鼠の家
@shuw1000
第1話 「疫病の街で」
東京の街は、まるで時間が止まったかのような静けさに包まれていた。普段なら賑わうはずの商店街も、今はすべてのシャッターが降ろされ、街の角々に放置されたような無人の店先が目立つ。路地を歩く人々の顔には恐怖の色が浮かんでいる。普段なら見過ごされがちな小さな物音が、今では耳に突き刺さる。遠くからは、かすかに響く咳き込む音が聞こえてきたかと思うと、それに続くのは不安げな声だった。誰もが恐れている。ペスト、あの伝染病が確実に街に蔓延しているという噂が広まり、街全体がその恐怖に支配されている。
街が静まり返り、空気は冷たく、どこか重苦しい。ペストの恐怖が市民を支配しているのだ。だが、この恐怖を終わらせる方法はただ一つ。根本的な原因を断ち切らなければならない。
大西浩一は、保健局に勤める職員だ。日々、ペストの拡大を防ぐために奔走しながらも、心の中で確信していたことがあった。それは、今行われている一時的な対策が本当に効果的なのかという疑念だった。役所は、「ねずみ1匹を5銭で買い上げる」という政策を発表し、市民たちはその指示に従って必死にねずみ捕りを行っていた。政府の方針として、ねずみがペストを媒介しているという説に基づき、その数を減らすことで感染拡大を防ごうというものだった。
大西はその政策が実際に効果があるのか、真剣に疑問を抱いていた。役所は、市民にねずみ捕りを奨励することによって、短期的にでも「成果」を上げようとした。しかし、大西は心の中でこう思っていた。
果たして、これだけで本当にペストを防ぐことができるのか? ねずみを捕まえることが重要なのは分かる。しかし、根本的な原因を解決しなければ、意味がないのではないか?
「役所の目論見は明確だ。ねずみを減らすことでペストを防ぐ。だが、この一時的な対応が本当に効果的なのか? それが私の疑問だ。根本的な解決にはもっと深い調査と対策が必要だろう。」
大西はその日も、いつものように役所での業務をこなしていた。資料を整理し、保健局の上司からの指示を受け、民間への情報提供を行う。だが、彼の頭の中は常にペストの根本的な原因に向けられていた。政府や役所が示す一時的な対策には、どうしても納得できないものがあった。ねずみを捕まえて5銭を支払うというシンプルな方法が、本当にペストを防げるのか、という疑問はつきまとっていた。
街のあちこちでは、民衆が必死になってねずみ捕りをしている。路地裏や公園、商店の裏側など、ありとあらゆる場所で市民がねずみを捕まえようと必死に動き回っていた。市民の多くは、この政策がペストを防ぐための唯一の手段だと信じて疑っていない。しかし、大西はその光景を見ながら、心の中でふと考えることがあった。
「ねずみがペストの原因であるのならば、なぜ今、これほどまでに蔓延しているのか? もし本当にねずみが原因ならば、もう少し早く対応できたはずだ。」
その問いが、どうしても心の中で解消されなかった。彼はこの疑問を解明しなければ、次に進むことができないと感じていた。
だが、その一方で、大西は自分の立場をよく理解していた。役所の政策が間違っているわけではないかもしれない。市民の不安を取り除くために、今は目に見える対策を講じることが重要だという現実もまた、否応なく彼の中にある。それでも、大西は心の中で決意していた。
「このままでは終わらせない。ペストの本当の原因を突き止めなければならない。」
そして、そのためには自らが何か行動を起こさなければならないと感じていた。
大西はしばらく街を歩きながら、思考を巡らせていた。今、東京の街は恐怖と混乱に包まれている。商店もほとんど閉鎖され、人々の足取りも重く、どこか焦燥感を漂わせている。ペストはただの病気ではなく、人々の生活そのものを揺るがす存在となっていた。毎日のように増えていく発症者、病気の恐怖におびえながら、街を歩く人々。その中で、大西の心は一層重くなっていった。
彼の目の前には、今まさに一匹のねずみを捕まえた市民が現れる。その市民は、捕まえたねずみを手に取り、目を輝かせて役所に向かって走っていった。大西はその背中を見つめながら、改めて思う。
「これが本当にペストを防ぐ方法なのか?」
その疑問が、ますます彼の胸に重くのしかかる。しかし、今はその答えを出す時ではない。彼はまず、行動を起こさなければならないと心に誓った。
役所の会議室は薄暗く、煙草の煙が充満していた。昼下がりの光が窓から差し込んでいるが、空気は重く、職員たちの表情には疲れと不安がにじんでいる。ペストの拡大に対して、どう対処すべきかが議論される中、大西浩一は思わず眉をひそめた。
「まず、ねずみ捕り政策の進捗を報告しよう。これでねずみの数は減るだろうが、ペストの蔓延は止められていない。それでも、今は目に見える効果を出すことが一番重要だ。」
田村和義は、冷静だがどこか事務的な口調で続けた。役所の方針がすべて実務的な手段で成り立っていることを、大西は強く感じていた。田村はその表情に焦りを隠しきれない。
「でも、それが本当に根本的な解決に繋がるのでしょうか? ねずみ捕りは確かに重要かもしれませんが、ペストの拡大を防ぐためには、他にも手段が必要だと思います。」
大西は言葉を選びながら続けた。役所の政策がただの一時的な対応に過ぎないのではないかという不安が、次第に彼の心に広がっていた。彼が感じる疑念は、ただの個人的な感情ではなく、職員全体が抱えているものだった。
「大西、君もわかっているだろう。今は市民の不安を抑えることが最優先だ。ペストが広がれば、都市全体が混乱に陥る。目の前でどう行動するかが重要なんだ。」
「しかし、それでは根本的な解決にならない。ねずみ捕りがどれだけ進んでも、ペストが広がっている現実は変わりません。」
田村和義の言葉には、やや冷徹さがにじみ出ていた。彼もまた、大西と同じようにペストの拡大を防ぎたいと思っているが、現実問題として目の前の混乱にどう対処するかに重点を置かざるを得ない立場にあった。
「目先の結果を出すためには、まず市民に手応えを見せなければならない。確かに、長期的な解決策は必要だが、今はその時間がない。」
大西は深く息をついた。彼の心の中では、これで本当にペストを止められるのかという疑問が膨れ上がっていた。しかし、田村和義の言葉が示す現実を無視することはできなかった。今は目の前の混乱をどうにかしなければならない。
「それでも、今の方法が本当に長期的な効果を生むのか、私は確信が持てません。」
「確信を持てないのは当然だろう。でも、今はやるべきことをやらなければならない。君が提案する長期的な対策も大切だが、それは後で考えることだ。」
大西はその言葉にしばらく黙り込む。確かに、目の前の状況をすぐに変えるためには、手っ取り早い対策を講じるしかないのだろう。しかし、心の中ではそれに満足することができない。
「これが本当に正しい方法なのか…それとも、何か大きな見落としがあるのか…。」
会議の空気は重く、二人の間にしばしの沈黙が流れる。職員たちがその場を静かに見守る中、田村和義は最後に一言、締めくくった。
「今はとにかく、ねずみを捕まえ、少しでも市民に安心感を与えることだ。その後で、新たな対策を考えよう。」
大西はしばらく黙って頷くと、会議室を後にする準備を始めた。自分の疑問が解消されたわけではないが、今はその答えを求める時間がないと。
大西浩一は、役所での会議を終えた後、街中で実際に「ねずみ捕り」に励む市民たちの様子を見に行くことに決めた。ペストの影響がますます広がる中、街は依然として冷え込んだ雰囲気に包まれていた。商店のシャッターが降ろされ、通りを歩く人々は皆、どこか焦りを感じているように見える。大西はそんな街を歩きながら、市民たちの動きに目を配った。彼が関心を持っていたのは、政府が実施している「ねずみ1匹を5銭で買い上げる」という政策が、どれだけ効果的に進んでいるかということだ。
市民たちは必死にねずみを捕まえ、少しでも自分たちの生活を改善しようと努力していた。商店主たちもその一環として協力しているが、どこか空虚な表情を浮かべている。そんな中、大西は街角でひときわ目立つ人物を見かけた。斉藤久三郎という商人だ。斉藤は地元ではよく顔を見かける商人で、少し豪快な性格だが、誠実に商売をしているという評判があった。
大西は興味を持って斉藤の行動を観察していた。斉藤は他の市民たちと同じようにねずみを捕まえているように見えるが、その動きにはどこか計算された部分があるように感じられた。彼が周囲の商人と話し合っているのを見て、大西はふと疑問を持った。
「彼が普通の商人でないとすれば、何か裏で動いているのか…?」
大西は斉藤の動きに注目し、少し距離を置いて観察を続けた。すると、斉藤が捕まえたねずみをある商人に渡し、何かを受け取っているのが見えた。取引の内容はわからないが、明らかに普通の「ねずみ捕り」ではない取引のように見える。
その後、斉藤が立ち上がり、大西の方に気づいて近づいてきた。
(にっこりと笑いながら)
「おや、お前さんもねずみを捕まえているのか? これはまた奇遇だな。もしよかったら、俺の方法を少し教えてやろうか。」
斉藤は優しげに声をかけてきた。普段は少し強引に感じることもあるが、今回はどこか温かみのある接し方だ。大西は警戒心を抱えつつも、斉藤の言葉に応じて歩み寄った。
(少し慎重に)
「君がねずみ捕りに熱心に取り組んでいることはわかる。だが、君があんな商人と取引しているのを見たが、何をしているんだ? 普通のねずみ捕りとは少し違うように見えた。」
斉藤は驚いた様子もなく、むしろ落ち着いて答える。
「うん、確かに普通のやり方ではないかもしれないな。でも、このねずみの取引は単なる『ねずみ捕り』にとどまらないんだ。実は、このねずみを役所が買い上げるために捕まえているのは知っているだろう? だが、それだけでは市場が動かない。俺たちは、その中でも少し工夫をしているだけさ。」
大西は少し眉をひそめて、さらに話を聞こうとする。
「工夫? それがどういう意味だ?」
(少し考え込みながら)
「俺はただの商人だ。役所が買い上げるだけじゃなく、このねずみをもっと有効に使おうと思ってね。例えば、役所に売った後、それを防疫に使うだけでなく、別の方法で活用できる場面がある。商人同士で協力して、もっと効果的に広めていこうとしているんだ。」
大西は少し驚きながらも、斉藤の言葉に耳を傾けた。
「役所が定めた方法に従うだけではダメだというのか?」
(真剣に)
「いや、そういうわけじゃない。役所がやっていることにも意味はある。でも、現場で俺たちができることがあるんじゃないかと思ってね。要するに、役所のやり方を補完するような形だよ。市民が自発的に動くことも重要だし、それがうまく回る仕組みを作っていきたいんだ。」
「なるほど、君は市民の力を引き出して、ペスト拡大の防止に貢献しようとしているわけか。」
斉藤は頷きながら、さらに続けた。
「そうだ。みんなが協力すれば、いくらかでも役立つだろうと思ってね。俺たち商人だって、ただ利益を追い求めるだけじゃなくて、街のためになることも考えているんだ。」
大西はその言葉を胸に受け止めながらも、斉藤の真意を完全には測りかねていた。確かに、彼の言っていることには一理あるように感じられたが、何かしらの裏があるのではないかという警戒心は依然として残っていた。
「君の言う通り、協力することは大切だ。だが、もし何か問題があれば、すぐに報告することを忘れないでほしい。」
斉藤はその言葉に頷き、少し笑顔を見せた。
「もちろんだ。俺たちがやっていることは、街のためにやっているんだから、問題があればすぐに協力するさ。」
その後、大西は少し考えながら、斉藤との会話を終えた。彼の誠実さに触れたものの、まだ確信を持てない部分もあった。とりあえず、彼の活動がどこに向かっているのかを見極める必要がありそうだ。大西は、斉藤の言葉を頭にしっかりと刻み込みつつ、その場を後にした
東京の街はもはや活気を失い、どこか冷たく沈んだ空気が漂っていた。ペストはただの病気ではなく、街の雰囲気そのものを変えてしまった。人々は誰もが恐怖と不安を抱え、街を歩く姿勢もどこか急ぎ足だった。大西浩一はその混乱を見つめながら、病院へと足を運んだ。病院の前には長い列ができていた。ここにも、病気にかかった多くの市民が集まっている。
病院内に足を踏み入れると、まず耳に入るのは、静かな慌ただしさだ。人々のささやき声、物音、時折響く医師や看護師の呼びかけが混ざり合っている。受付には疲れ切ったスタッフが座っており、患者たちは順番を待ちながら静かに横たわっていた。病院の空気には緊張感が漂っていたが、同時にその場にいるすべての人々が持つ切実な思いが感じられる。
「次はあなたです」と、看護師が声をかけると、一人の中年の男性がゆっくりと診察室に向かって歩き出した。顔色は悪く、足元がふらついているが、それでも彼は何とか病院にたどり着いたことに安堵している様子だ。診察室の扉が閉じる音が響くと、廊下に残された人々は、次に自分の番が来るのを静かに待っている。
大西はその様子を遠くから見守りながら、病院の奥へ進んだ。医師や看護師は、まるで限られたリソースを無駄にしないように、次々と患者を処置していく。だが、どこかその顔に疲れが見える。病院内にはすでに多くの患者が収容されており、もはや一部の患者は、廊下に座り込んで順番を待っていた。
「今のところ、治療薬は限られていますが、何とかしてお力になります」と、看護師が一人の患者に優しく語りかけている。その声には、少しの慰めと共に、同時に現実を受け入れなければならないという無力感も感じられる。患者は力なく頷き、診察を受ける準備を始めた。
病院内での対応は、最善を尽くしているものの、患者の数が増え続けているため、次々と運ばれてくる新たな患者にすぐに対応することが難しくなっていた。治療が間に合わず、容態が悪化している患者も目にすることが増えていたが、医療従事者たちは一人ひとりに真摯に向き合っていた。
そのとき、大西の目に止まったのは、別の部屋から運ばれてきた若い女性の患者だった。顔色は青白く、軽い咳を繰り返しながらも、まだしっかりと意識はあった。看護師が優しく彼女を診察室に案内する。その目には恐怖と不安が色濃く現れているが、彼女は必死に冷静を保とうとしているように見えた。
「心配しないで。あなたもすぐに診てもらえますから」と看護師が言うと、女性はわずかに頷き、診察室へと向かう。その姿を見守る大西は、彼女が抱える不安や恐れを感じずにはいられなかった。
病院の中では、他にも多くの患者たちが順番を待っている。大西は、ふと顔を上げると、外の空気を求めて出て行こうとする中年男性を見かけた。彼は不安げに病院を後にしようとしていたが、看護師が優しく声をかける。
「無理しないでください。少し休んで、また後で来てくださいね。」
その言葉に男性は軽く頷くと、しばらくその場で立ち止まり、深いため息をついた。大西はその様子を見ながら、思わず自分の胸の奥が締め付けられるような気がした。この病院での状況は、どこか希望を感じさせると同時に、何か大きな限界も感じさせた。どれだけ医療体制が頑張っても、この病気に立ち向かう力は限られている。
外に出ると、病院の前に並ぶ列が、ますます長くなっているのが見えた。人々は次々と訪れ、診察を待っていたが、誰もが不安げな顔をしていた。大西はその列を見つめ、何とも言えない重苦しさを感じていた。
病院の内部に漂う空気、患者たちの顔に浮かぶ不安、そして医療従事者たちの疲れ切った姿が、街全体に広がるペストの影響を物語っていた。だが、どんなに困難な状況でも、大西は心の中で決意を固めていた。自分には、この街を助けるためにできることがあると信じていた。ペストの根本的な原因を解き明かし、何とかしてこの絶望的な状況を変えなければならない。
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