おじさんはゴーストライター
ハナシダシ
第1話 揺らぐ心
夏草が揺れる。それをただ眺めていて生きていると、そう思った。
足の裏が痛むような角ばったあぜ道も、蚊柱が立っていて進むのが躊躇われるような田畑の脇道も、照り付ける日差しが強く感じるアスファルトの道も。
全てが眩しく、自然だった。
別室でお茶を楽しむ部下たちの話声は窓ガラスを伝って心をえぐる。
「寄川さんってなんか関わりづらいよね…」
「真面目過ぎて堅苦しいんだよねーあの人。いざって時に守ってくれなさそう!」
「わかる!」
「そうねぇ…悪い人じゃないんだろうけど…公私がハッキリしてるっていうか…」
「わかるわぁ!」
あぁ、ハッキリと聞こえている。
老人は君たち若者が思うほど鈍くもトロくもない。
厳粛に、真面目に、堅苦しく。それが私の仕事のやり方だった。
PCをそっと閉じ、噂話から逃げるように席を立つ。
「それでは、すみませんがお先に失礼します。お疲れ様でした」
「「「「お疲れ様でーす!」」」」
未だ慣れない。
多くの人が行き交うオフィスも、若者から値段の割に量が少ないと不満の上がる社員食堂も、そして小腹がすいた帰り道に偶に寄るこのコンビニでさえも。
慣れなど一生来ないのだとも思う。
「らっしゃーせー!お、カワおじ!ひさー!」
自動ドアが開くと同時に陽気な挨拶が私の耳に飛び込んでくる。
「はは…久しぶり、青葉さん」
「うえー!なんか堅苦しくない?たばちゃんとか、ばねちゃんとかもっとラフに呼んでいいのに」
「ははは…」
彼女は名を青葉たばね(あおば たばね)という。
苗字は首から下げているネームプレートから、名前は彼女の同僚がそう呼んでいるのを耳にしたことからそう断定していた。
キラキラとした物に身を包み、自分を飾るため日夜バイトに励む人気者の少女。
それが彼女に対する印象だった。
前に出会った時と何ら変わった様子はない。
明らかに邪魔な量のヘアピンとキラキラネイルを携えながらレジに立っている。
「取り敢えず揚げまん、ピザまん、焼き鳥二本。あと27番も貰えるかな」
「あいあーい…饅頭切らしてるから焼き上がり待ってもらってもいい?」
「あぁ」
「どうせなら一緒に渡すんでよろー」
見た目とは裏腹に彼女は仕事ができた。
変わった客への応対も、新人に対する教育も抜群に上手い。
そのうえ、誰にでも分け隔てなく明るい性格から彼女は多くの人に慕われている。
その姿があまりにも眩しくて、私は自然と彼女を避けていた。
光の中に身を置くと、ふとした闇に過敏になる。
そうなるくらいなら、何も見えぬ暗闇の方が諦めがつくので楽だった。
今から焼き上がりを待つとなると大体4,5分ほどかかるだろう。
レジ前の導線を塞いでしまうのは流石に憚られ、レジ横に併設されたイートインスペースへと向かう。
このスペースは、数多あるコンビニの中でも群を抜いて広く、その広さはおおよそ10畳ほど。数百円を追加で払えばコーヒーもドリンクも飲み放題。
近くのカフェが軒並み倒産したのはこのスペースの影響が大きいという声もあるほど居心地がよく、私も昔は足しげく通っていた。
だが、ここはこのコンビニへ通わなくなった一因でもあった。
噂が噂を呼び、様々な人がここを立ち入るようになったのだ。
店からしてみれば、大きなきっかけ作りにもなって大満足だろう。だが私は違った。
どの世界にもある新参、古参の概念がそこにはあったからだ。
古臭いだのなんだのと言われようと構わない。
あの頃の空間はとても居心地の良いものだった。
立ち仕事で腰を痛めている着付け屋の老婆、子育てに追われくたくたな様子の主婦。
仕事に疲れた中間管理職と思しき男性。毎度同じような時間に決まってそこにいる彼らに、いつしか私は親近感を感じるようになっていた。
皆それぞれ固有の世界に浸りながら、なんとなくそこで一息つく。
独特の間と空気感がそこにはあったように思う。
だがそんな場所も今や無秩序な空間へとなり果てた。
無遠慮にも超長時間に渡って居座る社会人、他人のことなど異にも介さぬ声音で話す女子高生。ゴミ箱のことなど目にも入っていない様子の諸先輩方。
疑わしくは立ち入る人を選ばぬ当コンビニの経営方針か、はたまた人前で食事をできない私の感性か。どちらにせよ、今後長居をすることはついぞないだろう。
自然とポケットに入っているノイズキャンセリングイヤホンに手をかける私。
それは世界と私とを隔絶するために私がよく取る手法だった。
しかし、視界に映る少女によってその手は止まる。
「はむっ…!はむっ…!」
空気を捉える音が聞こえてくるほどの食べっぷり。
眼前に積み上げられた大量の饅頭とそれを貪り食う少女の様子があまりに奇妙で思わず立ち尽くした。
日本人にはあるまじき銀髪を携える少女。
制服を身にまとっていることからもおおよそ年齢は中学1年生から2年生。
つまり12,3歳ほどだと思われた。
声を掛けたくなった。投げてみたい質問も山ほどある。
(どうして大量の饅頭を?)(珍しい髪色ですね、地毛ですか?)
だがこれまでに身に着けた波風立てぬ中立的な生き方に制止を余儀なくされる。
私は彼女を毛ほども気にしていないような振る舞いで彼女と反対の位置に着席する。
それは視界から外れてしまえば気になどならないという算段によるものだった。
聴覚はイヤホンで封じ、さらには鞄から一冊の本を取り出して思考のダイブを試みる。2カ月ほど前に買ったこの小説もそろそろ終わりを迎える頃合いだった。
<色に染まらぬ私とあなたは>
やれ何万部売れただの、やれ映画化が決定したなどという事実はどうでもよく、ただ長い小説が読みたかった。より長く没入していられるように、新しい書を手に取るという歩み寄りをなるだけ減らせるように、そんな理由でこの本を選んだ。
ステンレス製の栞は418ページを指し示し、書の中の青年もいよいよ夢を新たにまた歩みだそうと決意していた。それは私にとって、つまらない展開だった。
きっとその美しさを受容できない私に問題があるのだろうと思う。
感動は共感から生まれるというのなら、私自身がハッピーでなければハッピーエンドを楽しめないからだ。
それ故現世は思考に留まり続ける。
だからだろうかそれに対する反応も早かったような気がしてならない。
背中に響くぎこちない衝撃に私は振り返る。
そこには先ほどの銀髪少女が饅頭を抱え立っていた。
脇にはボロボロに見えるノートが挟まれている。
「いる?」
腕の中には食べかけのあんまん、ピザまん、中華まん。
どれも痛々しく噛みつかれた後が刻まれており、到底食べようとは思えない。
「いえ、あの…結構です…」
「ごめん…店にある饅頭は全て私が頂いた…てしまった」
申し訳なさそうな素振りの割には、さながら怪盗のような口ぶりで少女は言う。
その様が可笑しくて、少し頬が緩む。
「いえいえ、大丈夫ですよ。こちらこそ気をつかわせてしまい申し訳ない」
「そう…はむ」
食べかけのあんまんに口を伸ばした拍子に少女のノートがするりと脇から滑り落ちる。
「!!」
「あぁ、大丈夫ですよ拾います」
慌てる様子の少女を制止するようにノートを拾うため身をかがめる。
私はそのノートに刻まれた物に目を奪われた。
黒、赤、緑、青。幾重にも折り重なった大量の文字列がびっしりとページ一面に記されている。それはまさに狂気とも呼ぶべき代物だった。
ただ、なんとなく私はそれを美しいと思った。
「はっ…!!」
私の拾う手が止まったのを少女は見逃さなかったのだろう。横からノートを搔っ攫う。それと同時にボロボロと零れ落ちる饅頭は床を餡で染めていく。
「あぁ…!勿体ない…」
その私の反応を見て、少女はようやっとその事実に気が付いたようだった。
「あ…ごめん…」
ここは大人として叱るのが当然だろうと思われた。少し口調を強くして少女に説く。
「食べ物を粗末にするのは満たされた者による傲慢の表れだ。もっと周りに目を向けて気を配りなさい。いずれあなたも大人になるんですから、いい加減大人の振る舞いを身につけないと誰かが不幸になりますよ」
この程度の嫌われ役なら普段から買い慣れていることもあり、ためらいもない。
「ごめん…なさい」
思ったより自分の言葉が強く響いたことが何よりの驚きだった。
耳を澄ましてやっと聞こえる程のか細い声で少女は謝罪の言葉を口にする。
俯いてよくは見えないが目には涙を浮かべているような様子だった。
私の言葉を最後に、時間にして十数秒ほど沈黙が空間を包む。
その沈黙を裂いたのは私だった。だが彼女に対するフォローをしようとしたのが余計だった。そのせいで余計な事まで口にする。
「まぁ…あなたのプライバシーに対する配慮がなかったのは私も同じなので、それに関しては申し訳ないです。ですがあのノート…あなたにとってはどうか分かりませんが、少なくとも私にとっては素敵に見えましたよ」
その言葉を聞いた瞬間、少女は驚いたように目を見開いてこちらへ詰め寄る。
「どの辺?どの辺?どの辺!どの辺!」
「ちょ、ちょっと落ち着いて落ち着いて!」
「ごめん…」
乱高下する少女の気分に合わせるように、私は思いを口にする必要があった。
「…なんていうか乱雑じゃないように思えたんだ。まるでキャラクターの想いが重なり合っているって…言えばいいのかな?」
「おぉ…!」
少女は感想を欲しているようだった。
「そ、そうだな…余白が無いほどに書き連ねたいことがあった…のかな?色分けはキャラクターの差別化によるものなのか、判別の為なのか…いずれにしても興味深くはあったよ」
「おぉ…」
少女は未だ感想がご所望だ。だがいよいよもって言葉に詰まる。
そんな時だった、スペース内に聞きなじみのある声が鳴り響く。
「サワオジーお待たせー」
「!!」
その響く声に驚いたのか、猫に見つかった鼠のように少女は巣へと帰還する。
当然、床を汚した饅頭はそのままだった。
「ちょっ、これ何?食べ物粗末にしちゃダメでしょー!」
少女の方に視線をやる、現場に背を向ける少女の肩は小刻みに震えている。
本当に怯える鼠のようだった。
真っ当であることは、不当な損を被らないという保証になる。
私は口を開くその瞬間まで、事実をただありのまま伝えようとしていたはずだった。
そんな私を変えたのは、職場で聞いた噂話によるものか、それともどこか不安定な少女の存在によるものか。
いずれにせよ、思っていたこととは違う言葉を口にしていた。
「あぁ、先ほどあの子にたくさん饅頭をもらったんだが、運ぶ最中にうっかり落としてしまったんだ申し訳ない」
きっと青葉さんにはお見通しなのかもしれない。だが、そんなことはどうでもいい。
私にとっては建前の方が何よりも重要だった。
その言葉を聞いた青葉さんの表情は呆れていた。
「まったく…どうせ仕事の疲れが溜まってた系でしょ?ちゃんと自分を労わってあげないといつか潰れちゃうよ?」
一度や二度程度しか話したことのない私のことを意外にも彼女は気遣っていたようだ。だから自然と彼女のもとには人が集まるのだろう。
「はは、というより年かな。うまく体が動かせなくなってきているのを感じるよ」
「何それこわー…掃除はやっとくから早く帰ってちゃんと休んだほうがいいって…」
「大丈夫大丈夫、いずれ君もこうなるから気にしなくてもいいよ」
「ちょっ、それブラックー!ワザと意地悪に言ってるでしょ!」
「はは…ごめんごめん」
「もうー!」
青葉さんは腰に付けた掃除用具を素早く取り出し、慣れた手つきで床を掃除し始める。だが、もうそろそろ人で混み合う時間だった。
「すいませーん!レジお願いしまーす!」
「はいはーい、ただいまー!」
「後はこっちでやっておくよ、すまないね迷惑をかけて」
仕事帰りのサラリーマンがごった返す前に彼女をレジに戻すのが妥当だと思われた。
「ホンっとごめん!マジ助かる!絶対いつか埋め合わせするから!」
そう言って足早にレジへと駆けていく彼女を見送る。
床の方に目をやると、餡はほとんど拭き取られ後は水拭きによる清掃を残すのみとなっていた。流石青葉さん手早い。
「あ、あの…私…」
頭から小さな声。視界に捉えずとも件の少女の物であることは明白だった。
呼ばれた声に誘われるように声のする方を見上げる。
だが視界に映った光景はおおよそ期待したものとは違っていた。
「こ、これ…!」
その所作はまるで男子高校生による一世一代の告白のように、はたまた表彰状の授与のように、彼女は腕をぴんと張り、先ほど見たノートを腕いっぱいにこちらへ突き出している。
「え、えっと…」
「お、お詫び!」
「え?」
「お詫びに…なる?」
「ならない」とは言い難かった。だが「なる」とも言い難い。
「それは君にとって大事なものだったりしないのかい?貰ってもいいの?」
「大事…けど…受け取ってほしい」
彼女の要求は私がノートを受け取ることのようだった。
大事なものを意図して手放すという行為の意味はなんとなく分かるような気がした。
それは今までの様子からなんとなく察するものがある。
ストーリーはいわば作者の思考の具現化に他ならない。
作家ではない自分にも、自らが産み出したストーリーの否定が自己否定に直結しうるという恐怖は何となく理解出来る。
少なくとも彼女が勇気を振り絞り、私に意見を求めたことは疑いようもない。
だから私は折衷案を提示することにした。
「ありがとう、読ませてもらうよ」
「うん…」
「ところで、これはいつまでに返せばいいのかな?」
「え…?」
「君にとって大事な物なんだろう?君だけのものである必要はないけれど、君の下に在るべきものなんじゃないかい?」
その言葉を聞いて少女は目を丸くする。まるでその手があったかと言わんばかりに。
「あ、明日!」
「え?」
「明日、この場所この時間に!私はいる…から」
「その時に…返してほしい…」
「あ…あぁ分かった…」
少女はそそくさと帰り支度を始める。気づけば饅頭は彼女の机から姿を消していた。
通学用の茶色の手提げ鞄とは別に黒色の大きなバッグを肩に担ぐ少女。
残された饅頭の行方はきっとあそこだ。
「じゃあ…また、明日…」
そう言い残し、少女はその場を去る。
ぽつんと一人、汚れた床と対面する。
「あの子は…難しいなぁ…」
悪い子ではないのだろうが、どうにも常識が欠けている。
声を掛けられた時、彼女が進んで手伝うと言う事を期待していた。
だが、実際にはただお詫びにノートを手渡されただけ。
私が意地悪な大人であれば一体どうしていたというのだろう。
もし言いがかりをつけられていたら?口下手なあの子はどうしていたのだろう。
そんな彼女と明日も会う。それもこの場所で。
彼女が残したノートの価値を未だ私は推し量ることが出来ないでいた。
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