(6)

 その思いをちょっとでも伝えたくて、私は少し緊張しながら、口を開いた。

「私の……」

「うん?」

 津麦社長は続きを促すように、首を傾げた。


「私の父は、ピアニストだったんです。でも、三十半ばで亡くなりました。心不全で、突然。それこそ、悪魔に連れて行かれてしまったみたいに」


 父は音大を出た後、音楽とは関係のない仕事をしていた。母と職場結婚して、私が生まれた。仕事は順調だったけれど、ピアニストになる夢を捨てきれず、年齢制限ギリギリでコンクールに応募した。結果は見事優勝。サラリーマンからの華麗な転身も注目を集め、一躍有名になった。国内だけでなく世界を巡って、演奏した。当時小学校五年生だった私も、どういう裏技を使ったのか、半年間、学校を休んで父について回った。有名オーケストラに招かれて演奏する父を、私は舞台の袖や客席から見ていた。


 そして日本に戻ってから数日後。糸が切れたように、父は亡くなった。


「父の成功は、神がかっていました。でも今にして思えば、神ではなく悪魔と取引をしたのかもしれません。だから、社長のおっしゃることも、わかる気がするんです」

 この話を誰かにしたのは、初めてだった。恐る恐る津麦社長の顔を窺うと、彼はにっこりして言った。


「お父上は、野分律史のりふみさんだね。僕はクラシックには疎いけど、彼の演奏は聴いたことがある。聴く者を圧倒するような、そう、確かに何かに憑りつかれたような異次元の迫力があったのを覚えているよ。……うん、やっぱり君にはぜひ、彼らのマネージャーになってほしいな」


 津麦社長は、雇用契約書を私の前に置いた。

「これにサインをしたら、アルモニカの三人に会いに行こう」

「えっ、今日これからですか?」

「ここから三分くらい歩いたところにスタジオがあってね、今日は三人ともそこにいるんだ」


 心の準備が、と焦る私を、津麦社長は笑い飛ばした。

「大丈夫だって、癖は強いけど悪い子たちじゃないから!」

「癖は強いんですね……」


 本当に大丈夫だろうか。好きなアーティストと直接話すだけでも緊張するのに、今後マネージャーとしてやっていくなら、ちゃんとコミュニケーションをとれないといけない。


「さあ、どうする? サインさえすれば、全部君のものになるんだけどなあ」

 津麦社長は給与の金額をちょうど目の前にひらひらさせ、さらにどこから取り出したのかアルモニカのロゴが入ったスタッフTシャツもひらひらさせていた。これはもう、断る理由はない。いや、採用してもらえると聞いた時から、もう決めていたことだ。


「ふ、ふつつかものですが、よろしくお願いします」

 私はまだ夢の中にいるような気分で、ペンをとった。

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