君想ふ 優しき晴れに 幸あれと

ましゅ

第1話:物語の始まりは日常から、これがラブコメのテンプレート。

 天高く馬肥ゆる秋、その言葉を体現するかのような蒼穹が広がる昼下がり。あまりにも心地よい陽気に船を漕いでいた俺は、いつの間にかぐっすりどっぷりと眠りの海に全身浸かってしまっていた。船は沈没してしまったみたいだ。

「……き」

 ぐーぐー、すやすや。

「……岡崎」

 むにゃむにゃ、すやぴ。

「岡崎晴彦!」

「ふぐぉ!?」

 唐突に後頭部に感じた猛烈な痛みと共に俺――岡崎晴彦おかざきはるひこは優雅な眠りから目を覚ました。口の端に垂れる涎を制服の袖で拭いながら顔を上げると、そこにあったのは担任である瀬戸せと大河たいが先生のいかつ……ご尊顔だった。

 そんなしかめっ面していたら四十路過ぎの顔に皺が増えそうなものだが、それを言ってしまうと般若を通り越して真蛇に至ってしまいそうなので賢い俺は口を噤む。般若って怒りの段階の途中なんだってさ。

 改めて俺を見下ろす瀬戸先生を観察すると、その手には分厚い古文の資料集。いや、こういう時って教科書が相場では?

「何か言うことは?」

「あー、おはようございます?」

 睡眠から目覚めた時の挨拶を正しく口にしたはずなのだが、それはどうやら求められた答えではなかったらしい。瀬戸先生は呆れたように首を振りながら教卓に戻り、そのまま黒板に書かれた問題を指し示した。

「もういい。この問題に答えろ」

 いや、答えろって、さっきまで寝ていた人間に対してなかなか酷じゃないですかね。そう思いながら眠気の残る目を擦って黒板を見つめる。


『歌はよまざりけれど、を思ひ知りたりけり』


 それを見てようやく意識がはっきりする。現在は四時間目の古文の授業で、黒板に書かれているのはおそらく物語の一節。何の一節かはわからんけど、『よのなか』に点が打たれていることから察するに、どうやらその意味を答えろという問題らしい。定番中の定番と言える問題形式、この程度なら考える時間はいらない。

「男女の仲、です」

「……正解だ。次からは真面目に授業を聞くように」

 俺が即答すると、瀬戸先生は不満そうに文句を言って授業を再開した。教室には呆れたような感心したような空気が漂ったがそれも一瞬のこと。すぐに瀬戸先生のありがたい解説に耳を傾け始めた。みんな、すごい、まじめ。

 俺としてはもう一度睡眠に挑戦するのもやぶさかではないのだが、また問題を解かされるのも面倒なのでおとなしく授業を聞く姿勢をとることにした。あ、さっきの一節は伊勢物語だったっけ。

 そんなことを考えていると、隣の席に座る女子から声をかけられた。

「ハル、また寝てた」

「春眠なんちゃらって言うだろ。昼飯後の四限ならなおさらだ」

「秋なんだけど。古文の授業なんだけど」

「細かいところ指摘すんな」

 俺のことをハルと呼ぶのは幼なじみの春日井かすがいゆう。幼なじみという贔屓目を除いても美少女というのが相応しい、そんな整った顔立ちをしている。ちなみに俺はというと何の変哲もないそこら辺にありふれた男子高校生なのであり、物語的に言ってしまえばモブである。モブ山モブ男に改名してやろうか。世の中(この場合は世間の意)って理不尽だよね、という話は横に置く。

 何の因果か、俺と優は小中の九年と高校一年、つまりは今年を含めた計十年間も同じクラスという信じられない偶然を共にしているのだ。クラス替えも少しは仕事をしてくれないと新学期のドキドキワクワクが薄れてしまうというのに、現実は非常である。

 そんな優だが、「全然細かくないし……」と呟きながら先程の瀬戸先生と同じような呆れた視線を向けてきた。きっと気のせいだろう。

「ほんとハルは昔から変わらんねぇ」

 そう言って優は他のクラスメイトと同様に授業モードに入った。少しだけその横顔を観察してから、俺も板書をノートにとる。シャープペンシルがノートを走るカリカリという音と黒板に文字が追加されるカツカツという音がリズムを奏でながら耳に届く。

 よのなかが上手く回らないのは、今も昔も同じなのかもしれない。


 こんな日常が数え切れないほど綴られている俺の物語は、もうすぐ非日常を描いていくことになる。

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