バイバイ、ロビンソン
虫太
バイバイ、ロビンソン
そのテナントメタバース〈コンポステラ〉があるのは茫漠とした電脳網空間の周縁だったし、ピップが体を浮かべている第3層月ルームの月海32番地もそのバースの中で必ずしも中枢層から近いところに位置しているわけではなかった。しかしそれでも、浅瀬で浮きマットに寝転ぶ彼はいま宇宙の中心にいた。恋をしていたのだ。
波がつま先をくすぐり、空に浮かぶ地球ルームからの光が眩しい。地球の向こうには星々も見えるが、この層にある天体は月と太陽と惑星だけだ。他の星々は、この層の最外殻の内壁に描かれている。ピップも一度近くまで見に行ったことがあったが、大きすぎて何も読み取れなかった。現実の世界とはちがって隔たりと拡がりはタダ同然だから、恒星天球を果てしなく遠く大きく造ってもコストはかからない。
陸ではつるつるした薄ピンクの椰子の木のような植物が揺れ、遠くにはクレーターの山脈がかすんで見える。
この層で幅を利かせる占星術は、今のピップにはわずらわしかった。ただでさえ今はノエラのうつろう目の光に浮き沈みしているのに、星の運行が仄めかす行く末に一喜一憂したくない。それでもここを拠点にしているのは、ここの景色が好きなのに加えて、月ルームでは自作の詩が高レートで取引きできるからだった。
ここでは、詩は通貨に等しい。考えぬかれた文はうまくいけば短くても莫大な計算資源と交換できる。まだそこまでの見通しはなかったが、体の中を通っているこの高揚と明るさを、どうにか情報深度の高いテキストに変えることができるような気がしていた。
たやすい道ではないだろう。先日の静の海詩作コミュニティの会合でもみんな真剣に吟味していた。
「『伸ばす手もない』というところだけど、ちょっと物理世界への感傷が過ぎるんじゃないかな」
ピップの表現をギギがそう評した。
「でもそのあとに『指す遊標も覚束ない』ってあるから、物理と電脳上とにかかわらずアクセス手段がないことを言いたいんじゃないかな」
口ごもったピップにノエラが助け舟を出した。
「そ、そうだよ。そうそう」
と言うしかなかったことを気恥ずかしく思い出しながらも、彼女が理解してくれたときの記録キューブを手で転がしてニヤけた。
「兄さん、いつまでそこで浮いてるの」
海岸で待っているポップの声がする。現実に戻されたピップは回想ウィンドウをかき集めてメモリ箱に押し込んだ。
「うーん、今年はあんま行く気ないなあ」
浮き輪を引いて水から上がって来たピップはようやく返事らしい返事をした。「詩作もやらなきゃだし」
半分はノエラに会うのが目当てだったが、仕事で成果を上げないといけないのも事実だった。
「根詰めても捗らないよ。別の層に出て気分転換しなきゃ。どうせ煮詰まってるんでしょ」
「そんなことない。今いいところなんだ」
ポップはまるで信じていないようで、目を細めて首を横に振る。
「ケン兄さんも接続しにくるって言ってたよ。子どもを連れてくるって。バースっ子だけど」
海岸では月亀たちがパラソルの下で何かの書類を仕分けている。彼らはノアの洪水で月を濡らすほど高く潮が満ちたときに渡ってきた動物たちの末裔、という設定のボットだ。ピップは本物のカメを見たことはないが、直立二足歩行でお腹に水玉模様があるここの月亀たちがまったくのデタラメであることはわかっていた。
「お前の仕事はどうなんだ」
仕方なしに弟についていき、ピップは聞いた。
「今はプトレマイオス宇宙の層にいてね。水星ルームでコンサート会場のデザインをしてるよ。ライブごとに変えるから毎週忙しいよ」
「ふん。景気がいいことだな」
初めのうちは観客ひとりひとりがアイドルやアーティストを身近に感じられるようにと苦心して、観客それぞれの前にアイドルが表示されるようにしたり、ファンサービスとしてちょっとしたインタラクティブな要素を設けたりと工夫していた。だが今はもう美的な空間デザインのみに専念しているのだ、とポップは話す。
「けっきょく物理世界と同じように遠くにアイドルを配置しても『自分に手を振った』だの『目が合った』だの言ってくれるんだから。演者に新しいインターフェースを使って数秒ごとにアイコンを触るよう頼みに行く必要もないしね」
「アイドルねぇ」とピップはため息のように言って、タップでコンソールを呼び出した。宙に浮いた球体のそれを回転させて、彼はステーションのゲートを開くコードを打った。
浜辺の空中に細い亀裂が出現し、引き戸が開くように広がって行く。中に〈コンポステラ〉の階層ステーション〈アストロラーベ〉が見え始めた。
「膨張する宇宙の層だっけ?」
「ちがうよ。その一つ前、フラクタル宇宙の層だよ」
フラクタルな宇宙は、オルバースのパラドックスという問題に対する答えである。これは「宇宙が無限ならどの方向にも必ず星が存在し、夜空は隙間なく光で満たされるはずだ」という逆説である。
じっさいに夜が暗い理由は単純で、地球から離れるほど星が少なくなるからだ。しかし、そこですぐに疑問が生じる。われわれの惑星は星がもっとも密集する宇宙の中心の座を占めているのだろうか。エゴを排して考えれば、そんな必然性はどこにもないはずだ。
フラクタルな宇宙観はこの自己中心性を正してくれる。
いわく、宇宙はマトリョーシカ式だ。まず、惑星と衛星は近く、惑星同士は遠い。そして太陽系外の恒星系はさらにずっと離れたところにある。恒星系から成る星団、天の川銀河、そして他の銀河…、とスケールが大きくなるほどその間隔も大きくなる。この入れ子構造の宇宙なら、観測者が宇宙のどんな片隅に存在しても天体は近くには密に、遠くに行くほど疎になるのだ。
「…ああ、そんな宇宙論のとこだったね」
彼らは階層ステーションの通路を進んだ。通路は、何層もの巨大な同心球面の間を弧を描いて続いている。真鍮製でアラビア文字が刻まれた球面の壁は回転していて、それに合わせて動く雲形定規のような形の窓から内外の層が次々に顔をのぞかせる。
「兄さんはさいきん暇なの?」
「暇なんかないよ。休んでても言葉について考えないときはないだろ。詩作っていうのは起きてる限り仕事してるみたいなもんなんだ」
鼻を鳴らしてそう言うと、ポップは笑った。冗談だと思ったらしい。
「別のこと考えてるように見えたけど。恋人でもできたの?」
ポップはお見通しだった。ちがう、ほんとに仕事をして、と言い返そうとしたが弟に見栄を張るのがバカバカしくなって、やめた。
「恋人ってわけじゃないんだけど…」照れながら言ったが、事実まったく恋人ではなかった。「配信サービスを契約しにいったときに会ったんだ」
外見を自由に選べるこの世界に一目惚れはない。しかし、初対面の他者の行動や発話の内容を認識したあとほとんど一目惚れに近い形で恋に落ちるケースはあり、ピップはその一例だった。とはいえ、真ん中で分けた前髪とソバージュはピップの気を引いた。そして2人の他に誰も契約しに来ていない二百年前のテクノの追加配信も声をかけるきっかけになった。
「君も好きなの?」
2週間前、ピップはわかりきったことを聞いた。ヘッドホンアイコンを小さくした彼女は軽くピップを見たあと向こうを向いた。
「まあ、あれよりは」
大小さまざまなアイドルのアバターがいたるところに浮かび上がった一画は、黄色と緑色のビームが飛び交い賑やかだ。あちら側はずいぶん遠くに感じた。
それでサヨナラしてもう会えないと思ってたんだけど、偶然詩作コミュニティでばったり会って、名前を知って、アドレスはまだ聞いてないんだけど…。と、彼は弟にひと息でなりゆきを話した。彼女と仲良さげな恋敵がいること、山ほどプレゼントを贈りたいけど何なら喜ぶのか見当もつかないこと、などなど…。
「楽しそうで何よりだよ」
階層ステーションの中をポップの案内で、2人はゲートをくぐって球体の壁を内へ内へと進んでいく。パッと視界が明るくなり、光で何も見えなくなる。誰も住んでいない「明るい夜空」の層だ。
「この次だよ」
「フラクタルな宇宙」の層に入るとポップがアドレスを入力し通路の真ん中にドアを呼び出した。
親たちの休暇用ペンションは牧草地が点在する山の中にあった。道端のリンドウを見てピップは、ちっともこっちに目を向けてくれないノエラのまつ毛を思い出した。山道を少し歩くといくつか他のペンションもならぶ集落があり、その集落の入り口には共同ポストと地図が立っている。看板にはコマドリがとまって鳴いている。家の前に着くと、前庭には飛び石が続いて、植木に囲まれたノームは塗装が剥げかかっている。ふだん生活しているのとは似ても似つかない物理世界に寄せた空間だ。
「やっと来たか」
「久しぶりじゃないの、ピップ」
ヒロムとモーリンはリビングで酒を飲んでいた。この夫婦の他にピップたちにはもうひとり、ポーラという親がいた。どうやら彼女はバルコニーで本を読んでいるようだ。この3人の神経パターンを読み取ってランダムにサンプリングして、ピップとポップは電脳世界上に作られた。
「この前会ったとこじゃない」
と、彼はモーリンに返し、(しまった)と思った。これではジリ貧の生活を白状したことになる。
物理世界の姿のまま来ている彼らは記憶の中の彼らより老けている。ヒロムの頭には白いものが増え、モーリンは髪は染めているようだがシワが増えて少し太っていた。
「そりゃお前からしたら最近だろうけどなぁ」
ヒロムがしみじみと彼を見て頷く。
メタバース内の住民にとって計算資源は時間そのものだ。ピップのような低収入の、いわゆるベースライナーは、青年期以降は基本配給資源とプラス少しで生活する。だから実際には、余剰資源をもつポップの方が生きた時間は長い。現実に近い速度を生きる彼らはキャッチアッパーと呼ばれ、彼らといっしょにいない限りベースライナーの時間の流れは遅くなる。
「とにかく来てくれてよかった」
モーリンたちが面白おかしく近況を話し、ポーラも混じってからポップがまた仕事の話をしたあと、ヒロムとモーリンの生物学的な息子のケン、そしてそのバース内の子どものジアンが加わり家の中はずいぶん賑やかになった。
「作業ロボットに入って木を植える仕事をしてるんだ」とジアンは言う。物理世界の砂漠化した地域で雑木林の再生プロジェクトが進められていて、絶滅種を含む多様な苗を植える仕事をバース内知能が担っているそうだ。
「若いのに感心だね」
とモーリンは朗らかにバース孫を褒めた。うだつのあがらないピップはふてくされてビールを飲み、手元に開いたコミュニティウィンドウを覗く。ピップは詩作仲間の近況をスクロールして前回の課題作について考えようとした。
「ロボットに入って現実世界によく来てるわけだね」とポーラがジアンに言う。「砂漠地帯じゃ会うことはないだろうけど」
「そっちに行ってるっていう感覚はないよ。仕事場は物理世界を一部再現した領域で、ぼくたちは魔族に焼かれた土地に緑を取り戻してることになってるんだ」
「じゃあうちらはそっちじゃ魔族か」とポーラは笑う。
「ピップもロボットに入ってうちに来たことあったねぇ」
モーリンがまるでその頃から今初めて思い出したかのように話し始めた。もう何回も聞かされた話で、ピップが当時小学生レベルの知能があったのに物理世界の物体の永続性が新鮮で、いないいないばあに飽きることなく笑っていたというエピソードだ。
「今はもうこっち来ないの」
モーリンに聞かれてピップは首をふった。
「ぼくはあそこでうまくやってるんだよ」
そう言葉にすると、少し自信がわいた。自分の世界があるし、表現すべきものもある。
「こいつ、もう恋人までいるんだ。生意気だろう?」ケンがジアンの頭をゴシゴシと撫でた。
「まだそんなんじゃないって」ジアンは照れくさそうに振り払った。「ライバルもいるし…」
またコミュニティのポストを見はじめたピップはすぐにスクロールする手を止めた。詩作コミュニティのギギたちが写っているキャプチャーが投稿されている。場所は金星ルームのどこか、文芸コンベンションの会場らしい。こんなイベントがあったなんて。何も知らなかった。それならこっちに来てる場合じゃなかった。
(…これ、ノエラも出席してるのか)
彼が心配したのはそこだった。彼をおいて他のみんなと彼女が楽しくやってると思うと急に落ち着かなくなって歯噛みした。とくにあのお調子者のダンと…。
映っている他のメンバーのホームに飛んでポストをチェックしたが、まだ彼女は見当たらない。
「そしたら植林プロジェクトに偶然その子がいて…」ジアンが浮かれて語っている。「名前も聞けたんだ。ノエラていう子で…」
ピップはハッと顔を上げた。ジアンは続けている。
「…古い音楽の他は、何が好きなのかもまだよくわからない子で、機嫌はころころ変わるんだけど…」
「髪型は?」
ピップは思わず聞いた。
「え、長めで軽くパーマあててるけど」と驚くジアン。
「その子って…」と言おうとしたとたん、ピップの視界は黄緑色に包まれた。彼を中心とした円周上にいくつもの光る帯が左右から流れて来て個室を形作った。気づくと親たちとジアン、ソファや切り株の卓は消えていて、半透明のスツールに座っていた。
「チャットルームに招待されました」と感情のないアナウンスが聞こえ、後ろからまた別の声がした。
「兄さん」
振り返るとポップがグラスを手にこちらに歩いてきた。隣に腰かけてカウンターにひじをつき、「これ」と前を指した。小さなウィンドウにはさっきまでいたリビングが映っていてモーリンやケンたちがいる。
「あいつと話してたんだよ。なんでノエラと…」
「そのことなんだけど、それは兄さんの勘違いだよ」何から話せばいいのか迷うように首をかしげたあと、ポップはグラスの酒をひと口飲んだ。「ぼくたちの甥っ子が住んでるのはゲームメタバース〈ミッテルラント〉だ。兄さんの友達と会うはずがない」
「でも、共通点が多すぎる。名前と髪型だけじゃない。趣味や性格、出会ったいきさつまで…」
「そこなんだよ。同一人物でも周りの人間関係まで似たりはしない。聞いていて気づいたんだけどね。いいかい?」ポップはグラスを置いた。「ノエラは存在しないんだ」
存在しない?物理世界にか?しかし、ピップたちだってバース内だけの存在だ。大事なのはアイデンティティを成り立たせるための十分な知能と記憶、自他の境界と独自の利害と意志だ。
「どこで生まれたって自分の世界の中には存在するじゃないか…」
「そういう意味じゃないんだよ」弟は悲しそうに微笑んで言った。「社会関係詐欺なんだ」
ポップは、スターに間近で会うという奇跡をファンに均等分配する方法がないかを調べていたときに、偶然それについて知ったらしい。
「この電脳世界には無数の人がさまざまな関係を結んでいる。その中には当然、似たようなタイプの人格たちによる似通った関係のパターンもある。詐欺プログラムはそれを検出するのさ」
いくつものバースの中で色とりどりのアクターたちが他のアクターたちと交流し、パズルのピースのように互いに独特な結びつき方をする。そうして編まれた何億もの組成の中には、「あと一つ、ある欠けたピースを入れれば望んだ絵が完成する」というパターンが点在している。プログラムはそれを見つけ出し、そこにあらかじめ模様と形を決めた「欠けたピース」を送り込むのだ。
「それがノエラ?」ピップには途方もない話に聞こえる。実現不可能な手品のようだ。「でも彼女には人格がある。みんなと話もできる」
「きっと厳密に特定された人間関係のパターンの中だけで最低限のふるまいができるボットだよ。そして恋に落ちることになってるターゲットに感情や時間、つまり計算資源を投資させるんだ」
「同じ顔した人形をたくさん送ってるってか?そんなに同じ人があちこちにいたらすぐバレるよ」
「いや、同型ネットワークパターンは頻度が低いからバレないよ。この世界だって広いんだ。今回はこの集まりのおかげで運よく気づいただけさ」
ほんとうにそうなのだろうか。ノエラは存在しない?いや、それとも無数に存在する?そっちのほうが始末が悪い。
彼女が詩について語っていたことを思い出す。
「断絶したイメージを、ギリギリ意味を失わないように連ねていって、作者の主体性を透明に近づけることで意味を自由にすることができるんだって思う。それでも認識には、その人のものの見方や立ち位置がどっかにつきまとうものだから…」
あれらの言葉の裏にも十分なアイデンティティはなかったのか。信じたくはなくても、それはすでに以前とは違った響きをもって思い出された。もう以前と同じようにクレーターの山々と月の海を眺めることはできないだろう。
もとのペンションに戻っても、彼はそんなことをつらつらと考えていた。
ポップはもう輪に戻ってヒロムたちとウノを始めている。ジアンにはあとで教えてやるのだろう。ポーラとモーリンは少し離れたソファからウノをする彼らを目を細めて見ている。
ピップはキッチンで酒を飲み、もう少しひとりで考えることにした。新しい生活について。それから失われた光と、それでも消えることのない光について。
バイバイ、ロビンソン 虫太 @Ottimomisita
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