第26話 眠り繋がれた琥珀の愛─⑥

 店を開くのは明日からだが、すでに店がミニチュア版のペシュールが整っている。

「手伝えず申し訳ございません!」

「昨日であらかた終わっておりましたので、お気になさらず。それより商談とは一体なんの話ですか」

 フィンリーは腕を組み、厳めしい表情だ。

 嘘を交えるわけにもいかず、話せる範囲で話した。日本語が上手に扱える人を探していたと。

「とりあえず、事情は把握しました。ただ、うちの従業員を無償でこき使ったのは許し難い」

「パスタを奢ってもらいましたよ」

「たったそれだけで? あなたは労働をみくびっている」

「いやいやいや……いろんな経験をさせてもらいましたし」

「日本人の中でも、あなたは人が良すぎる。長所になり得ないときもあると、肝に免じておきなさい」

「ははー」

 お代官様、と土下座をするふりをすると「苦しゅうない」と返ってきた。

「さて、あなたに見せたいものがあります」

 鍵つきのケースの中から取り出したのは、デザインが昔風のジュエリーだ。

「赤い石だ。これも琥珀ですか?」

「正解です。バルト海で見つかったシーアンバーのネックレスです」

 くすんだ赤の琥珀だ。真ん中に大きな赤、上にいくほど小さな琥珀だが、どれもまったく同じ色である。

「琥珀のネックレスはいくつか見たことがありますけど、ここまで全部揃った色は初めてです。一九世紀にフランスの職人が作ったものです。同じものはまたとありません。琥珀よりダイヤモンドのジュエリーを主に製作していた職人で、琥珀のジュエリーを作るのはとても珍しいのです。希少価値も上がります」

「値段はいくらくらいですか?」

 フィンリーはハルカの耳元で囁いた。

 いろんな意味で身体が震え上がる。手にしたことのない札の束を想像した。

「あの……売れます?」

「ご予約済みです」

「うわあ……はあ!」

「琥珀コレクターで、珍しいものをお求めになられます。琥珀に関して素晴らしい目利きのある方でして、私も気合いが入ります」

 やりづらいだろうと思うのはアルバイトの視点からで、店主のフィンリーは嬉しそうだ。

「こちらはお世話になっているジュエリーデザイナーが作って下さった商品になります。人魚姫をテーマにした、アクセサリーですね」

「住む世界が違う人と恋愛するのって、難しいのかな」

 フィンリーはアクセサリーから顔を上げた。

「姫と人間の話ですか?」

「それも含めての話です」

「たとえ話ですが、種族が異なるカニとオラウータンが恋愛をするとなると困難な道を歩むことになるでしょう。人間同士でも、恋愛がうまくいかない要因の一つとしてあげられますね。もしあなたならどうしますか? 住む世界の異なる人間を好きになったとして」

「全力で相手の領域に入り込みます。好きだから解放するって選択肢は、とても難しいかもしれない。もちろん全力で抗います。いや交際経験ゼロの俺が言うと夢見すぎなんだろうけど!」

「あなたに好きになってもらえる方は幸せ者ですね。美味しいお菓子が食べられるし」

「そこですか」

「ブリティッシュ・ジョークです」

 ひと通り明日の流れの打ち合わせをして、久慈市で出会ったスタッフに挨拶へ行った。大阪へ来るのは初めてらしく、電車の多さに驚いたらしい。

 何かあったらお互いに助け合いましょう、と一種の協定を結び、この日はホテルで過ごした。


 フィンリーの接客スキルはここでも発揮された。

 普段見ることのない人種は人目を引き、かつあの容貌だ。美術館から抜け出した彫刻のような男に微笑まれると、自然と足も止まる。

 例の赤いシーアンバーのネックレスを買いに来た人がいた。フィンリーと親しく話している。隙をみて元気良く挨拶をすると、大笑いされてしまった。

「君のような明るい人がいると、商品も実に見やすい。フィンリーさんは他のお客様によく緊張すると言われているようなので」

「ええ、私も彼の明るさには助けられています」

「ではまた来ます」

「本日はまことにありがとうございました。いってらっしゃいませ」

 売れた。あのとんでもない額のシーアンバーが。

 彼の左腕には琥珀を盛り込んだ腕時計があった。ダイヤモンドが埋め込まれている腕時計はあるが、琥珀は珍しい。特注で作られたものだろう。

「……ちょっと琥珀が怖くなりました」

「大丈夫、慣れます。お茶を」

「かしこまりました」

 ハルカにできることといえばお茶くみだ。

 それから代わる代わる知り合いと思わしき人がやってきて、フィンリーは名前を呼び対応にあたる。半数以上は購入目的ではないが、関係なく対応は丁重だ。

「珍しい店名ですね」

 通りすがりの女性はプレートに振れ、不意打ちを食らったかのような声を出した。

「店主さんは釣りでもなさるの?」

「釣り?」

「『pécheur』って確か、釣り人って意味じゃないかしら」

「ああ、それは『pêcheur』ですね。同じ読み方でも、アクサンが違うんですよ。ほら、ここです」

 ハルカは『e』を指差しながら、

「読み方も同じなんですよね。店名は罪人って意味になります」

「あらやだ、ほんとだわ。昔ちょっとかじったことがあるからって、つい気になっちゃったのよ。にしても大層なお名前をつけたのね」

「なぜこの店名なのか、俺も聞いたことがないんですよ」

「うふふ。ハンサムな店主さんに聞いてみたらいいわ。それじゃあね」

「はい、またお越し下さい」

 女性を送り出して振り返ると、フィンリーはこちらをじっと見つめていた。

 フィンリーは軽く息を吐いて、

「ハルカ、所用のため少々席を外します。三十分後に」

「わかりました。気をつけていってらっしゃい」

 フィンリーは立ち止まり、一度こちらを振り返った。だが何も言わず、店を出ていってしまった。

「どうしたんだろ……」

 フィンリーとすれ違いに、男性が入ってきた。

『こんにちは』

 日本語ではない、異国の言葉だ。

『こんにちは。すみませんが、今、店主は店を出ていて……』

『君に声をかけて正解だった。商談で通訳をしていただろう。店主ではなく、君に用があるんだよ』

『なんでしょうか』

『彼、どこの国の人?』

『店主ですか? あなたの素性が判らないので、プライベートな質問には答えません』

『フランスだったりする?』

『フランス?』

 聞いたことがない。彼はイギリス出身だ。

 男性はいきなり腹を抱えて笑い始めた。何がおかしい、とハルカは彼を睨んだ。初対面で名前も出身も知らなくても、判ることはある。彼は敵だ。本能がそう告げている。

『どうも探していた人に似ていたものでね。そうかそうか。私はテレビ局の者だ。くくっ……ふふ、……すまない。じゃあまたね』

 テレビ局。フランス。探していた人。そしてフィンリー。どう見ても関係があるとは思えない。ただ彼が嘘をついているとも思えなかった。

 彼の笑顔は異国からやってきてフィンリーを呑み込み、徐々に蝕んでいく得体の知れない悪だ。怪奇な悪寒は全身を這いずり、気づいたら腕に爪を立てていた。

「随分と怖い顔をしています。いかがなさいましたか」

「フィンリーさん……」

 穏やかな天使のような微笑みだ。この笑顔をずっと見守りたいと思う。

「どうしたら、どうしたらいいのか、俺にも判らなくて」

「ええ」

「守るためには、知ることが必要な気がします。でも、関係が壊れそうで怖い」

「なるほど。私に関することでお間違いありませんか? 関係が壊れるほど、希薄な関係ではないかと存じますが。どなたがいらっしゃいましたか」

「まったく身に覚えはないんです。その、異国のテレビ局の方でした。探していた人が、フィンリーさんに似ていると」

 やはり話さなければよかったと少しだけ後悔した。フィンリーの顔が、一瞬だけ憎悪に満ちた顔になった。それを隠すように、すぐに無表情へ変わる。

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