第52話 思い出を砕いたとき─④

「ミルクアイスです」

 真っ白な丸いアイスにミントが添えられている。

「トラウマを克服する方法をお教えします。『突き抜けた優しさを持つ人から、いっさい手加減のない愛を無謀に押しつけられたとき』です。本田様の母君の話で、あなたがなぜアイスクリームを食べられないのか理解しました」

「フィンリーさん……俺…………」

「いいから食え」

 スプーンを押しつけられた。痛いほど伝わる、愛情の証。

 乗り越えられなければ、束縛から解き放たれないと察した。

 小刻みに震える手でスプーンを握り、呪縛の塊をすくう。

 ここで勇気を出さなければ、絶対に後悔する。

 ミルクアイスは口の中であっという間に溶けた。二度三度繰り返して口に運ぶ。

「呪いは儚いものです。ハルカは一歩踏み出しました。とても大きな一歩です」

「こんなにあっさりとけるもんなんだ……」

「勇気を出せたあなたに祝福を。もし、ハルカの望む答えが返ってこなかったとしても、何度でも繰り返しましょう。私は背中を押しますし、前に出て腕を引っ張ります」

「こう、背中に頭をぐりぐりして甘えさせてほしいって言ったら、逃げますか?」

 フィンリーは席を立った。寂しい横の席へ座ると、彼もまたアイスクリームを口にする。

 彼の前で散々泣いてきたが、お腹いっぱいだと言われても止まらなかった。

「世の中の人間すべてが敵に回っても、私はハルカ味方です。いえ、少なくとも、私とあなたの父君はハルカの味方です」




 花火大会の翌日は大雨が降った。この季節には珍しく、空が大粒の涙を流しているようだった。代わりに泣いてくれているようで、墓掃除はしなくていいと言われていた。

 さらに次の日になると、昨日の天気は嘘のようでからからに晴れた。家を出てやるべきことをやれと、痛い日差しに背中を押された。

「じいちゃん、答えを出すよ。見守っていてほしい」

 仏壇に手を合わせると、自然と頭が下がった。

「出かけるのか?」

「愛加のところへ行ってくる」

 ハルカの目は覚悟を決めていた。そんな息子の姿を見て、父は大きく頷いた。

 連日鳴かなかった蝉は大いに鳴き、路上に立つ木にしがみついている。

 愛加の家のインターホンを押した。はい、と愛加が出る。いつの間にか母親の声そっくりになっていて、優しい最期の笑顔が蘇った。

「英田ハルカです」

『今、そっちに行く』

 愛加は珍しくワンピース姿だった。

「化粧してるけど、どこか行く予定だった?」

「……化粧くらいするわよ」

「そう? 公民館に行かないか?」

 愛加は黙ってついてくる。そういえばと、ふと思い出した。愛加の着ているワンピースは向日葵で、子供の頃も着ていた。

「皆、私から離れていく」

 公民館の前で、愛加は止まった。

「どうして私の大切な人はいなくなるの? 求めれば求めただけ、消えていく」

「愛加、」

「あなたも……消えるんでしょ」

 息が止まった。

 フィンリーが話していた嘘のような事実を突きつけられた。

 気づかなかったのは本人だけで、人の想いを感じ取る鈍さを痛感する。

 公民館は、愛加と一緒に遊んだ思い出の場所だ。

 ベンチに座り、愛加の隣に座る。

「どんな手を使っても、繋ぎ止めたかった。ねえ、昔は私のこと、好きだった?」

「好きだったよ。友達として、大切だった」

 愛加の肩が震えている。抱きしめも、支えもしなかった。

「あの人のこと……好きなの?」

「──……離れたくない、側にいたいって思うよ」

 質問には答えなかった。一番に伝える相手は、彼女ではない。

「生まれたときから一緒で、誕生日も近くて年も同じで。でも、生まれた瞬間から俺たちは別々の道へ歩んでいる。交わることはない。地球の反対側にいて国籍が違ったとしても、交わる人生もある。愛加と一緒にいて、楽しい思い出も間違いなくある。それも俺の一部だから」

 愛加の言葉、姿、笑顔。すべてが呪いに変わっていた。

 側にいればいるほど苦しくて、悲しい。彼女もずっと苦しんでいる。だから何を言われても、苦しみは味わわなければならないものだと思い込んでいた。

「この先、絶対に交わることはない?」

「うん。それは断言できる」

「……どうしたら伝わるんだろう。愛情って。私の名前、お母さんがつけてくれたの。ひどい名前。全然名前の通りに育ってない。アンタからも奪ってばかりで。本当はね、八つ当たりしてもお母さんは帰ってこないって判ってるの。アンタの気持ちも離れていくことも。もう……解放するわ」

 愛加の頬に光るものが映ったが、ハルカは知らないふりをした。

「外国でもどこでもいけば? 好きに生きたらいいのよ!」

 愛加は立ち上がると、鞄をひっつかんで外へ行ってしまった。

 どっと汗が吹き出す。終わりの始まりは突然で、けれど長い道のりは簡単なものではなかった。

 しばらくエアコンの風に当たり、ハルカは外の自動販売機にある棒アイスを購入した。

 アイスクリームを食べながら、端末を開いて一つのアルバイトと決別した。




 岐路に就くと、愛加の父が玄関の掃除をしていた。

「愛加と話したかい?」

 見透かされているような感覚になり、声が出なかった。代わりに頷き、肯定した。

「号泣しながら帰ってきたよ」

「愛加の気持ちは知っていたんですか」

「そうだね。これでも親だから。君は愛加を選ばなかった。仕方ない。恋愛がうまくいくことなんてそうそうない。愛加のことは気にしないでいい。いずれ整理をつけられる。いやでもつけてもらわないと困るからね」

 ハルカは深々と頭を下げた。妻のことは気にしなくていい──彼はそう言わなかった。心の最奥に眠る感情は、逃がさないと言っているようだった。

 贖罪の方法はいくら探しても見つからない。フィンリーの言うように、墓掃除をしても死んだ人間は帰ってこないし、呪いの螺旋に繋がれるだけだった。

 家へ帰ると、父は仏壇に手を合わせていた。

 邪魔しないようにそっと斜め後ろに座り、終わるのを待った。

 父が顔を上げて振り返る。今日会った人の中で、一番穏やかな顔をしていた。

「終わったよ。愛加と話してきた。好きに生きたらいいって泣かれた」

「ハルカ、もう何も縛られるな」

「大学卒業後なんだけど、外国に行くよ。フィンリーさんの師匠さんのところで、アンティークについて学ぶ」

「縛られるなとは言ったが、想像の斜め上をいきすぎだ。……お前の好きに生きろ。それと実家はここだ。いつでも帰ってこい」

「ありがとう。父さんとじいちゃんの子で良かった」

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