あなた殺しの揺籠で
蛙田アメコ
きみが、墜落する(殺伐感情戦線2024/11/17 お題:罪)
「傑作だよ」
「ほんと?」
「うん、由加には才能があるよ」
私の言葉ひとつ。
薄っぺらなおべんちゃらひとつで、由加は小さく息を呑んで賛辞の続きを求めて目を潤ませる。由加の書いた小説なんかよりも、こっちのほうがよほどケッサクだ。
大学1年の秋だった。
宝永義塾大学の神奈川キャンパスには、けだるい分断が生まれていた。
前期ほどの高揚感もなく、ぬるりと始まった後期課程。学業や部活動、サークル活動、なんだったら色恋でもいい。なんらかに打ち込むことができる人間は、この世の春とばかりに秋のキャンパスライフを満喫していた。一方で、大学からドロップアウトする学生が出はじめていた。毎年繰り返される、栄光と挫折の塗り分けだ。
由加が私に声をかけてきたのは、そんな頃だった。
「吉屋言実さん、です、よね」
昼休みが始まったばかりの時間。次の講義がある大教室に座って作業をしていた時に、由加が私に話しかけてきた。ひどく緊張した面持ちで、視線が私の手元と顔を高速で往復していた。
「そうです」
「ああ、やっぱり。突然声かけて、すみません。あ、えと、私は都賀由加です。ツカユカ、なんか変な響きですよね。あは」
「初対面の挨拶で自分の氏名を自分で卑下して笑い取るのやめたほうがいいんじゃないですか。反応に困るし」
「あは、は、い」
しゅんと萎れた由加は、めげなかった。
私の隣の席に座り、「次の講義、私もとってます」ときた。声色にかなり拒絶を含んで対応したつもりだった私は、ちょっとだけ面食らってしまった。
「で、あの。私ファンなんですよ、吉屋さん」
「ファン。なんの」
「なにって、あなたの! 吉屋言実先生の! 去年の夏に春潮に掲載してた短編、めちゃエモくて、いや、これ質のない感想ですよね、あの、ロジックが明確で、シチュエーションも必然性あるっていうか、受験生なのに何度も読み込んじゃって、続きもすごく楽しみにしてて! って、あーぁダメだな、えと、もちろん学生デビューとかすごいし」
アタフタと言葉を吐き出す由加は、哀れだった。
ああ、そうなんだ。私は悟った。
だから、彼女が欲しがっている言葉をあげた。
「あなたも、創る人なんだ」
由加の瞳に光が宿るのを見た。
ああ、なんで弱くて、どこにでもいる人間なんだろう。
きっと何の工夫もなくても、すぐ堕ちる。
輝かしい誘蛾灯にぶつかって、夜の虫が地面に叩きつけられて死ぬみたいに。
「……よかったら、私にも読ませて。あなたの小説」
「え! いや、なんで私が小説書くって! って、まだ完成してもないけど、あの」
「わかるよ、私たち同じだもん」
高校3年で老舗の文学賞を受賞して、文壇にデビューした学生作家・吉屋言実と「同じ」。わざわざ勇気を出して、その学生作家に話しかけてくるような人間にとって、「同じ」という言葉がどれだけ甘美で渇きを潤してくれるものかくらいは、わかっている。
そもそも、教室の机にわざわざ校正用のゲラを広げて、これ見よがしに赤字を入れてるのは、そういう餌を誘き寄せるためだし。さいわいなことに、文芸誌のグラビア(っていうのも、思えば変な話だ)や新聞インタビューで私の顔写真はある程度、世間に出回っていた。そのへんを歩いてて知らん人から声をかけられるようなことはなかったが、図書館や大学では何度かこうして声をかけられたことがあった。
私に声をかけてきた人たちに、私は共通点を見出していた。
「よければ部室においでよ。私は担当さんと打ち合わせがあるとき以外は、いつもいるから」
はい、堕ちた。
都賀由加。こいつは甘言で弄んでいいんだリストに追加した。
これからこの女はどうせ、ろくな作品を書きもしない。今書いているという小説を完成させることもないかもしれない。
そのくせ「吉屋言実に認められている自分」っていう虚像に溺れて、甘えて、消えていく。
本当は吉屋言実なんて、ろくな作家じゃないのに。
──高校3年でデビューして以来、最初にもらった文芸誌『春潮』での連載を途中で投げ出して休載状態にしている。
若き作家ってていで推薦をもらって入った大学も、執筆活動を理由に休学して、2回目の大学1年生をやっている。おなじように学生作家をやっている人たちが、二冊目、三冊目と経歴を重ねている中で、私は「次の名作」を書けないまま立ち止まっている。
「部室って?」
「うん。サークル西棟の1階奥、防音室の隣。サークルの名前は、総括部」
「総括部……」
「学生運動とは無縁だから、安心していいよ」
「あ、それちょっと思いました」
「いわゆるオールラウンドサークルの一種だね。いままでの人生を総括して、次の一歩を踏み出すための部活」
「そ、うですか。なんであれ、行きます。まさか吉屋さんに誘ってもらえるなんて」
浮かれる由加を見ていると、腹の中にヘドロが溜まっていく。
この人を堕とすことは、なんの罪にもならないだろう。
だって、私ごときに心酔して憧れるなんで間違ってる。見る目がない。最悪だ。だから、私のこの行為に罪悪感なんて少しも抱いていなかった。
(いい感じに遊んで、適当にヤリ捨てよ)
けっこう私好みの顔をした都賀由加を値踏みして、私はそんな皮算用をしていた。
私の休学は、建前では執筆活動への専念を理由にしていたけれど、実際のところはセックスと自堕落に溺れていただけである。大学生っぽい。たぶん。わからんけど。なお、セックスに溺れることは自堕落には含まれない。ありゃけっこう、くたびれるのだ。
お酒は飲まない。私はまだ未成年だし、未成年飲酒は犯罪だ。
私はただ、大学生という身分と作家という肩書きの間に挟まれて、自分自身を持て余していたのだ。
そういうわけで、私は由加をおもちゃにしようとしていた。罪悪感なんて、ちっともない。
見る目のない馬鹿なんて、私が堕とさなくても、いつかは同じことになる。
それだったら、私のための犠牲になってくれたらいい。
「私はまだ大丈夫」
「作品を書き上げられるってだけで偉いんだ」
「小説を完成させられないやつがほとんど」
「憧れに溺れて死ぬワナビよりは、ずっとマシ」
私がそう思うための踏み台になってもらうことは、罪にはならないだろう。
──よしんば悪だったとしても、罪なんかじゃない。
ひとつ誤算があった。
都賀由加は非常に馬鹿正直で、素直で、真面目な女だった。
総括部の部室に誘った次の週には、由加は原稿用紙二十枚ほどの小説の完成原稿を手に私を訪ねてきた。
「面白い。尖ってるよ」
由加の作品を読み終わって最初に口をついたその言葉に、嘘はなかった。
それなりに面白く、荒削りながら尖った着眼点と筆致で、ありていにいえばデビューくらいなら問題なくできる人間の小説だと思った……褒めてしまってから、「やっちゃった」と唇を噛んだ。
「ほんとに!」
由加はちょっとだけ絶句してから、ほとんど叫ぶみたいに言った。
耳が痛い。数日前の夜に聞いたあえぎ声と同じく、キンキンした声だった。
表情も体もエロくて最高だったけれど、私は由加の声は苦手だなと思った。
「嬉しい、ほんとに……あ、でもよかったらだけど、悪いとことかも教えてほしくて」
面倒臭いことになったな、と私は思った。
アドバイスなんてできるわけがない。
人様に教えられるような再現性のある理論に基づいた執筆活動をしていたら、今頃スランプになんてなってない。
「そんなの、必要ないよ」
私はそう絞り出した。
思いつく限りのおべんちゃらを、由加に聞かせる。
由加はそれを熱心にメモを取り、私に何度も礼を言った。
その夜、私と由加はまた大学生らしい滑稽で(滑稽ではないセックスがあるかどうかは知らないが)ぎこちないセックスをして、その次の週に由加はまた私のところに新作を持ってきた。
私はその週、1文字たりとも小説を書けなかったというのに。
次の週も、その次の週も。
次も、次も、次も。
由加は小説を仕上げてきた。
私に読ませるためだけに、小説を書いてきた。
由加は次第に、週に長編1本という驚異的なスピードで創作に打ち込むようになっていた。
毎回、毎回、私だけのためにそれをA4用紙にプリントアウトしてきてくれる。
「…………もう書けたんだ」
「うん! 言実に読んでもらえるなんて、こんな幸運なかなかないもん」
由加は私のことを、下の名前で呼ぶようになっていた。
二作目の小説はクオリティをあげていて、いや、むしろ……私との会話や、私のLINEや、私の文章を喰って、それを糧に由加の小説は目を見張る進化を遂げているようだった。
「ねえ、次も読んでくれるでしょ?」
麗しく、由加は笑う。
「それにね。、言実の新作も読ませてね。読者一号になりたいの」
ああこれはもう、逃げられないなと思った。
私は、喰われたのだ。
「だって私、吉屋言実のファンだもの」
──私はいつのまにか。
あれだけ馬鹿にしていた、輝かしい誰かからの承認を欲する人間になっていた。
都賀由加が、私と同じ文学賞をとるのに時間はかからなかった。
それだけじゃない。由加の創作は途絶えることなく、次々に作品を執筆した。
ついには、もっとも権威ある文学賞を受賞して、彼女は本当の「天才学生作家」になった。
「傑作だよ」
「ほんと?」
「うん、由加には才能があるよ」
私の言葉ひとつ。
薄っぺらなおべんちゃらひとつで、由加は小さく息を呑んで賛辞の続きを求めて目を潤ませる。由加の書いた小説なんかよりも、こっちのほうがよほどケッサクだ。
「吉屋言実にさ、こんなに褒められるなんて夢みたいだよ」
私の下宿の布団の中、さっきまでの情事を忘れたみたいなあどけない顔で、由加は嬉しそうに笑っている。
時間ばかりが進んで、小説家としての私は世界に忘れ去られてしまったというのに。
ああ、もう。
死ねばいいのに。死ねばいいのに、死ねばいい、死ねば死ねば死ねば死ねば死ねば死ねば……私が、死ねばいいのに。
私が、死ねばいいのに。
※
※
※
ああ、なんて気持ちがいいことでしょう。
吉屋言実が墜ちました。
高校生の頃に応募した文学賞では、私が落ちて吉屋言実が選ばれました。
──嫉妬に狂っちゃいました。
吉屋言実のほうが一学年上だから、とか。そういうの関係ないんです。私は高校生作家として輝かしいデビューをする未来を信じていたし、実際に私のように小説が書ける同世代の人間なんて会ったことはなかったし、私の運営していた個人サイトには私と私の小説を褒めそやすコメントが寄せられていました。
有象無象の褒めなんて、いらなかったんです。
吉屋言実という、私の手にするはずだった栄光をさらった女に、この都賀由加という女を認めさせないと気が済まなかった。
そういうわけで、私は吉屋言実の進学先を受験するために勉学に励みました。
私には「学生作家でござい」なんていう推薦カードはありませんので、なかなか大変な受験でした。私は嫉妬心を維持するために、春潮で連載している吉屋の新作を何度も何度も読みました。
そうして、やっと大学生になって。
ツテを辿って受講している講義をつきとめて、ファンを装って話しかけてみました。
そうしたら、なんということでしょう。
吉屋言実は私に媚びを売ってきました。
そのへんにいる小説家に憧れるワナビにするのと同じように、この私の機嫌をとろうとしてきたのです。
平凡だったのです。あまりに凡庸で、つまんなかったのです。
──怒りに狂っちゃいました。
かつての私は、こんなつまんねー人間に負けて「高校生デビュー作家」というもう二度と手に入らない肩書きを手に入れ損ねたのです。そんなこと、「はいそうですか」と受け入れられるわけはありません。スランプだかなんだか知らないですが、書けない作家という現状に何重もの甘ったるい言い訳でコーティングを施して、現状をよしとしているのです。
吉屋言実が、輝かしい人間であったならば。
それならば、この手で殺してやりたかった。
小説で勝てないのならば、暴力でどうにかしてやりたかった。
けれど、吉屋言実は、私の想像の中で放っていた輝きを纏ってはいませんでした。
だから、私は決めたのです。
吉屋言実を、私の養分にする。
埃っぽい下宿でのセックスも、私が二十歳になる直前にはじめて一緒に飲んだ酒も、すがるような言実の視線も、全部私の養分にしてやりました。私をスポイルしようと、必死に私の小説を褒めそやす姿も、全部。
吉屋言実は、こう考えていたのでしょう。
素人の小説を適当に褒めておけば、そのうち満足して書かなくなるって。
そうは問屋が卸しません。だって、私がずっと求めていたのは、他ならぬ彼女からの賞賛と証人だったのだから。
言実と過ごす時間で、私の小説はみるみる磨かれていきました。
念願だった文学賞の受賞連絡を受けたときも、なんだか呆気ない気持ちでした。そんなの、受賞するのは必然だったし、今の私にとってはただの通過点だったのです。学生作家という、今の吉屋言実と同じ肩書きを手に入れて、私は満足できたかって?
まさか。
止まりません、止まれません。
「吉屋言実にさ、こんなに褒められるなんて夢みたいだよ」
彼女の下宿の布団の中、さっきまでの情事を忘れたみたいに絶望した顔で、言実は私を見つめている。
時間ばかりが進んで、小説家としての彼女は世界に忘れ去られてしまったというのに。
私はまだ、彼女からの賞賛が欲しくてたまらないのです。
もう、彼女がくれる賞賛も、賛辞も、ちっとも心に響かないのです。
個人サイトで、有象無象の訪問者がくれた激励と同じように、言実の言葉が、私をもっと渇かせるのです。
「ありがとう、言実」
だから、どうかお願いします。
いつか、あなたが死んでしまうまで。
ずっと私を渇かせて。
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