裏通りにて

日暮

裏通りにて

 男は裏通りにいた。

 その場所の汚さといったら、まるでこの世の全てのゴミと汚物とクズのような人間を突っ込む掃き溜めのような有様だった。

 そんな裏通りに男はいた。最も、男がそこから出ていくことは滅多にないのだが。

 男はぬかるみだらけの地面に座り込み、すっかり短くなったタバコに口をつけると、少しだけ吸い込んでゆっくり煙を吐き出した。

 このタバコが手持ちのタバコ最後の一本であり、なるべく長持ちさせることだけが今日の男の仕事だった。いつものタダ働き同然の日雇いの仕事もその日はなかった。

 そんな男の元に、少女は現れた。

「あなたもここの住人ですよね。早くここから出た方がいいですよ」

 その少女の出で立ちは無垢で汚れを知らない天使のようで、この裏通りにはまるで似つかわしくなかった。

 それを不思議に思うくらいにはまだ男の好奇心は失われていなかった。

「お嬢ちゃん、それはそっちの方じゃないのか?あんたみたいな子にはここはふさわしくないよ。何だってこんなドブみたいな場所に来た?」

「ここの方々に警告して回ってるんです。この街はもうすぐ大規模な嵐が来ることが予想されています」

「初耳だな」

「政府は………この辺り一帯の方々には避難勧告をしていないみたいなんです」

「俺たちは見捨てられたってわけか。正しい判断だ。ここらは元々神にも見捨てられた区画だからな」

「いえ、いえ」

 少女は首を振り、しゃがんで座り込むと男と目線を合わせた。

「神様が見捨てるなんてありえません。神様は全ての人間を愛しておられます」

 男は、思いの外面倒なお嬢さんだな、と心中でぼやいた。

「嬢ちゃん、そいつは同意しかねるぜ。俺を見ろよ。俺みたいなおっさんもやつに見捨てられてないって言えるのかい?」

「そうです。今、こうして生きていらっしゃる。何があろうとも、今、この瞬間に生きておられるじゃないですか。生きる限り希望はある。現に、こうして私に出会い、身に迫る危険を知ることができた。逃げましょう」

「逃げやしねえよ」

「………なぜですか?その、このような、生活のご様子、ではお住まいの所も頑丈だとは思えません。死んでしまいますよ」

「別にいいさ。嬢ちゃん、ここにいる奴らがそれを恐れると思うか?どうだ、他の奴らにも言って回ってるみてえだが、逃げようとしたのは一人もいなかった。当たりだろ?」

「………………」

「そうみてえだな。ここにいる奴らはな、もうとっくに生きてねえんだよ。この通りは地獄の辺獄のさしずめ現世圏ってとこだ。嵐?それがどうした。俺だってそうだ。人生なんてとうに捨ててる。死ぬのも怖くねえ」

 男はそう言いながら、ふと脳裏をかすめた我が身の回想に苦笑をこぼした。

 男の人生は世間からはクズと罵られるような代物だった。ギャンブルにはまり、山のごとくの借金を抱え、ついには妻子ごとそれらを捨てて逃げてきた。行き着いた先がここだった。

 だから無垢な少女の呼びかけにも何も心動かされなかった。

 だが。

 少女が突然ぽろぽろと涙をこぼし始めたのには顔をしかめた。

「おい、何だよ」

「いえ………いえ。とてもお辛い日々を過ごしてきたのですね………」

 涙をハンカチで拭う少女に、男は段々苛立たしくなってきた。

「もういいから。わかっただろ。消えな。あんただけでも逃げなよ」

「そういう訳にはいきません。あなただけでも、救われて欲しい。どうか一緒に行きましょう」

「俺の話聞いてたか?」

「はい」

 少女は、真っ直ぐに男の目を見つめていた。男の方が目を逸らしたくなるほどに。

「その上で、一緒に逃げたいのです」

 男の苛立ちはいよいよ頂点に達しようとしていた。こんなふわふわしたお嬢様が未だに自分みたいな男に固執しているのが信じられなかった。

 いっそその純真さにつけ込んで利用してやろうかという下衆な下心も湧き上がった。こんな環境で過ごす男にはもう長いこと女との情事に縁がなかった。無垢な少女に欲望をぶつけることに罪悪感もあったが、その無垢さへの苛立ちがほの暗い情欲をより駆り立てたのも事実だった。

 男が考え込んでいると、少女は男の瞳を覗き込みながら「………不思議と、あなたとは一目合った時から他人という気がしなかったのです」と語りかけてきた。

「それに、ここまで真摯に私に取り合ってくれたのもあなたが初めてです。私は………せめてあなただけでも救いたいです」

 男は距離が縮まった少女の顎を掴むと、「なら、うちへ来て楽しませてくれよ」と言い放つと少女の反応を窺った。

 少女は動揺し、視線をあちこちに彷徨わせた。

「う………それは、つまり、そういうこと、ですよね………?………いえ、しかし、それは………」

「人を本気で救いたきゃな、それぐらいの覚悟はいるぞ。あんたにはそれがあるのか?」

「でも………」

「もしあんたがそうしてくれるなら、俺も一緒に逃げてやるよ」

 少女はその言葉に俯き、細かく震えながらもなお考えていた。男からは見えなかったが、この時、少女の瞳は虚ろで、大きく見開かれ、何も目に入っていなかった。

 ただ、この先に待ち受ける選択と試練のみを見つめていた。

「………わかりました」

 やがて顔を上げた少女は、やはり、男がたじろぐほど真っ直ぐに男の視線を受け止めた。

「そしたら、今度こそ………私と一緒に逃げてくれるのですね」

 男にはこの少女が不可解で、不気味ですらあった。が、利用できるならする。

 男はそうやって生きてきた。

 

 次の日。

 朝から曇天が広がり、湿り気を帯びた生温い空気が肌にまとわりつくような、憂鬱な日だった。

 男もまた、この日の空模様のように———いや、それ以上に暗鬱たる心持ちでいた。

 自らの家、といっても拾ってきたダンボールや木材で建てた物置のような代物だったが、ともかく、家に少女を招いた後、結局、何も手出しをせずに朝を迎えたのだ。

 少女は、疲れているのだろう。ダンボールの上でもすやすやと安らかな寝息を立てつつ眠りこけていた。呑気なもんだな、と男は心の中で呟いた。

 男はなぜ少女に手を出さなかったのだろう。損をする理由はどこにもない。

 それは一つには、ここまで献身する少女の姿に不審さを覚えたからであり、もう一つには、クズにもクズなりのプライドというものがあったからだった。

 例えここまで堕ちたとしても、見ず知らずの純粋そうな少女につけ込んで貞操を奪うなんて、『ダサイ』と男は思ったのだ。

 それは人によっては理解できない類のプライドだろう。すでに妻子に借金を押し付けて今はホームレス同様の生活をしているのだから。

 しかし、人間の信念とは往々にして不可解なものであり、あくまで程度の差でしかないものなのだ。

 男は少女の懐を慎重にさぐり、財布を掴み出すと、数枚のお札を引き抜いた。男からすると、これぐらい、世間を知る授業料としては安いものだ。

 これを持ってトンズラしよう。そう思い、再び少女の懐に財布を戻そうとした時———。

 一枚の写真がひらりと舞い落ちた。少女が懐に大事にしまっていたようだった。

 取り上げると、少女の面影のある幼児が二組の男女と共に笑顔で写っていた。

 男は、衝撃を受けた。

 幼児を抱く笑顔の男と女。

 男の方は、若き頃の自分自身そのものだったのだから。

 少女が目を覚ます。まだ寝起きのあどけない顔には、確かに、記憶に引っ掛かる面影が———。

 男は、素早く踵を返すと扉から家を出て行こうとした。

 しかし、少女が意外なほどの俊敏さで一歩先んじた。

「待ってください!」

 少女は男に飛びつき、必死にすがりつく。男はもがくが、なかなか離せない。もみ合う内に、少女が体当たりするようにぶつかり二人は体勢を崩す。そのまま、少女が男を押し倒す形になった。

「どこへ———どこへ行くんですか!」

 少女は床に散らばるお札の中に、自分の写真を見つけ、それで全てを悟った。

 少女は顔を歪め、震える声で呟いた。

「お父、さん………」

 男は、何も言えなかった。

 やがて、微かに震える手を伸ばし、壊れ物を確かめるかのように少女の頬に触れた。

「本当に、俺の娘なのか………?」

「はい………私の、名前には聞き覚えはありませんか?」

 そして少女は一つの名前を名乗った。ああ———何という事だろうか!それは確かに、かつて男が愛した女の性であり、二人で名付けた娘の名前だった。何十年経とうとも、不思議と忘れた事は無かった。

「そんな………」

 男は天を仰ぎ、腕で目を覆い隠す。しかし、次の瞬間、起き上がると、少女の肩を掴み、少女がどうかなってしまいそうなほど揺さぶりながら叫ぶ。

「なら………何で!何であんな事を!何で家に着いてきた!!気付いてたんだろう!?」

「………っ!」

「俺が———もし本当にお前に手を出してたら!どうするつもりだったんだ!」

「だって………だって!そうじゃなきゃ、お父さんは、また、いなくなっちゃうじゃない!」

「な………何だよそれ!お前は神を信じてるんだろ!どうして、そんな罪を犯そうとしたんだ!」

「だからだよ!だから、お父さんと一緒に、罪を犯そうとしたの!そうすれば、共犯者になれば、もう勝手にいなくならないでしょ!?」

 男はあまりの衝撃に、息をするのさえ忘れた。

 それは狂気だった。それは激情だった。

「うう…ぐすっ。ひくっ………。む、昔お父さんは、私達を置いて出て行っちゃったよね………。溺れるように賭け事にはまって、私やお母さんが何を言っても、何をしても、どれだけ引き留めようとしても無駄で………。最後には、突然いなくなって………」

「………」

「だ、だから………もっと、もっともっともっと強くお父さんを引き留めなきゃって………わ、わかってるよ。お父さんが本当は優しい人だって。だから、私の話も聞こうとしてくれたもんね。だから………」

「………」

「———だから、もしもこんな罪を犯した事に気付けば、娘にもさせた事に気付けば、きっと今度こそ見捨てずにいてくれるって………。お母さん、も、先月、し、死んじゃったし、私一人だけでどうしたらいいの………」

「………………」

「一緒にいて、お父さん」

 ぼろぼろと涙を流しながら、みっともなくしゃくり上げながら、少女は切れ切れに語った。纏う無垢な空気からは想像もつかない思惑だった。

 男は何を思っただろう。

 男は、

 男、は。

 

 ———ああ、美しいな

 

 美しかった。目の前の娘は、何と美しいのだろう。自分の血を受け継いでいるとは到底思えないほどに。

 天使だった。まさに、地上に舞い降りた天使だった。

 窓から覗く曇天に、一筋の光が差し込んだ。

 分かっている。これは異常だ。大罪だ。もしも本当に体を重ねていたらと思うと、ぞっとする。そんな事を企む娘は、父親に捨てられて最後には孤独になってしまった寂しさのあまり狂気へと足を踏み入れたとしか思えない。ここまでしようとするなど、正常じゃない。

 でも、男にはまた別の事も分かってしまった。

 世の中には救いようもないクズがいる。男のような人間がそうだ。彼女の言う通り、こんな事が無かったら、また娘から離れていただろう。

 我が子と向き合うなど、男には出来ないし、出来なかったのだから。

 そんな男を、今まで出会った誰もが叱った。呆れた。矯正せんとした。

 罪を共に背負おうとしたのは、この少女、ただ一人だけだった。例え異常であっても。ただの依存であっても。

 男には、その事がどうしようもなく眩しく感じ得てしまった。

 人は、常に清くはあれない。罪を背負って生まれ、罪と共に死んでゆく。

 しかし、それでもこの世に生まれ落ちた瞬間から、生きてゆく。

 いずれ死す時が訪れると分かっていても。罪に塗れていても。

 生きている。今この瞬間、生きる事を許されている。

 それは万物を愛す神の為せる御業だろうか?

「………おい、もう、泣き止めよ」

「………っ、だって………」

「分かったよ。お前に着いていく。ここから逃げよう」

 男はそう言うと膝頭の埃を払いながら立った。

 少女は呆けていたが、目の端に残る涙を拭いながら「………本当?」と訊ねた。

「ああ。ただし」

 男は屈んで目線を合わせると、少女の肩を掴み、強引に自分を向かせた。

「もう二度とこんな事するな」

「…うん。ごめんなさい………」

「俺だけじゃない。他の男に言われてもだぞ。絶対に着いてくなよ。本当に分かったか?」

「はい………」

 少女と男は二人がかりで荷物を手早くまとめると、男の住処を出た。細かい雨粒が頬を叩く。嵐は、もう、すぐそこまで迫っている。急がなければならない。

「俺と一緒に暮らしても幸せにはなれないぞ」

「うん………でも」

 少女は祈るように目を伏せた。

「———こうしてまた再会できた。もう私達、独りじゃない。きっと神様のおかげだわ。これからは、精一杯、父娘二人で慎ましくも平穏な日々を暮らせるように、頑張る。それが私に出来る神様へのご恩返しと奉仕だわ」

 二人は、嵐の手の届かない方へと、遠くを目指して踏み出した。命ある者全てのように。

 

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裏通りにて 日暮 @higure_012

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