第2話 幼少期の家族関係。

物心ついた3歳の頃から母親はいなかった。

家には父、歳の離れた姉、祖父母がいた。

母親が他所の男とうちら娘二人を置いて出て行った事実は中学になってから知った。

歳の離れた姉もいたせいで寂しい思いもした記憶はない。


ただ物心つく前の記憶は少しだけ残っている。

母親が出て行く当日泣き叫んで幼稚園バスを拒んだ日のこと。

母親は手芸が好きで家には大きなロックミシンがあった。

そこへ牛乳を零して物凄く怒られた記憶。 その二つ。

お母さんの写真もなければ

その二つの記憶も当時は思い出すこともなく

てっきり死んだのかな?とも思っていた。


ただ当時、今は珍しくもないけれど

母子家庭は珍しく、うちは更に父子家庭。

同じ境遇の子なんて周りにはいなかった。


小学校の頃、学校ではいじめが流行っていた。

いじめというよりも女子特有のはぶりだ。

ひどいと男子も加わってボールや机があてられる女の子もいた。

いじめられて一定期間をすぎるといじめる番になれるっていう

訳のわからなルーティーンだった。


そんな中 極め付けの一言

その後その言葉だけは二度と忘れないと小さいながらに思った言葉。

「お母さんも居ないくせに。」

相手からしたら当たり前の言葉だったのだろう。

だけど私からしたらとてつもなく辛い耐え難い言葉だった。


家に帰って祖母に泣きついた。

「なんでうちはお母さんがいない?!」

「なんで?なんでなの?」

「なんでお母さんがいないって言われなきゃならないの!」

祖母から帰ってきた言葉は・・・

「お父さんに聞いてみなさい。」だった。

その中会話に入ってきたのは歳の離れた姉だった。

当時歳の離れた姉はイケイケな時代だったんだろう。

いつも夕方見る姿は特攻服、もしくはスーツ姿で高いヒール、紫の口紅。

そんな姿だった。そんな姉がその言葉に怒り

その台詞を吐いた私の友達の家にのっこんだりしていた。


私は3歳の時に母親から離れたけれど

姉は思春期の頃に母親がいなくなった。

そこから当時は珍しくはなかった不良に染まっていた。


月日が経って私も小学生高学年になった頃

姉はもう手も当てられない状況だった。

姉は中学卒業後専門学校に進学し毎回トップ成績だったが

卒業まじかに捕まって退学になった。


小学校帰って来てから姉はいつもシンナーを吸っていた。

そんな仲間も集まった場所に一緒に連れていかれ

少し狂っている人たちを見ては鼻を背けてずっと絶えていた。

シンナーや特攻服の刺繍のために姉は退学後コンビニでバイトしていた。

専門学校でも簿記専攻していたせいもあって数字が得意。

コンビニもなんなく働いていたようには見えた。

記憶が定かではないけれど、真面目な姉もいてだめな姉もいた。


ただシンナーを吸い出してしばらくすると発狂してバタバタ暴れることがあった。

その度に祖父母のいる部屋に逃げた。

そんな姉を見るのがとてもいやで 祖父母がいないときは

自宅の後ろにあった父の経営する会社に逃げていた。

事務員さんがいつも助けてくれた。事務員さんも父に電話をする。

帰ってきた父はもちろん怒号、怒りの手がいつも出ていた。

そんな毎日、、、姉ちゃんが包丁を持ち出して暴れることもあった。

その度に父と乱闘になっていた。

姉の発狂もこわければ父の手も怖かった。


すべてはシンナーが悪いと思っていた。

たびたび家の近くに投げていかれるシンナー瓶。

取ってこいと言って拒否できないぱしりになる私。

でも嫌だった。怖くて何も言えずに見ていた。

そしてその瓶を隠す場所を毎回チェックしていた。

姉がいなくなった好きに父親にちくっていた。

何度かそんなことを繰り返した後

姉は鑑別所送りになった。

ほっとした・・。

振り返って思う。


思春期に母親を失った姉はぐれた そのまんま言葉のまんま。

私は母親がいたころから婆ちゃん子だったのもあって

一緒に過ごした記憶も顔すらも知らなかった だから普通にいれた。

その分たっぷり祖母が母親変わりをしてくれていたから。


父親は若いころからとっぽかった。

人に仕えない人だったのだろう。

私と一緒で思ったらすぐに行動しないと気が済まない。

若いころから周りがしないことをしているような人だった。

当時ではめずらしく自分でダンプを所有し

その流れから今の会社を立ち上げたの。

今ではそんな父親の影を求めて

男性に父親の姿を重ねてしまうこともあるんだが・・。

(それはまた、後に話そうかな)

何でもできる父親だった。

だけど仕事しかしない人間だった。

母親がいるころから家庭を顧みず仕事ばかり

仕事が終われば飲み歩き夜中に帰り、

週末は自宅でどんちゃん騒ぎをしていた。

父親で出かけた記憶なんて幼少期はほぼなかった。


話しかければ話しかけるなと言わんばかりの

態度の悪い、内弁慶ってやつ。

子供からしたら恐い父親。

そこに重なって姉へ怒る姿を見てたから恐怖の存在だった。

習い事もしたくないソフトボールへ強引に入団させられたり

髪型は伸ばすことさえ許されなかった。


そして祖父。

頑固で愛想ない爺ちゃんだった。

祖父も当時は警備員をして働いていた。

趣味の競輪によく出向いていた。

交わす言葉はあまりなかったが

祖父は存在自体が安心する存在だった。

たまたま付き添った病院で祖父が胃がん告知された。

手術すれば治るといわれていたが

祖父は手術なんてしない と。


そんな中 恐い顔をした父親に呼ばれた。

写真立ての裏側から何かを出した。

私らしき子供と映る女性。

母親だった。 

「これがお前の母親だ」

それだけだった。

何も言えなかった。。。


数日写真立てを開けてはその写真を眺めていた。


祖父の病気を知っての父親の行動だったんだろう。



そして2年後に死んでいった。

在宅で介護する祖母の姿 認知症も入り痛がる祖父。

すごく見てて辛かった。祖母が不憫で仕方なかった。

祖父の訃報を聞いたときはひどいけれど

辛い祖母の姿を見なくていいんだとほっとしてしまった。

何かあったかといえばないけれど 祖父が死んだ葬式

私は泣くことをやめることができなかった。

矛盾してはいるけどやっぱり寂しかった。

骨になる人を見たのは初めての経験だった。


それまでもその後も見たことがないくらいの

壮大すぎる程の葬儀だった。

宗教上で家で行われた。

参列した人の数は3桁を超えていた。

祖父の人脈ではない。父親の人脈で参列した人数だった。

その中で不思議な場面があった。


参列している最中に

「どの面さげててめぇここに来てんだ!!!」

怒号する父親の前に襟のない喪服を着て土下座するおじさん。


葬儀が終わり親戚で談笑する中 

一人げえげえと吐く女性がいた。


そして大人が集まる二階に呼ばれた。


母親がいた。


お前の母親だと 紹介された。


何も反応できなかった。


土下座していたのは当時母親と出て行った男性だったと後で知った。


ここまでかな・・・。

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