現れた崑崙

 裏山の中心から北東の方向。其処から何か大きな物が落下したような轟音が響き、同時に巨大過ぎる程の神気が現れる!

 邪仙の頂と俺は、踏み出した脚をその儘にし、其方の方向を見た。

「な、何…?この膨大な神気?これじゃまるで……」

 神崎さんが言う事すら憚れるとの感じで口を噤んだ。

 そりゃそうだろう。裏山は一つの聖域。その聖域の中に、それを凌駕するであろう聖域が出現したような、それ程までの超神気だからだ。

――我の奇跡の池の隣だな……

 海神が渋い表情を作り、呟いた。

「こ、この『仙気』は…まるで…」

「仙気だと?邪仙とは言え、仙人の貴様が間違う筈は無いと思う。つまり神気の正体は大陸の神仙か?」

――い、いや……如何に神仙とは言え、こんな膨大な仙気を持つ者は一柱も居らぬ筈…つまりこれは…『聖域』?

 周老子が腰を抜かさんはがりによろめきながらも、俺の弁を否定した。

「エデンに行った時と同じような神気……確かにエデン程ではないし、一点集中しているから、エデンのように広範囲では無いけど……」

 エデンに近い神気?しかしエデン程では無い、となると、エデンへの入り口程度の神気が出現した。という事か?

「ま、まさか崑崙……?」

「崑崙ってのは裏山に置ける程度の大きさなのかよ?笑わせる」

「馬鹿な事を抜かすな小僧!!崑崙は巨大な岩山!あの程度の広場に収まりきれる訳が無かろう!!」

 じゃあ一体何だと言うんだ?

――誰かが此方に向かって来るようだね

 死と再生の言葉につられて、全員が裏山に通じる通路に目を向けた。

「……北嶋の六柱と同程度の大きな神?」

「いや、神崎さん、確かにそうだが、その神に近い神気を持つ獣も一つ居る……」

「人間が……三人?」

――この邪気は……大妖の物か?

 固唾を飲んで向かう影を凝視する俺達。それはやがて話声まで聞こえる程、此方に接近した。

「この馬鹿!聖域を自分の庭に移動するなんて、一体何を考えてんだ!!」

「だっていちいち行くの面倒だろが。あんな岩山にピクニックにでも行けっつーのかお前は」

「まぁまぁ、二人共そこまでにしておくネ。確かに一番安全と言われればそうだしネ」

――この私が……崑崙の門番たる私が人間界に来る事など……

――ならば其方そなたは帰られた方が良いでしょう。王の決定に不服ならば

――貴様等、とやかく言う前に、妾の願いが先な事は忘れるなよ

「……やっぱり…と言うか、それしか考えられないけど……」

 口元に笑みを浮かべる神崎さん。

 そうだ。奴ならばどんな困難でも簡単にやり遂げる事を失念していた。必要だから、あるいは面倒だからやった、と呑気に返してくるだろう。

 北嶋 勇と言う男なら!!

 先頭を歩くその人影は紛れも無い、北嶋。

「北嶋!」

 俺は思わず感極まって叫んだ。

「き、北嶋だと!?」

 或いは邪仙は腰を引き、数歩後退った。

――雲行!立慧!

 或いは周老子はかつての弟子達の姿を、涙目になりながら追った。

 そして北嶋は神崎さんの前で立ち止まった。

 神崎さんは微かに笑って言う。

「お帰りなさい、北嶋さん」

「おう神崎。こいつ等まだ居たのか。ぶっ飛ばしていいか?」

 北嶋が陳と周老子を睨み付けた。

 周老子の前に飛び込んでそれを制する道士と西王母。

「何があったのかは知らんが、控えて貰うぞ北嶋」

「周老子は少し難ありな方ダケド、雲行の師であり私の師でもあるネ」

――お、お前達……

 とうとう大粒の涙を零した周老子。道士と西王母は幽体の周老子に抱き付き、共に泣いた。

「ちっ、仕方ねーな。このチョビ髭で我慢しとくか」

 そう言って狙いを邪仙に向ける。

「ひ!ひいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!!」

 みっともなく狼狽する邪仙。俺はやれやれと肩を竦めながら間に入った。

「悪いな北嶋。こいつは俺が先約だ。確かお前にも了承を得たと記憶しているが?」

「了承ってかお前の仕事だからスルーしたんだろが。全くトロい仕事しやがってよ。邪魔臭いからちゃっちゃと片付けろ」

 言って数歩退く北嶋。

「ま、待て!!」

「あ?何だチョビ髭。俺にぶっ飛ばされたい方向にチェンジしたい訳か?」

 慌てながら手をパタパタ振り、違う違うと喚き散らす邪仙。

「私はこの刑事と約束を交わしたのだ!私が勝ったらこの場は見逃すと!貴様の伴侶と柱が証人だ!!」

 北嶋は自分の柱を見渡すと、全員無言で頷いた。

「約束は本当よ北嶋さん」

「おい天パ、舐められてんぞ」

「まぁ仕方無いさ。お前と違って俺はしがない刑事だからな」

 おどけるように肩を竦めた。

「おいタマ、チワワはまだ大丈夫そうか?」

 九尾狐は言われて霊視をした。

――僅かならば…その代わり、貴様があの小さき犬の所まで連れて行くのだぞ

「つー訳だ天パ。瞬殺しろ」

 どうやら見て行くようだ。俺は苦笑しながら了解と言って構えた。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


 あの無礼千万極まり無い男、北嶋 勇が、儂の最愛の弟子を連れて来てくれた……

 儂は年甲斐も無く、雲行と立慧を抱き締めながら泣いた。

「老子…老子っっ!」

「周…今まで大変だったネ……ゴメンネ……」

 大変なのはお主達だっただろうと。

 儂が不在で困った事があっただろうと。

 暫くの間、儂達は泣いた。

――西王母様、それに道士。少し尋ねますが、私の王の敵があの尸解仙なのですか?

 その空気を無視して発したのは、北嶋が連れて来た、恐るべし清らかな仙気の持ち主……

 触れるだけで、いや、触れるなど畏れ多い、ただ近くに居るだけでも全ての傷が、まさに心の傷までもが和らぐような……

「はい…北嶋の敵と言うよりは、我々の敵。北嶋は成り行きで関わっただけのようです」

 雲行が跪きながら言う。

――雲行…此方の御方は……

 或いは既に知っているのだろう、儂は。故に確認をどうしてもしたかった。

 雲行は跪いた儘、儂の方を振り向きもせずに述べる。

「崑崙山山頂の護り神にして天帝への橋渡し…治癒神で在らせます」

 やはり!

 あの男は治癒を司る神に協力を取り付けたのか!しかも基本的に敵である、妖狐の頼みを以て!!

――お、おお…治癒神様…儂は……

 儂は治癒の神に名乗ろうとした。こんな所で治癒の神と出会えるなど思ってもみなかったから、拝謁の礼としてだ。

――必要ありません

 儂などに興味など持たぬと言わんばかりに切り捨てられた!

――な、何故!?

 理由をお聞きするなど、無礼極まり無かったが、思わず聞いてしまう程狼狽えた。

 治癒の神は儂を見ようとはせず、あの男に視線を向けた儘言った。

――私の王が其方を認めてはいないからです。王の意思は私の意志。故に其方と会話する言葉を私は知りません

 絶句した。あの男の意思は自らの意思だと。いや、そんな事より、あの男を指して私の王・・・とは一体!?

 と、その時、君代ちゃんの弟子が頭を下げて治癒の神に謁見する。

「北嶋の婚約者です。この度は御無理を申し上げ、お越し戴いた事に感謝致します」

 それは美しい『礼』。

 見ている儂も、思わず綻ぶような、それ程の『礼』だった。

 治癒の神は、そんな女を見て、目を細めて笑う。

――私の王の伴侶様で在らせますか。ならば私の女王と同意。どうぞ、頭を上げて下さい。私の女王となれば、礼は私がしなければなりません

 言って逆に頭を下げる治癒神!あの崑崙の守護神がたかが人間に礼など!とても信じられない!!信じる事ができない!!

「い、いえ、どうぞ頭をお上げ下さい治癒を司る神様。そ、それよりも、先程から私の王・・・と仰られておりますが、それは一体?」

 治癒神は笑う。本当に心から笑っている。そんな優しいお顔だった。

――あの御方が永きに渡り、私が縛られていた責務から解放してくれたのです。これからは自由にして良いと。懸念があった崑崙の性質やその後も、あの御方が全て解決してくれたのです―――

 言ってうっすらと涙を零す。

「北嶋さんが……でも、それは多分面倒臭いから行った事ですよ?」

――それでも、自由にして良いと仰られた私は、私の意志で私の王・・・と発しております。幸い、崑崙山頂を移動した事から私が生きるに充分な仙気も此処にある、それに、此処は元々聖域のようですし

 言って辺りを見回す治癒神。北嶋の守護柱全員と会釈を交わしている。

 だが、聞き捨てならぬ言葉を、儂は聞いてしまった。

――治癒神様!崑崙の山頂を移動したとは一体!?

――黙りなさい

 静かに、そして重く言い放つ治癒神。

――其方とは言葉を交わさぬと言った筈。分を弁えるが良い

 そう言われたら、言葉も出なければ動く事すら出来ぬ……そこまであの無礼極まり無い男に忠義を尽くすか……!

「では私からお聞きします。あの北東方向に突如現れた神気はもしかして……」

――はい。王は崑崙山頂の一部を、崑崙の全てを凝縮させて移動されたのです。機能していない聖域なれど、色々問題はありますが、私の王の傍に在るのならば、恐らくは一番安全です

――崑崙を移動させただと!?あの男、どこまで儂を愚弄する気だ!!

 とうとう我慢出来なくなり、叫んだ。

「老子、此処が一番安全なのは俺も同感です。北嶋は、老子の想像の遥か上を行く力の持ち主です」

「私も保証するネ。北嶋サンの近くなら、どんな邪仙、邪神も手出し不可能ネ。それに、此処には治癒神に匹敵する神々や悪神が、何故が仲良く共存しているしネ」

 儂の弟子達も、あの無礼者を認めているとは…

 いや、無礼者は確かに無礼者なのだが、それだけでは神々や悪神が付き従う筈も無い。

 儂はやはり表面しか見る事が出来なかったのか……

 儂は恥を感じて場に蹲った。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


 俺は老子を抱き締めた。

 こんなに反省を露わにしている老子は初めてだったからだ。

 北嶋との初対面がどの様に行われたのかは、生前の老子を知っている者ならば大体の予想は付く。

 北嶋は誰とでも分け隔て無く接する事ができるが、見知らぬ人間に、自分とは全く関係無い人間に高圧的な態度を取られたら、もう無理だ。あの男はその類の人間だ。

 俺も一歩間違えていたら敵側になっていただろう。想像すると、身が凍る思いだ。

 そしてそんな男の傍に居続ける女……

 俺と立慧はほぼ同時に、治癒神と話している女を見た。

 女は俺達の視線に気付くと、会釈をした。俺と立慧もそれに応じて会釈を返した。

「えーっと……北嶋サンの彼女サン?」

「え?ええ…彼女…うん…まぁ…彼女と言うか婚約者と言うか……」

 恥じらいを露わにしながら身悶える女。

 成程、かなりの美人だ。この人ならば北嶋も骨抜きになるだろう。俺はそれを想像して軽く笑った。

「初めまして、私は立慧。宜しくネ。えっと…」

 握手を求めながら言葉を詰まらせると、彼女は笑いながら応じて名乗った。

「神崎 尚美です。宜しく」

「神崎サン。凄い有名人ヨ。御顔が見れて良かったネ」

 笑いながらの立慧。神崎さんはそんな立慧をじっと見て、言った。

「……女仙から人の身に降りて来られたんですか。ですが、女仙としての力はかなり薄れているようですね。でも力を取り戻そうとし、かなりの努力を積んでいる。尊敬致します」

 俺も立慧も固まり、老子を見た。老子は首を横に振った。

 老子は立慧の事を話してはいない?

 ならば霊視で立慧の本質を見切ったと言う事になる。

 あの僅かな時間の霊視のみで……!北嶋も化物だが、神崎さんも劣らない…か……!

 そして神崎さんは俺を一瞬見た。

「あなたは守護神が二柱も居られるんですね。しかも陰陽二つの神…凄い……」

 驚嘆する神崎さんだが、それを一瞬で知るとは!

 俺の守護神、北斗星君と南斗星君の事は誰にも言っていない。それは切り札として隠していたからだ。

 老子も今神崎さんが言った事で、初めて知ったように目を見開いている。

「神崎さん……あなたは一体何者なのですか…?俺の守護神は誰にも話した事は無い。誰も視た・・事も無い。俺はかなり気を遣って隠していた。それを……」

「北嶋の婚約者です」

 神崎さんは普通に笑い、首を少し傾げて返した。

「……いや、そうですね。流石は北嶋の婚約者だ」

 あの北嶋の婚約者ならば、この位はできるだろう。無理やり、いや、無理無く納得しよう。

 そして俺は再び胸を撫で下ろす。北嶋を敵に回していたら、この女性も敵になっていた。

 良かった北嶋と友達になっておいて!!

 友達と言えるのかは微妙だが、それは取り敢えず置いておく。

「スゴイネ神崎サン!霊視で其処まで解る人、私の周りには居ないヨ!」

 立慧は本当に尊敬したように、神崎さんの手をしっかり握った。

「いえ、ただ聞いた・・・ものですから。毎日神仏と対話を繰り返している内に自然に身に付いた、相手側の守護霊、守護神との対話ですから。勿論、プライバシーはお聞きしていませんので安心して下さい」

 驚く程のスキル!

 つまりは北斗星君、南斗星君共々、神崎さんと対話した事になる。

 高名な霊能者でも、かなりの霊力を持つ霊能者でも難しいだろう、俺の守護神との対話を、事も無げにやってのけたのだ。

 神崎さんのスキルは霊力云々で身に付いたものでは無い。その真摯な心で、様々な神仏と対話を繰り返している内に、まだ対話していない他の神仏に信用・・されたと言う物だ。

 それは俺の守護神にも該当した。

 となれば、考えるに難しい程の、膨大な神仏と対話を繰り返した事になる。そして恐らくは、所謂悪神、悪魔とも対話をしているのだろう。

「化物の周りには化物が集まる……」

 思わず口に出してしまった呟き。

 慌てて口を押さえるも、神崎さんが笑っている事から、既に耳に入ってしまったようだ。

「そうなれば、あなたも化物になりますね」

「俺が?いや、俺にはまだそんな力は無い……」

 神崎さんは首を横に振って否定し、続ける。

「北嶋さんが認めた人なのでしょう?劉 雲行さん」

 名乗った覚えは無いが、訊いた・・・のだろう

「北嶋が認めた…ですか……ならば彼方も全く心配は必要無いようですね」

 言いながら陳と対峙している刑事を見た。

 今、刑事は陳に向かって構えを取ったばかり。

 陳は確かに強大な邪仙だが、北嶋に認められた刑事・・・・・・・・・・が相手なら、俺達泰山の道士の出る幕は無いだろう。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


 いきなり下界に放り出され、戸惑いながらもあの男。北嶋 勇の後を追っては来たものの……

 何だこの神々は?

 海神に死と再生の神、地の王に最硬の武神、黄金のナーガ…それに崑崙に来た憤怒と破壊の魔王……

 この崑崙より小さき聖域に、崑崙よりも多くの神々が居るなどと……

 それに信じられない事だが、場に居る神々は悪神である筈の西洋の魔王と共存している。あのナーガも元は悪神か?

 いや、そんな事よりも。その神々が我等の治癒神と互角の力量……

 成程、あの男の言う通り。

 此処は崑崙より遥かに安全だ!

 崑崙は領主権限により天帝への謁見の場を永久放棄してしまい、必要無い聖域となってしまったが、崑崙はあの超強力な仙気の恩恵で、仙丹が作れる材料が生息している。

 あの尸解仙のように、悪用しようとする輩も大勢居るのは事実だ。

――これで私も安心だ……

 小声で呟く。

――貴様も治癒を司る神と同様に、その重く虚しい責務から解き放たれたようだな

 私の声を拾ったか、九尾狐は特別興味も無さ気に言った。

 虚しい責務…確かにその通りだ。

 領主不在の儘何千年、私は崑崙の入り口。開明門を護って来た。

 敵も来ず、神仙は離れて行き。ただ待ち続けるだけの虚しい責務。

 あの男は私達を解放してくれた。虚しい責務、重い重圧から。

 人間である西王母様の宿命すらも断ち切り、言わば崑崙への縛り・・・・・・の関係者全てを解放したのだ。

 崑崙の仙気を一点凝縮し、自分の傍に移動させた事もそうだ。わざわざ辺鄙な所に出向くなんて面倒臭いから近くに置くと言ったが、それも確かに本音だろうが、それに救われた私達が居る事もまた事実。

 最大の懸念だった天帝のお怒りも全く無い。天帝もこれを全て許したと言う事だ。

――改めて考えてみると、貴公の主は素晴らしいお方だ

――クワックワックワッ!妾が仕えておるのだぞ?今更当然の事を抜かしてくれるな開明獣よ

 機嫌が良くなり笑う九尾狐。

 思えば、あの・・九尾狐が不平不満を零しながらも素直に従っていた事実を、最初に気付くべきだった。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


 凄まじい仙気を感じながら、周り全てが敵の中、生き延びる唯一のチャンスの為に全ての意識を向ける。

 目の前で距離を測るように左腕を掲げ、私と同じように私に全意識を向ける男に。「截拳道か?歴史の浅い武術で、道教の奥義を極めた私に通ずるかな?」

「極めた?笑えるな。尸解に成功した程度で自惚れるなよ」

 言いながら半歩近付く男。

「私は貴様を倒さねばならん。私が生き延びる為にな。だが貴様は見込みがある。私に従うと言うのなら、生かしてやってもいい」

 雲行が此処に居ると言う事は、震与が倒されたと言う事。この男なら震与の代わり程度にはなるだろう。

「俺が従うのは俺の心だけだ。貴様の下に付くなど、想像しただけで反吐が出そうだぜ」

 更に半歩踏み込む男。私は微動だにせず、間合いを詰める男に付き合う形を取る。

「そうか。ならば致し方無い。惜しいが、やはり貴様には死んで貰うしか無いな」

 本気で懐柔しようなどとは思ってはいない。単なる揺さぶり、それも成功は全く期待していない。

 私は漸く懐に手を伸ばす。符を取り出そうとしたのだ。


 ひゅん


 風切り音が耳元ではっきりと聞こえた。

 私の右頬が切れ、血が滲み出る。

 何故だ?

 頬に手を触れ、確認しながら考えているその時、私の鼻に拳が叩き込まれた。

「ぷあっっっ!?」

 仰け反りながらたたらを踏み、後退りした。

 鼻が折れたか!!

 ボタボタと流れ出る血。私は鼻を押さえて男を睨み付けた。

「貴様、間合いまで半歩程足りなかった筈!!」

 目測ではあるが、男はそこから踏み出していない。遠当て?いや、風の飛礫?

 このキャリアの薄い日本人が!?

「悪いが友人に瞬殺しろと言われたんでな。遊びは無しだ」

 突き出している左腕に、何か植物の蔓のような物が巻き付いていた。

 何だあれは?物凄い神気を感じるが、何かの神具、仙具か?

「私が動くまで待っていたと言うか?」

「そうじゃない、隙ができたから撃って出ただけだ」

 !この男、あの符を取る一瞬を見逃さずに拳を放ったのか!!風の飛礫を纏わせながら!!

 何と言う速さだ……この私が追えなかったとは……!!

「見えなかったか?尸解仙とは言え、仙人を自称する貴様が?」

 嫌味かそれは?それとも挑発か?

 それに尸解仙とは言え、仙人となったのは泰山数千年振りの快挙。配下の無理やり量産した尸解仙とは訳が違うのだ。

 奥歯をギリッと噛み締める。その音を打ち消すように男は言った。

「俺の友人には俺より速い攻撃を繰り出す男が居るんだ。勿論北嶋を除いてな。俺如きのスピードに付いて来れないんじゃ、貴様はやはり小物のようだな」

 あの攻撃よりも速いだと!?それもあの糞野郎を除いてだと!?

 そしてその糞野郎が合いの手を取った。

「ロリコンで無表情だけどな」

 幼女趣味なのに無表情とは、やけに犯罪的な仲間が居るな!?

「あいつのロリコンは本当だったのか?」

「今は16歳の女子を追っかけてる筈だ」

「……インターポールに手配書でも出そうかな…」

 仲間に犯罪的な人間が居ると知り、苦い表情をする男。

 先程は隙を付かれたが、今は奴が隙だらけだった。

 その隙を付き、懐に忍ばせていた符を宙に舞わせた。

「あ!しまった!」

「馬鹿め!もう遅い!氷の岩に押し潰されて死ね!」

 あの符は氷結の効果を齎す符。大気中の水を集めて氷を作り、超高度から落下させる符だ。

「巨大な雹か。見た目から結構な重量があるかな?」

 降って来る雹を眺めながら、呑気な事を抜かす。

「その通りだ!1トンはあるだろうよ!貴様のような人間の肉体など、一瞬にしてひき肉だ!」

「あんなもの、まともに喰らうと思っているのか?避ければ済む話だ。だがまあ、貴様の思う通りにはいかないと、教えてやる必要はある」

 言って巨大な雹目掛けて結構なジャンプをかます。

 人間であの跳躍力はと感心したが、それから更に驚く事が!

「あの巨大な雹を担いだだと!?」

 先ほども言ったように、重さが1トンはあるだろう、氷の塊を、肩で担ぐ形を取った!

 その姿勢の儘落下して来るが、間違いなく潰れて死ぬ!!

 だが、男は確かに極限まで肉体を酷使しただろうが、雹を担いで綺麗に着地した!

「馬鹿な!?貴様、本当に人間か!?」

「俺の友人にはな、俺よりも力自慢がいるんだよ。勿論北嶋以外にな。この程度に驚いているんだったら、やはり貴様は小物だ!」

 言って私目掛けて雹を投げつけた!

「わあああああああああああああああああああああああああああああああ!!!?」

 あんな物の下敷きになったら間違いなく死ぬ!

「暑苦しいけどな」

 慌てて逃げる私の耳に、あの糞野郎のどうでもいい呟きが入って来た!


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


 自らが作った巨大な雹の下敷きから逃れようと、ほうぼうの体で逃げる邪仙。鈍い音と共に落下した雹が粉々に砕け散る。

「く、くそっ!」

 尻餅を付きながらも難を逃れたか。

「逃がさないけどな」

 新たに会得した歩法を使う俺。

「う!?」

 瞬間移動の如く、まばたきの間すらも間に合わぬ程のスピードで、拳の間合いに入り込む。

「神行法!?」

 厳密には違うが、似たようなものか?神行法とは甲馬と言う二枚の札を足に括りつけで呪を唱えると、1日200㎞を四枚ならば300㎞を軽々と踏破できる術の事だ。

 長距離を短時間で歩く為の補助的な役割を持つ。

 この様に一瞬に間合いを詰める事も可能だが、俺は生憎仙術を学んでいない。

 俺のは神具の風の業を足に乗せて、ダッシュを補助すると言うもの。

 大陸の術とは異なるが、効果はこの通り、似たようなものになる。

 そして截拳道は短距離直線攻撃主体。間合いに入ったのならば、一番近い距離での高速の打撃だ。

「ぶ、ぶぶはっっっ…」

「立ち上がったか。別に驚きはしないが」

 と言うよりも、ただの突きで仕留められるとは思っていない。

 改めて構えを取る。

「次で終わらせる」

「くくく…!あの糞野郎といい、貴様といい、この最後の仙人と謳われた私をよくも…よくも此処まで愚弄しおって…!!」

 震える邪仙だが、俺は別に愚弄しているつもりは無い。北嶋は全力で愚弄しているだろうけど。

「まぁいいさ。最後のスペシャルサービスだ。貴様の最強の業を見せてみろ。それを越えて貴様を倒す」

「こ…この糞餓鬼が!この私に情けをかけるか!!」

「いや、違う。この極東の島国で余生を終える、貴様の墓標代わりだ」

 言い終えた後、ここまで血管の切れる音が聞こえて来そうだった。そこまで邪仙は俺に怒りと憎悪を向けていた。

「くふふ!ふふははは!!そうか!そうかそうか!!ならばお言葉に甘えようか!!」

 言って懐から大量の符を取り出し、宙ひ舞わせる。落下し、地面に触れた途端、符が燃え上がり、煙が邪仙の身体に絡み付いた。

「墓標代わりか!成程そうだな!私はこれで完全に人間を辞める事になるのだから!!」

 煙の中、瞳の光だけが赤く揺らぐ。

「つか仙人って既に人間じゃないんだろが」

「黙れ糞野郎!!こうなれば最早貴様も只では済まさん!!雲行も!周も!立慧も!貴様の伴侶も!全て殺す!!」

 煙の向こう、邪仙が巨大化していくのが解った。羽根のシルエットも確認できた。

「殺す!殺す殺す殺す殺すころすころすころすころすころすコロスコロスコロスコロス!!コロシテヤル―――!!

 煙が晴れた後、その場に居たのは、黒い身体の巨大な体躯の龍。大陸の龍の姿に黒き蝙蝠のような翼。邪仙は昇華して龍となったのか。

「これで心置きなく殺せる」

 人間の姿の儘では流石に抵抗があったが、今は邪悪な龍の姿。俺の迷いは完全に晴れた。

 禍々しい息を吐き、憎悪の眼を俺に向ける邪仙。いや、邪龍。

――陳が龍に……

 老子が絶望感を露わにしてへたり込むも、他の人間は平然としている。成程、張り子の虎だと言う事に気付いていない訳か。

 俺は呆れながら溜め息を付いた。

「すまないが…印南、と言ったか?…」

「ああ、解っている、お前の師だしな」

 劉 雲行は老子にとやかく言わないでくれ。との申し出を暗に出し、俺はそれを受けた。

「じゃあ、ここからは瞬殺だ」

 俺は祝詞を唱える。透明な人の形のような物が俺の身体に纏った。

――貴様!その仙気は!?

「大陸じゃ仙気と言うのか。日本じゃ神気と言うがな。神降ろし、経津主神ふつぬしのかみ!!」

 俺の守護神、経津主神をその身に降ろして藤蔓を舞わせた。

「そして建御名方神たけみなかのかみの神風!!」

 攻防一体の建御名方神の神風に乗り・・、俺は邪龍に向かって飛び込んだ。。

―――おおおおおおおおおおおおおおおおお!!

 吼えるだけで何も反応出来ない。それ程の超スピードで邪龍の懐に飛び込んだのだ。

 そして手刀を一閃する。

 俺はそのまま通り過ぎた。

――は、ははは!何だ今のは?手刀の間合いに入ってい……

 邪龍は最後まで言わず、胴が真っ二つに斬れて血柱を立ち昇らせた。

 俺は振り返り、血に濡れた右手刀を見せた。

「霊剣、布都御霊ふつのみたまだ。俺の手刀では確かに間合いに届かないが、布都御魂の間合いなら丁度良かったんだよ」

 教えたが反応が無い。

 鈍い音を立てて胴が地面に滑り落ちた。

 目を見開いた儘、ぴくりとも動かなくなった邪龍に告げた。

「訳も解らず死んだか。それもいいさ。貴様等が人間相手にやっていた事と同じだしな」

 儀式や呪術で訳も解らず死んでいった被害者達同様に。

 俺は最後に布都御魂を一振りして血を払い、神降ろしを解いた。

 邪龍の魂魄を斬り捨てたのだ。仙人は不老不死だと言う通説は、最早何の意味を成していなかった。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


――し、瞬殺…邪龍と化した陳を瞬殺だと……

 陳の力を知っている老子は、ただただ打ち振るえ、慄くのみ。

 無理も無い。俺も北嶋に会うまでは、恐らくは老子と同じ反応をしただろう。

 だが、奴を知り、奴が認めた人間ならば、あれ位ならできると、自然に感じていた。

「老子…あれが北嶋の仲間なんですよ」

 勝手に出た言葉。それは裏も表も無い、単なる信なる言葉。

 俺もあれ位はやれる。震与と、蚩尤と対峙する前は絶対にそんな事は思わなかったし、思えなかった。

 一度負けた弟に対する刷り込み。師である老子を殺した弟に対する刷り込み。そして伝説伝承のみで識っている悪神に対する刷り込み。

 そんな刷り込みを身体も魂も捕らわれて、俺は最初から勝つ気持ちが無かったに等しい。

 だが今は単純に思う。あの清々しい程馬鹿馬鹿しい男に少しでも近付きたいと。

 そして、そんな男が目標ならば、邪仙悪神などに捕らわれている暇など無いと、素直に、単純に思う。

 刑事は此方に歩いて来る。少しも疲労を見せずに。そして俺達と北嶋同時に目に映る範囲で立ち止まった。

「終わったぞ北嶋」

「ご苦労。つかダラダラやり過ぎだろ」

「少しは誉めても罰は当たらないと思うぜ」

 言いながら肩を竦める。その拍子に俺と目が合った。

「流石だ……印南 洵」

「……俺はやはり友人を選ぶべきだったっっっ!!」

 がっくりと項垂れて膝を付く印南。

「まぁいいや。終わったんならタマの用事を終わらすか。おい神崎、俺達が帰るまでに空間を元に戻しとけ」

「偉そうに……」

 不服ながらも笑う神崎さん。

 そして老子を殺気を以て睨み付けた。

「おいヒゲジジィ…俺が帰って来るまでに失せろ。じゃねーと今度は本当にもう一度ぶっ殺すぞ」

――いや、し、しかし儂にも礼を言わせてくれ……

「いるかヒゲジジィ!てめーの為にやった事なんか一つもねーんだヒゲジジィ‼ツラ見るのも不愉快だから失せろって言ってんだよ!!」

 本当に嫌っているな。かなり悲しい事だが、これも北嶋。

 老子も黙って頷いた。何を言っても許される事は無い。老子も、俺達も、場に居る全ての者がそう理解した。

「タマ、白狗、こっち来い」

 自分の傍に呼び、日本刀を何も無い空間に一閃。

 空間が斬れ、その向こう側に医療機器が見えた。

――いよいよか。長かったな

「時系列的にはまだ二日程度しか経って無いけどな」

 その発言は色々拙いだろ。

 と、突っ込んでいる場合じゃない。

「北嶋!桃源郷の札の効果は?陳が死んだと言う事は、一応邪仙との戦いも決着したんだろ?」

「ああ、そっか。ちょっと待て」

 言って再び何も無い空間に斬りつける。

 開いた先は…薄暗い部屋?

 そして北嶋はその空間の向こう側に腕を突っ込んだ。

「おい、ちょっと出て来い。おいってば!」

 そう言って無理やり引き擦り出す。

「「「!!」」」

 我々道士は引き擦り出された人物を見て構えた。

「……遠見で見ていた邪仙の仲間か」

 引き擦り出されたのは黄 海峰!!北嶋に襟首を掴まれた儘、苦笑いを浮かべていた!!

「海峰!貴様退いた筈じゃなかったのか!!」

 腰に下げている双剣に手を掛ける俺。

「いやいやいやいや雲行さん、早まらないで下さい!僕は単なる興味で視ていただけですから!!」

 細い目を見開いて(と言っても解らない程細かったが)慌てて言い訳をする。

「陳が倒されるのを黙って見てたのカ?アナタは陳の一番の配下な筈ジャ?」

「いやぁ~…陳 大人の敗北は決定してましたからねぇ。僕は僕の考えで動いているだけですんで。陳 大人の近くは僕にとって色々と便利だっただけですよ」

――貴様!始めから陳に従っていた訳では無いと言うのか!!

「ええ。僕は泰山にも、当然あなたにも従っている訳じゃありませんからご安心を。周 老子」

「ヒゲジジィなんかと話すな糸目。お前に用事があるのは俺なんだよっ」

 言いながら海峰の頭を小突く北嶋。

「痛いっ!わ、解りましたよ。でもまさか、視ているのはバレているとは思っていたんですが、引っ張り出されるまでは予測出来ませんでしたよ」

 小突かれた頭をさすり、愛想笑いを北嶋に向けて続ける。

「で、用事は桃源郷に入れずにウロウロしている陳 大人の配下達に、撤退命令を出す事ですか?」

「と、桃源郷を襲っている陳の仲間を退かせる?アナタにそれが可能なノ!?」

 確かに、海峰は確かに陳に可愛がられてはいたが、他の邪仙にそれ程の影響力があった訳では無い。そんな海峰が退かせられると言うのか?

「解っているんなら話は早い。お前を色々と見逃して・・・・・・・やってんだ。それ位やって貰うぞ」

敵の僕・・・と当然のように取引するんですねぇ。いや取引じゃない、命令ですか」

 困った表情を浮かべながら頭を掻き、頷く。

「勿論やりますよ。手段は選びませんけど」

「手段なんか知るか糸目。だが取引成立だな」

 言って元の空間に押し戻す北嶋。

「ちょ!全く身勝手な人ですねぇ」

「俺は忙しいんだよ。敵の事情なんか考えている暇は無い」

「はぁ~っ…まぁいいですけど…僕もそろそろ頃合いだと思っていましたからね。ついでです」

 言いながら、海峰は北嶋が斬り開いた空間の向こう側に消えた。

 そしてその直後、 斬り裂いた空間も消えて、元の何もない空間に戻った。

 約束はしたが、やはり不安だ、立慧も同じく感じているようで、たまらず北嶋に問うた。

「き、北嶋サン、海峰は本当に陳の配下を退かせられるノ?」

「あー。これは俺との取引云々っつーよりも、奴の事情だけどな」

 だから安心しろと、最初に斬り開いた空間に脚を入れる。

「じ、事情ってナニ?」

「奴の目的は達成したって事だ。だからちょび髭の手下は邪魔だっつー事だ。この先頼られても困るし、雑魚を仲間にしても意味無いからな」

 言って奥に引っ込んで行く。

――貴様等が邪仙を敵の儘だと思い続けているのならば、気に病む事は無い。勇にとっては知った事じゃないからどうでもいい・・・・・・・・・・・・・・・・と言う事だ

 仕えて長い九尾狐は何か気付いたようだが、俺にはさっぱりだった。

――では参りましょうか九尾狐。其方の友を救う為に、その為に此程の大掛かりな事を、私の王はやったのですから

 一つ頷き、北嶋の後を追う九尾狐。それに続く治癒神。

 残された俺達は訳も解らず立ち竦んだ。

 だが、伴侶の神崎さんと友人の印南は、複雑な表情をしていた。

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