第零章 第一幕 セツボウ(三)
入学式が終わった後。両親は保護者の集まりがあるので、私は先に家へ帰る。……帰るのだが。
『ねえ、どうしてずっと私の周りにいるの?』
「あら、悪いの?」
この怪異は何がしたいのか全く分からない。私に危害を加える気はないみたいだけど……それでもつきまとわられるのは御免だ。
ため息をついた時、スマホの通知が鳴った。カバンから取り出して確認すると、そこにはお母さんからのメッセージが一件。
《保護者カイが早く終わったの》
《今日は入学祝でたくさん食べましょう?ヌにシょーとけーきも買おっか!》
「……可愛いで済まされない程、誤字が多いわね」
『っ勝手に人のスマホみないでよ!』
スマホを見られないように、身体を別方向に向けてもまた覗き込んでくる。勝手にスマホを見られていい気分がしない。
「貴方のお母さんは、普段から誤字が多いの?」
『そんな訳ないでしょ』
お母さんは普段、こんな誤字をしない。いや、したとしても「ショートケーキ」の「シ」だけカタカナになることはあるのだろうか。あと、「ヌ」は何だろう……「〆」かな?
それでも、入学祝をしてくれることに心が温かくなって、思わず笑みがこぼれる。お母さんも相当嬉しいのかな。そりゃあ、頑張って育てた一人娘の高校の入学式だもん。嬉しいはず……だよね、多分。
「カ、イ、ヌ……」
『な、なに』
「!……それに返信をしない方がいいわ。今すぐ閉じなさい」
『え?』
焦ったように紡がれる言葉。「返信をしない方がいい」……って、私のお母さんに?なんで?
でも、そんな事を言われても時すでに遅し。私は既に返信を返しているし、そのメッセージには既読がついてしまっている。
『もう、返信してるけど……』
「っ……それじゃあ、一旦気をしっかり持ってなさい」
彼女が言い終わるや否や、目の前の校舎や空に無数のヒビが入っていく。地面はバキバキと地割れを起こし始め、世界は徐々に崩壊していった。
崩壊した先に見えるのは真っ黒な世界で、その奥から無数の目が私達を見ていた。
『なっ、なにこれ!?』
「……貴方、怪異を引き寄せやすい体質なのね。本当に、どうしてそこまで……」
『ちょっ、なんか語るのもいいけど助けてよ!』
不安定な足元でバランスが取れず、目の前の彼女にしがみつく。彼女は何も言わずに、ただ前に手を伸ばした。
一体何をするつもりなのか。ただ、何か方法があるのなら早く何とかして欲しい。何もしないこの時間にも、世界は崩壊の一途を辿っている。
「……」
『ねえってば!』
私の声が届いたからなのか、それとも偶然だったのかは分からない。彼女はどこからともなく筒状のものを取り出した。それは、手のひらほどの大きさがある八角形のケース。その側面には複雑な模様が刻まれ、かすかに光を帯びているようにも見える。ケースの一面には小さな窓があり、その向こうに見えるのは——。
『歯車の砂時計……?』
「私の目の前で壊そうとするなんて、警察の前で堂々と犯罪を犯しているようなものよ」
彼女の手の中に在る砂時計の透明なケースの奥深くには、あちこちに小さな歯車が埋め込まれており、それぞれが砂の流れとともに静かに回転している。砂の中にある歯車のひとつが、砂に押し流され、回りながら落ちていった。
そして、歯車が底にたどり着いた瞬間——その歯車は粉々に砕け散り、細かい破片となって砂に混じり込んだ。その瞬間、世界はまるで逆再生されているかのような変化を見せる。崩れかけた世界のヒビは音もなく収束し、壊れた大地は静かに継ぎ目を失っていく。砕けた歯車の残骸が砂に溶け込むたび、崩壊の兆しが後退し、世界は再び一つの形へと戻っていったかのようだった。
『……凄い。ねえ、何したの?』
「警察は目の前で起こった犯罪を見逃さず、収束させるでしょう?それと同じよ」
全く分からない。多分何か事件が起こったけど、とりあえず解決したよってことだろう。詳細は分からないけど。
「それにしても貴方……本当に怪異を引き寄せるわね」
『好きで引き寄せているわけじゃないよ!』
「そうでしょうね」
私の抗議の声に、彼女は何かを考え始めた。私はどうするでもなく、ただ彼女の言葉を待っている。いや、よく考えれば彼女の言葉を待つ必要はないし、このまま帰ればいいんだけど。でも、助けてくれたし、悪い怪異でもない気がする。彼女のことが少し気になるから、その言葉の続きを待つ。
彼女が再び口を開いたのは、体感でいうと数分後。
「……貴方、さっき「好きで引き寄せているわけじゃない」って言ったわよね」
『え?あ、うん。言ったよ』
「やっぱり、此の世ならざる存在の怪異やアヤカシは嫌い?」
『うん。嫌い』
ハッキリと答えると、彼女はどこか寂しそうに「そうよね」と呟いた。怪異相手に、「嫌い」はまずかったかな……。女子相手に「女子は嫌い」って言っているようなものだよね。変えられないものは批判するべきじゃなかったかも……。
『あ、あのね。それらは襲ってくるから嫌いなのであって、まあ、害をなさなければ……』
「もし……」
『うん?』
必死に身振り手振りでフォローをする。でも、私の言葉を遮って彼女は静かに言葉を紡ぎ始めた。
「もし、対価を払ったらその願いを叶えてあげる……って言ったら、貴方は喜んでくれる?」
彼女の何も光を映さない瞳が私を捕らえる。彼女が言う「私の願い」とは、「私が十数年間も捨てられなかった希望」のことなのだろう。
『出来るの?私も、普通の人になれる……?』
「ええ。貴方が私に対価を支払えば、私は貴方の願いを叶えることが出来るわ」
その言葉に身体中が歓喜した。私も「普通」になれるのだと、もう苦しまなくていいのだと。
対価なんていくらでも払う。私が払えるものなら何でも払ってやる。だってそれは、私が心の底から願い続けたものだから。
「まあ、貴方の場合、それだけで「普通」になれるわけじゃないわよ」
『え……』
「怪異に「引き寄せられない」だけで、貴方が「怪異が見える」のは変わらない。それは、貴方が望む「普通」ではないでしょう?」
この怪異は、全てを叶えようとしていた。 過去に住職から否定されたあの願いさえも、どうにか叶えてくれようとしているのだ。 かつて私は怪異を恐れ、嫌悪し、避け続けてきた。 ――怪異に救われたという初めての経験が、私の中で静かに訪れた。
「ねぇ
『それも対価あり?』
「ええ。勿論」
話が上手く行きすぎて怖い。私は、この怪異を本当に信じていいのだろうか。 全てが謎に包まれ、何一つ確かなものなどない。全てが初めての出来事ばかりで、これが正しいのか、間違っているのかなんて判断すべきではない。でも、ただ私の願いに寄り添ってくれる目の前の怪異を信じてみたい……なんて、甘すぎる考えかもしれない。
初めて垂らされた一本の細く長い蜘蛛の糸。その先に繋がっている未来がどんなものか想像できないけれど、今はそれに縋って、頼ってみたい。
そっと差し出された手を握ると、彼女はどこかほっとしたように微笑んだ。
ちなみに私が支払う対価はというと……。
「最近、この学園の怪異は変に暴走すること多いから。だから、貴方の体質ならそういうのも炙り出せると思ったのよ。でも別にwin-winだからってわけじゃないわよ。貴方が平穏な学園生活を望むのと同じくらい、怪異の側にいないことを望んでいるから」
『私の願いに対等な価値があるから……ってことだよね』
「ええ。そうよ」
彼女は満足したように言い切って、先ほどの砂時計らしきものをくるくると縦に回している。珍しい遊びをしているな、と彼女の行動を横目に、今一度お母さんからのメッセージを確認してみる。そこには、誤字のない普通のメッセージがあった。別に、先ほどのメッセージが不気味だったというわけではないけど、何か意味があったのかな……。
「そういえば、叶向。貴方の名前は貴方が体育館で他の人に自己紹介をしている時に知ったけれど、私のことは知らないわよね」
『そうだね……って、盗み聞きみたいなことしないでよ』
彼女はスッと優雅な所作で自身の胸に手を当て、光のない赤い目を少し細めて首を傾けた。
「私は
情報量の多さと、聞いたことのない単語の羅列で頭がパンクしそうな私を見て、永遠はただ微笑んだ。
桜舞う季節。怪異に溢れた学校で出会った、初めて私に手を差し伸べてくれた怪異。この出会いが、本当の意味で私の人生の大きな転機になることを私が知るのは、もっと後の話――。
堺のカナタ 守名 @ilmrad-11
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