死にたがりの覇王譚~世界を制するリアルタイム放送~

覚山覚

第1話 カルネアデスの舟板

 カルネアデスの舟板。

 船が難破して海に投げ出され、一枚の舟板に掴まって命を繋いでいる状態。

 

 一人が掴まることが精一杯のその舟板。そんなところに他の漂流者が近付いてきた場合、自分が助かる為に舟板を死守するのは罪になるのか?


 その答えは――罪には問われない、だ。


 倫理的な問題はともかくとして、法的には自分が生きる為に他者を蹴落とすのは致し方ないとされている。これがカルネアデスの舟板。法における緊急避難の例として用いられている例え話だ。


 そして、現在の僕はその状況下にあった。


 沈みゆく大型船。大荒れの海に揺さぶられている僕。命を託すには心許ない舟板に掴まり、荒れ狂う大波に翻弄されていると――波飛沫の中に漂流者を発見した。


 最初は幻覚だと思った。船に乗っていた乗客は全滅したと思っていたので、生存者が存在しているとは思わなかったのだ。


 舟板に掴まりながらバタ足で近付いていくと、相手の方もこちらに気が付いた。

 驚きに目を見開く女性、その整った顔には見覚えがある。船が沈む直前に甲板で見掛けた女性だ。彼女も僕と同じく甲板に居たことで命を拾ったのだろう。


 しかし、このまま泳ぎ続けて体力が保つとは思えない。少しでも生存率を上げる為には漂流物に身を預けるべきだが、残念ながら荒れ狂う海上には漂流物が見当たらない。


 唯一の例外は、僕が掴まっている舟板だ。


 僕一人の重みだけで沈みそうになる舟板。まず間違いなく、この舟板には二人の人間を浮かべるだけの浮力は無い。


 ならば選択肢は二つに一つだ。二人とも溺れるか、どちらか一人だけが舟板を確保するかだ。


 もちろん僕の選択肢は決まっている。

 この舟板は、この命綱は――彼女に譲る。


 だからこそ僕は彼女に向かって近付いている。わざわざ近くまで近付いて『この舟板は最高でーす!』などと煽りに行くような趣味はないのだ。


 僕が段々と近付いていくと、彼女の方も濁流に逆らうように泳いでくるのが分かった。遠目でこの舟板が一人用だと見抜くのは難しいので、おそらくは二人で舟板に掴まるつもりでいるのだろう。


 場合によっては舟板の奪い合いになりかねない場面だが、僕の心に迷いはない。どちらかが死ぬ可能性が高いのなら、それは僕であるべきだ。


 これは僕の高い倫理感がそうさせるのではなく、前々から僕はいつ死んでも構わないと思っていたからだ。それは消極的な自殺志願――希死念慮と呼ばれるものだ。


 積極的に死にたいと願っている訳ではない。簡単に命を散らすのは、僕を十五年も育ててくれた家族に対して申し訳ない。僕は血の繋がりのない子供だったのだから尚更だ。


 ただ、格好の死に場所が目の前にあるなら迷わず死を選ぶ。それが僕の偽りない性根だった。


 そんな事を考えてしまう根源的な要因は、僕が自分自身の事を好きではないからだと思う。……もちろん、自分の事を好きになる為の努力は怠っていない。勉学に励み、身体を鍛え、自分の存在を誇れるように自己研鑽に傾注した。


 その努力はある程度の実を結んだが…………しかし、それでも駄目だった。


 学園の試験でトップを取ろうとも、同世代の誰にも負けない力を身に着けても、僕には決定的に足りていないものがあった。


 誰もが当たり前に持っているものを僕だけが持っていない。その劣等感は、どれだけ努力を重ねても消えなかった。だから僕に迷いはない。


 お互いの表情が見えるほどの距離に近付いたところで、女性に合図を送った。

 女性はこちらを訝しげに見返す。その視線は僕の意図を探っていた。


 暴雨が波を叩く音で言葉は届かないが、わざわざ声に出して伝える必要はない。

 僕は立ち泳ぎのまま女性の手元に、命を繋ぐ舟板を放り投げた。


「!?」


 女性は驚きつつも咄嗟に舟板を掴む。

 僕はそれを見て、思わず安堵の笑みを浮かべた。


「――――!」


 言葉にならない声が聞こえた。僕の意図を悟った女性が何かを叫んでいるようだが、それに答えるつもりはない。

 

 いつまでもこの場に残っていては惑わせる事になる。僕はこのまま海中へ消えるつもりだった。


「――――」


 海に潜る直前、女性に向けて笑顔を作った。僕のせいで彼女が気に病んでしまっては申し訳ないので、最後に笑顔を見せておくべきだと思ったのだ。


 実際、僕は心から満足していた。僕の命で誰かの命が救われる――それは、死に場所を求めていた僕にとって願ってもない状況だった。


 これで彼女の生存が保証されたわけではないが、少なくとも僕の行動によって生存率が上昇した事は間違いない。


 だから僕は満ち足りた気持ちで海に潜った。徐々に呼吸が苦しくなり、意識が遠のいていく中、僕を育ててくれた養父や友人の顔が脳裏に浮かんだ。


 養父や友人は僕の死を悲しむかも知れない。その事だけが申し訳なくて心残りだ。――それが、僕の最後の思考だった。

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