散々スカーレット
やなぎ怜
散々スカーレット
今日のスカーレットは散々だった。
魔法薬の調合の授業で大いに失敗し、教師からは補習を宣告された。がみがみと叱られるスカーレットは、教室中の生徒の視線を集めた。教師から怒られたこともこたえたが、生徒たちから哀れっぽい目で見られたことは、大いにスカーレットを恥じさせた。スカーレットは大人しく、引っ込み思案で、目立つことが苦手なのだ。
魔法薬学室からとぼとぼと、力ない様子で寮へと向かうスカーレットの頭からは、先ほどの羞恥心が抜けきらない。けれども――今はそんなことに脳のリソースを取られている場合ではないこともまた、たしかだった。
「ねえ、ライオネル様はどこ?」
大いに落ち込んでいる、今のスカーレットとは明らかに違う、能天気な声が背後から上がる。
スカーレットが振り返れば、黒を基調とした女子制服に身を包んだ――スカーレットがいる。
胸のあたりまで伸びたセミロングの黒い髪をおさげにして、折り目正しく制服を着こんだ、特に愛らしくもない平凡な容姿の少女が――スカーレットがいる。
間違えようはずもない。一七年付き合ってきた――特に直視したくもない――己の容姿そのままの少女が、今スカーレットのうしろにいる。
少女がスカーレットとそっくりそのままの見た目なのは、なんのことはない、彼女もまたスカーレットだからである。
先ほどの魔法薬の調合の授業で盛大に失敗したスカーレットは、その結果分裂してしまったのだ。
いつも通り……いや、いつもよりも内気な性格のスカーレットと、この能天気な声でしゃべるスカーレットに。
これから補習に出なければならないスカーレットは、保健室で特に健康上の問題はないと太鼓判を捺されたあと、魔法薬学の教師に命じられてこの能天気なスカーレットを寮の自室に連れて行く途中だった。
教師によると、薬効が切れるまでは最大半日。無用なトラブルを防止するため、スカーレットは寮の自室にもうひとりの自分を閉じ込めに行くことになってしまった。
――頭が痛い。
その理由が薬剤の影響であればよかったが、すでに保健医によってどちらのスカーレットも健康上の問題はないと言い切られている。頭痛の原因は、スカーレット自身の至らなさのせい……。それはわかりきっていた。
「ねえ! ライオネル様はどこ? 早く会いに行きたいわ」
能天気なスカーレットがじれたように言う。スカーレットは、それになにも返す気にはなれなかった。代わりとでも言うように、じっともうひとりの自分を見つめる。……そして、深く重いため息をついた。
この能天気なスカーレットもまた、スカーレットの一部である。それはわかりきっていた。
しかし、スカーレットはこのもうひとりのスカーレットを認められない――というより、認めたくなかった。こんな能天気な声を出して、馬鹿みたいに何度も何度もライオネル――婚約者に会いたいと訴えてくる自分なんて。
だがもちろん、このスカーレットもまたスカーレットを構成する要素のひとつなわけで。スカーレットはもちろん、このような能天気なスカーレットが生成された理由にはちゃんと心当たりがあった。
能天気なスカーレットの正体は、日記の中のスカーレットである。
大人しくて、引っ込み思案で、目立つことが苦手で、内気。スカーレットはそんな言葉の数々で評せる。
だが日記の中のスカーレットは、そこにこの文言を加えることができる。
『婚約者であるライオネルのことが大好きで、もっといちゃつきたいと思っている』
……最悪なことに、このもうひとりのスカーレットは、まさしくスカーレットの日記から飛び出てきたような言動をするのである。
スカーレットの日記は、もちろん他人に見せるために書かれたものではない。むしろ、他人には見せられない自分の一面や、吐露できない思いを書き綴った――というか、書きなぐったシロモノである。そんなものが他人の目に触れることがあれば、スカーレットは恥ずかしさで悶死してしまうだろう。
だが最悪なことは起きた。そして今スカーレットの目の前にいる。だれにも見せられない日記の中のスカーレットそのものと言える、もうひとりのスカーレット。彼女をすみやかに自室に監禁しないことは、スカーレットの名誉にかかわる。スカーレット自身はそう思うほどに、思いつめていた。
魔法薬によって分裂した影響か、いつもよりもネガティブな思考にスカーレットは支配されていた。
スカーレットは、しつこく婚約者のライオネルを求めるもうひとりのスカーレットをなだめつつ、「あとで連れてくる」と嘘をついて寮にある自室まで誘導し、閉じ込めた。魔法で外から錠をかけたスカーレットは、鍵がかかっていることをしっかりと確認し、重い足取りで補習に出るべくまた寮を出るのであった。
*
補習を終えたスカーレットは目を剥いた。ふと向けた視線の先、中庭を堂々ともうひとりのスカーレットが歩いていたのである。よくよく考えれば、スカーレットが魔法で作り出した自室の錠を、もうひとりのスカーレットが破るのは難しいことではないだろう。なぜなら彼女もまたスカーレットであることに間違いはないのだから。
加えて最悪なことが起こった。中庭を歩くもうひとりのスカーレットに、婚約者のライオネルが話しかけてきたのだ。三階からその様子を目撃したスカーレットは、猛スピードで、それこそ飛ぶような勢いで廊下を爆走し、階段を駆け下りて中庭へと向かった。
「魔法薬学の授業でちょっとした事故を起こしたって聞いたけれど……大丈夫?」
心配そうな顔をして問うライオネルに、もうひとりのスカーレットは無言で二度うなずいた。その瞳の中にはハートマークが浮かんでいるような、そんな熱心な目をライオネルに向けている。
スカーレットはこれまでに出したことのない速度で、中庭で仲睦まじげにしているふたりのところへとたどり着いた。
「ライオネル様っ!」
スカーレットは今までに出したことのない、咎めるような大声で婚約者を呼んだ。……呼んだはいいが、それからどう言い訳を並べればいいのかわからなくなって、口を閉じた。
一方、婚約者であるスカーレットの、あり得ないふたり目が現れたことでライオネルは混乱した様子だった。
「スカーレットが……ふたり?」
「こ、これには深いわけがあって――」
「ライオネル様! 向こうを見ないで! わたしだけを見てください!」
――ええ加減にせえよ、このボケボケ恋愛脳が。
スカーレットの脳裏に、祖母の郷里の訛り混じりの言葉が浮かぶ。しかしかなしいかな、その「ボケボケ恋愛脳」なスカーレットもまた、スカーレットという少女の一部から出てきたものなのである。スカーレットはそれを理解しつつも、「ボケボケ恋愛脳」な自分が憎くなった。
しかし同時に怖くなった。スカーレットはライオネルの前では、節度のある振る舞いをする淑女ぶった言動を取っていた。たとえ婚約者であってもべたべたしない、クールな女を気取っていたのだ。
だが現実の――日記の紙上で発露されていたスカーレットは、今目の前にいる「ボケボケ恋愛脳」女とでも言うべき人間だった。
ライオネルのことが好きで好きでたまらなくて、本当はべたべたしたいし、いちゃつきたいし、独占したいし、なんだったらマウストゥマウスでキスもしたいと思っている……。それがライオネルが知らないだろう、スカーレットのもう一面であった。
そんな一面をライオネルが知ったらどうするだろう。失望するだろうか、幻滅するだろうか。あるいは――そんな素直で、可愛げのあるスカーレットのほうがいいと思うだろうか。
けれどももし、そうなったとすれば、これまでのスカーレットは行き場を失う。淑女らしくして、クールを気取って、大人しくて節度ある振る舞いをするスカーレットは。
彼に夢中で能天気で素直なスカーレットもまた、スカーレットという少女の一部であることに違いはない。しかしそれは、魔法薬によって誇張された面も否定できない。だけど、ライオネルがもしそちらのスカーレットのほうがいいと思ったならば、ここにいるもうひとりのスカーレットはどうすればいいのだろう。
スカーレットはそんな、嫌な予感を脳裏の中で駆け巡らせながらも、しかし冷静にライオネルにこれまでの経緯を説明し終えた。
「――というわけで、薬剤の影響で一時的に分裂してしまったんです」
スカーレットの言葉に、ライオネルはいつもと変わらない爽やかな微笑を浮かべたまま「なるほど」と言う。かたわらにたたずむもうひとりのスカーレットは、不満そうな顔をしてライオネルの横顔を見つめていた。そんな「ボケボケ恋愛脳」なもうひとりの自分を、スカーレットは憎らしいとばかりに、思わず鋭い視線を送ってしまう。
「なるほど」
ライオネルが事態を呑み込むように、再度同じ言葉を口にする。それから視線をふたりのスカーレットへと巡らせて――
「スカーレットが二倍になるだなんて、最高だな」
と言った。
ライオネルの言葉が予想外すぎたスカーレットは静かに動揺し、どうでもいいことを口走る。
「……いえ、増えたというか、見た目は増えてますけど実際は〇.五と〇.五で分かれているだけで……」
「なるほど、つまるところ彼女も君の一部ということか」
スカーレットは墓穴を掘ったと思った。
ライオネルから視線を向けられて、もうひとりのスカーレットは舞い上がっているのか、頬をほのかに朱色に染めて、とろけた瞳で婚約者を見ている。
「そ、そうですけど……多分、その……いえ、だいぶ誇張された性格になってるなと、わたしは思っているんですけれど……」
冷や汗をかきつつ、スカーレットは言い訳のような言葉を並べ立てる。それでも「そのスカーレットは本来のスカーレットとはまったく違う」という否定はしなかった。というか、できなかった。ライオネルに嘘をつくのは、スカーレットにとっては非常にうしろめたいことであり、そしてそもそもスカーレットは嘘をつくのが得意ではなかった。
「そうなのか?」
「そう! そうです……」
「ということはここにいるふたりのスカーレットのどちらかはいずれ消えてしまうのか……」
「先生は、薬効は最大半日で消えると……」
「では、その前に抱きしめてもいいだろうか」
「え?」
「スカーレットが二倍になるだなんて、この先ないだろう。今のうちに堪能しておこうと――む」
スカーレットが、ライオネルの提案に呆気に取られているあいだに、もうひとりのスカーレットが消えた。正確には、急にぺらぺらとした紙のようになって、半透明になったかと思えば、滑るようにしてスカーレットに重なったのだ。そして「ボケボケ恋愛脳」なスカーレットは消えた――否、元あった通りに統合されたと言うべきだろう。
ライオネルはその一連の出来事を見届けたあと、落胆した様子でため息をついた。スカーレットはそんな風にため息を吐いたライオネルを見て、問わずにはおれなかった。
「……あっちのわたしのほうがよかったですか」
「? どういう意味だ?」
「あのー……なんていうか、あっちのわたしはライオネル様への好意を隠してはいなかったわけで……あの、べ、別にわたしはあんな感じじゃぜんぜんなくて! あれは誇張された幻みたいなものなんですけど!」
スカーレットは、そうして言い募れば募るほど言葉が上滑りしていくような錯覚をする。
――ライオネルに、幻滅されたらどうしよう。失望されたらどうしよう。誤解されたらどうしよう。はしたないと思われたらどうしよう。
スカーレットの頭の中は、そんなネガティブな感情が高速で反復横跳びをしているようだった。
「? どちらも君ではないのか?」
スカーレットは言葉に詰まった。
ライオネルの問いは事実である。だがそれを否定して、嘘をつけばいい――。そう思いはしたものの、スカーレットの舌の滑りはひどく悪くなっていくようだった。
「どちらの君も可愛いと思ったのだが……」
「へ?」
「もしかして、これは浮気とみなされるのだろうか?」
「え……そ、そんなことはないと思いますけれど」
「そうか! よかった。しかし素直でない君も、素直な君も、可愛くて同時に抱きしめたいと思ったのだが……残念だ」
「あ、そ、ソウデスカ……」
ライオネルの態度に、スカーレットは羞恥を喚起される。
ライオネルはいつだってこうだ。スカーレットへの好意を隠そうともしない。ライオネルの巨大な愛に気圧されて、いつもスカーレットは曖昧な笑みを浮かべることしかできないでいた。
けれども内心ではどう思っているかは、スカーレットの日記を一ページだけでも読めばだれだってわかる。それを必死で隠しているのは、思春期の肥大化した過剰な自意識がそうさせている面もある。
要は、ストレートな物言いをすることはスカーレットには気恥ずかしい振る舞いなのだ。そうして素直な気持ちを述べたところで、それを受け取ってもらえなかったときの恐怖もある。けれど、そんな恐怖はライオネルに限っては杞憂だろう。だがこれまでクールぶっていた態度を変えるのもまた、スカーレットにとっては非常に勇気のいることであった。
けれど――
「あの、わたし……もう少し素直になれるよう、がんばります」
少しは勇気を出して、素直になってみようとスカーレットは思った。
ライオネルはスカーレットの言葉にわずかに目を瞠ったあと、まなじりを下げて微笑んだ。
「ああ、楽しみにしている」
スカーレットの頬はかっかと熱を持つ。ストレートすぎるライオネルの言葉は、やはり気恥ずかしいが――。
けれど少しは日記の中にいるスカーレットのように、きちんとライオネルへの好意を素直に表しようと決意を固めたのであった。
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