堺のカナタ

守名

第零章 第一幕 セツボウ(一)

 四月八日。

 玄関から一歩外に出れば、季節独特の生温かい風が桜の匂いを含んで街を漂っている。並木道の遥か向こうまで淡い桃色が霞んで見える。やっと春がやってきた。

 数日前までの少しよれた制服から一新、今はシワひとつない新品の制服に身を包まれている。高校の制服には、まだ二回しか袖を通したことがない。そのせいか、見慣れない服を着ている自分への違和感は、すぐにはぬぐいきれそうになかった。

 

 肩より少し下まで伸びている髪を一つに結って、少し慌てながら玄関へと駆け下りる。

 

 玄関には、すでに正装をした両親が揃って私を待っていた。

 「今日は入学式なんだから、早く行かないと遅刻するぞ?」とお父さんは朗らかに笑いながら私を急かし、お母さんは「そんな急かすことないでしょ?時間はまだあるんだから」と言いながら二人で笑っている。

 そのやり取りに微笑ましさを感じながら、私は新品のローファーに足を通した。

 

 柔らかい家族のやり取り、優しい色合いの並木道、新学期への期待や喜び。そんな温かな日常を脅かすのは、いつも彼ら—怪異の存在。

 両親にぐるぐると巻き付いている数多の目が浮かぶ黒い靄。街には真っ白な片手やら、顔のパーツがバラバラな、誰が見ても明らかに異常なモノが歩き彷徨う。電柱の影にはひび割れた眼鏡をかけて血に濡れたスーツを身に纏うサラリーマンが佇んでいる。そしてそれらの視線全てが、常に私に集まっていた。

 

 私は、物心ついた頃から此の世ならざるモノの存在が視認できた。そして不運にも、何故かそれらの存在に近寄られやすい体質を持っている。一度、ひとりでお寺へ行ったことがあるけれど、「君のそれは私にはどうにも出来ない」と、気のよさそうな住職にも首を横に振られてしまった。

 此の世のモノか、彼の世のモノか。どこにいてもずっと気を張り続けて、季節のイベントもたまの家族旅行も私には楽しめたものではなかった。

 

 私の両親には霊感がない。だから私はこの体質について打ち明けたことがない。

 これは私の、私だけの秘密だ。

 そこには、下手に騒ぎ立てて二人を困らせたくない、という思いがないわけじゃない。

 ただ、両親が困る・困らない以前に、私が二人に「普通でない子」として忌み嫌われたくないのだ。

 

 隣の家の玄関が開く音で意識を戻した。はっとして顔事そちらへ向けると、一つ年上の幼馴染、彼末かのすえ逢眞あまと目が合った。どうやらお見送りをしてくれるつもりらしい。

 「逢眞くん、高校でもよろしくね」と、両親が逢眞に声を掛ける。逢眞は、「はい」と一言言って、再び私に目を合わせた。


『おはよう、逢眞。いろは学園高校って確か、逢眞の家族の誰かが作ったんだよね?』

「……うん。俺の従祖伯母いとこおおおばの人だって。もう何十年も前に亡くなっているけれど。そう聞いてるよ」


 私が通う高校――いろは学園は、この地域ではかなり古くからある学校らしく、私の両親もこの高校で過ごしたと聞いている。戦後すぐに建てられた学校だけど、両親が通っていた校舎は、両親が卒業して数年後に立ち入りが禁止された。建物自体は残っているみたいだが、私達が通うのは、その近くに建っている新校舎。新校舎は創立して二十年も経っていないため、まだ綺麗な状態を保っていた。

 

叶向かなた、裏山にある旧校舎には絶対に近づいちゃだめだよ」

『分かってる。近づかないよ』

 

 両親と逢眞に「行ってきます」と告げ、十字路を右に曲がったら脇目も振らずに走り出す。近所の人やすれ違う人は、新品の制服で春の並木道を全速力で走る私を怪訝な目で見るけれど、今の私にはそれを気にする余裕はない。私を追いかけてくる此の世ならざるモノ達に捕まったら、取り込まれたら、どうなるかなんてわかったものではないから。

 

 『っもう、いい加減にしてよっ……!』

 

 物心ついた時から変わらない私の日常。家の外では怪異からひたすら逃げ回り、家の中では「自分は見えていない」と暗示をかけて過ごしてきた。そんな日常から解放されたくて、でもその方法は分からなくて、結局私は誰を頼ることも出来ない。両親も、幼馴染も、私の周りには見える人・・・・がいないから。それでも「見えなくなりたい」「この体質が消えればいいのに」と常に願い、明日になったら見えなくなっていないかと、十数年間も希望を捨てられない私自身が、酷く情けなくてしょうがなかった。

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