとおりでございます。旦那様の投資した事業は悉くが水泡に帰し、無為へと還ったのでございます。当然、お金も一緒に。

どうして気付けなかったのでしょう。どうして気付けなかったのでしょう。

今思えば私のお給金が支払われなくなった頃に気付くべきだったのです。申し訳なさそうに頭をたれる旦那様をみて察するべきだったのでございます。

ですが愚かしく浅はかな私は、旦那様の心に巣食う闇に気付けなかったのでございます。

あの頃旦那様は酷く憔悴していらしました。

なにをしてもうまくいかず、酷く苛立ってもおりました。

心の天秤はつりあわず、温厚だった旦那様の面影はいつの間にか無くなっていったのでございました。

碌に睡眠もとらず、食費すら捻出できないほどにお金が無くなって、食事も質素になってきました。

箱入りだった奥様はそんな旦那様の変化に酷く怯えてしまって、旦那様に寄り付かなくなってしまったのでございます。

旦那様は、きっと酷く孤独だったのでございましたのでしょう。私は、おびえから酷く憔悴していた奥様のお世話に手一杯でとても旦那様の身の回りのお世話まで出来ていなかったのです。

そんな時、お嬢様はいつでも旦那様の傍に寄り添っておいででした。

梳ったような黒髪の隙間から漏れるまなこはいつも憂いを佩びて、旦那様を見つめていたのです。

ああ、ここでもです。ここでも私は気付けなかったのでございます。

違うのです。お嬢様に落ち度は無かったのでございます。私は勝手に同年代で旦那様の身の回りのお世話を甲斐甲斐しくなさっていたお嬢様に勝手な仲間意識などを持ってしまったのでございます。だから、けしてお嬢様のせいなどではないのです。


それは、ええそれは。酷い雨の日の夜のことでございました。

夜半に奥様の悲鳴が聞こえました。

それはそれは大きく恐ろしい悲鳴で。私ははじめ、雷が近くに落ちてしまったのかと思ってしまうほどで……。あんな奥様の声を聴いたのは初めてのことでした。

私は跳ね起き、声のした方向へ一目散に向かったのでございます。

旦那様の書斎でした。奥様は何を思ったのか、夜半に旦那様のところに向かったのでございます。

いえ、いえ。わかっています。わかっているのです。何をしようとしていたのか。今では全てわかっているのです。奥様は臆病な方でしたが、同時にとても――。ええ、随分とご無沙汰だったのでございます。

性欲とは真に恐ろしいものです。人を容易く獣畜生に堕としてしまう。

ですが、えてして、それらのサガは女より男のほうが強いのです。

奥様が耐えられない日々を、旦那様が耐えられたはずも無かった。

奥様は見てしまわれたのです。

獣のようにまぐわう旦那様とお嬢様の姿を。

互いを犯しあう父と娘の姿を。

私が駆けつけたときには、すでに奥様は正気を喪失していました。

狂乱し、絶叫し、号泣し、嘔吐し、失禁し、自傷し、哄笑し。

奥様は、心の弱い方でしたから。

そこにいたのは人の尊厳が総て砕けたかのような狂人でした。

それさえ意に介さずに、貪るように互いを求め合う二人の性交がすぐ傍にはありました。

悪夢としか言いようの無い光景でした。そこには欠片たりとも人間性が残っていなかったのです。

私は、逃げ出しました。

自室で布団を被ってがたがたと震えることしか出来なかったのでございます。

まもなく、奥様は亡くなられました。最期まで正気を取り戻すことも無く。

お嬢様は、そのことで心を病み、屋敷を一時離れることになりました。

あのとき、お嬢様から受けた謝罪は今でも憶えています。


とうとう屋敷には旦那様と私の二人だけになりました。


本来であれば旦那様は良識を持ったお方です。深い反省と共に、禁欲の日々を過ごされました。

ええ、ですから。ですから、これから起こる全てのことに、旦那様の責任など微塵も無いのでございます。

ふしだらで卑しい、醜い女のせいなのでございます。

どうか、どうか、ここで聞くのをやめてください、私は、私は―――――。


私が、旦那様を犯したのでございます。


あの夜に見た。お嬢様の姿が忘れられなかったのです。

艶やかな黒髪を惜しげもなく振り乱し、嬌声を上げ、身体を自分の汗と唾液と愛液で濡らし。男のソレを求め続けるその姿に、私は。ああ、卑しくも焦がれてしまったのです。

生まれてこのかたそのようなものとは一切縁が無かったのに。私はその姿に女を見たのです。己の中にあった女を見てしまったのです。

ずっと、その御姿が頭から離れませんでした。毎夜、己を慰め続ける日々でした。それでも、耐え切れなかったのです。

獣が、ああ、獣がいたのです。

おぞましい獣畜生がいたのです。

旦那様の書斎で、私は服を脱ぎました。

椅子に座る旦那様を押し倒しました。

己の醜い女を見せ付けて、押し付けました。

か弱い老人がおりました。力ばかりの醜女がおりました。

旦那様の服を剝ぎました。旦那様はか弱い少年のようでした。

老いた身体に雫が垂れました。

それは唾液でした。それは汗でした。それは愛液でした。

凡て私のものでした。

何度も何度も嬌声を上げて、私は旦那様のものを挿れました。

夢中になって腰を振るさまは、きっと狗のようだったのでしょう。

どうかしていました。どうかしていたのです。私はいかれていたのです。


私は身ごもりました。旦那様にそのことを告げると、旦那様は鬼の形相で堕ろすように私に迫りました。

私は拒否したのです。傲慢にも赤子を産むといったのです。認知しろと迫ったのです。なんと、なんと、おぞましい姿でしょう。

旦那様は激昂し、私の首に手をかけました。

それからのことは憶えていないのです。

いつのまにか血に濡れた刃物が手にありました。

床には赤く染まる血溜りがあり、溺れるように旦那様が沈んでいました。

そこにいたってようやく私は自分のしたことの怖ろしさに思い至ったのです。

恐ろしくなった私は何も出来ずに部屋の隅でがたがたと腐敗していく旦那さまを見ていました。

そして数日の後にお嬢様がお屋敷に戻ってきたのです。

お嬢様は何かを私に囁きました。穏やかに、優しく、罪に濡れた声で。

いつの間にか私は病院で寝ていました。

旦那様がどうなったのかなど、私にはわかりませんでした。

おびえる私の手をお嬢様はよく握ってくださいました。

私は、何もいえませんでした。何もわからない、暗中の中で溺れているようでした。

やがて、私は赤子を産みました。産んでしまったのです。

私はその赤子を可愛らしいと思うことが出来ませんでした。

忌み嫌うのです。私はお腹を痛めて産んだ我が子を忌み嫌ったのです。その姿が私にはおぞましい悪魔のように思えてならないのです。

私は、その赤子をお嬢様に押し付けて病院から逃げ出したのです。

ああ、なんて恐ろしい。私は、なんて醜く愚かなのでしょうか。

悪いのは私なのです。凡て凡て、私が悪かったのです。私は逃げたのです。

何も、何もお嬢様に謝るべきことなどないのです。

これで、これで、私の話は終わりでございます。

 列車は終点に着いていた。

 目の前の女性は放心したように俯いていた。

 終点を告げるアナウンスが車内になるのみであった。

「……それでも」

 彼女は言いました。

「それでも、……誰のせいでもないんです……」

 苦しむように振り絞る声でした。

 いくつかの余白の後、彼女は首からぶら下げたネックレスに触れ。

「コレは、……母の形見なんです。母が、親友から貰ったのだと、言っていたのです」

 彼女は顔を上げて、憔悴した顔で私を見ました。

 私は目を逸らすことさえできませんでした。

「……教えてくれて、ありがとうございます……では、これで」

 ふらつくように彼女は車内を後にしました。

 数分の後の私も降車しました。


 海沿いに、崖のある場所でした。

 夜明けの太陽が、昇ってきました。罪の清算を済ますように。

 私は笑っていました。

 いえ、嗤っていたのです。

 空に鷗が飛びました。

 私も一歩、とんと飛びました。

 ああ、明るい夜明けの中に。

 ようやく、長かった夜が明けるのです。

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