15.恋の出演した映画
恋がいなくなって、雅親の生活は完全に元に戻った。
毎朝ストレッチをして朝食を作るときも一人、スーパーに買い物に行って帰ってきたときもマンションの部屋には一人。
元々そうだったのだから戻っただけなのだが、紅茶を入れるときにどうしても残ったもう一杯のことを考えてしまう。雅親の紅茶は冷めても美味しいのだから雅親が飲めばいいのだが、マグカップをローテーブルに置いていると、恋が頭を過る。
恋がいた期間は二週間程度。その間に雅親は残った一杯の紅茶を飲んでくれる相手に慣れてしまった。
時間が経てば恋のことも忘れて、残った一杯の紅茶は夕食のときにでも飲むようにすればよくなるのかもしれない。マグカップにひよこの模様のある蓋をして、雅親は自分の分のマグカップを部屋に持って行って仕事を再開した。
夕食のときも一人分だけ作るのは逆に面倒なので二人分作って、ラップをかけて半分は次の日に残す。
茄子と豆腐のどっちも入った麻婆豆腐茄子は、恋が気に入っていたものだった。
料理を始めたころに、天音は麻婆茄子、充希は麻婆豆腐を食べたがって、別々に作るのが手間がかかるので一緒に作ってしまったのが最初だった。
天音も充希ももう雅親の料理は食べない。
夕食を食べていると玄関ががちゃがちゃと鳴って、充希が入ってくる。充希は手にケーキの箱を持っていた。
「みっくん、また買ってきたの? お金足りてる?」
「ケーキ屋でバイトを始めたんだよ」
ケーキ屋でアルバイトを始めたという充希は、余ったケーキを格安で譲り受けていたようだ。前のケーキもそのケーキ屋のものだった。
「いなくなったんだ、逆島恋」
「前も思ってたけど、みっくんは彼にとても失礼なことをしたんだからね。彼は自分の意思ではなくて、姉さんに言われて渋々ここに避難して来てたんだから、追い出すようなことを言わないでほしかった」
「でも、世話は雅親が全部やってたんだろ? 俺は雅親に過労死してほしくないから家を出たんだよ」
「自分も世話をされてた自覚があるんじゃないか」
充希がこのマンションで暮らしていたころは、雅親は洗濯も掃除もしてやっていたし、料理も作っていた。一人暮らしをすると聞いたときに、充希にそれができるか雅親は正直心配だったが、問題なくできているようだ。
その上アルバイトも始めている。
「逆島恋サンの記者会見も雑誌のインタビューも見た」
「私は見てない」
「雅親、見てないの!?」
「興味がないからね」
興味がないと答えたが、雅親が恋の記者会見も雑誌のインタビューも見なかったのは、恋を見たら思い出すかもしれないという恐れがあったからだ。二週間とはいえ、恋は雅親の生活の中に入り込んだ。その名残が雅親にはまだあるような気がするのだ。
「タブレット貸して。ほら、これ」
タブレット端末を操作した充希が雅親に恋の記者会見を見せてくる。
――自分が愚かなことをしたとは思っています。知らなかったとはいえ、不倫をしてしまい、相手の家族にとても迷惑をかけました。僕と彼女との関係は、とても不適切なものでした。もっと周囲を見て、事前に情報を得ておけば、こんなことにはならなかったと反省しています。私は無知で、愚かでした。世間をお騒がせしたことを心から謝罪します。
誠実に顔を上げて記者会見に臨む恋の姿。深い青のスーツは、雅親と暮らしていたときにはTシャツとパンツ姿だったので、妙に格好よく見える。顔立ちが整って綺麗な男性だとは思っていたが、ここまでとは思わなかった。
謝罪会見の内容よりも恋の顔を見ていると、充希がタブレット端末を横から操作してくる。肩がくっついて体温を感じるが、充希のものは慣れているので動揺しなかった。
恋が雅親の手を握ろうとしたら避けてしまうくらい雅親は恋に触れられることを恐れていた。恋の存在に慣れてしまうことがどうしてこんなに許容できないかも雅親にはよく分からない。
形のよい睫毛の長い恋の目が思い出される。
あの目に雅親はじっと見つめられていた。
恋のファンなら大喜びするのかもしれないが、雅親はファンではないし、女性でもない。これまでの報道で出てきた恋の交際相手は全員女性だった。妙に熱のこもった目で見られているような気がしたが、恋と雅親がどうにかなるということはないのだろうと雅親は思っていた。
充希の指先がタブレット端末を操作して、インタビュー記事のページを開く。
恋の写真が大写しになっていて、その下にインタビューが書かれている。
――仕事復帰をされるようですが、復帰後最初の仕事は決まっているのですか?
――まだ決まっていません。でも、自分の実力で取りに行くつもりです。
――スキャンダルがその役に影響を与えることを考えませんか?
――私が出演すると不倫のことを考えてしまうひともいるでしょう。そういうひとたちの考えを塗り替えられるような演技をしたいと思っています。私には演技しかないので、演技をしてこれからも生きていくだけです。
もし演技の神様がいるとすれば、私の命はその神様に捧げたようなものです。
最後の一分が大きく書かれていて、雅親はタブレット端末のそのページを閉じてスリープ状態にした。
「みっくんは、これをお兄ちゃんに見せて何がしたかったの?」
「雅親が逆島恋サンに対する俺の態度を叱ったから、そんなにすごいやつなのか見極めたかった」
「彼はいい俳優だよ」
一年以上前に雅親の小説が原作の映画に出演したときのことを思い出して、雅親はテレビのリモコンを手に取った。
充希の方を見ると、カプセル式のコーヒーを入れて、ケーキを皿の上に出している。
「みっくん、今日、泊って行けるんでしょう?」
「明日は世間的には休日の土曜日だが、俺は昼からアルバイトがある」
「久しぶりに彼の主演の映画を見ようと思ってる」
「分かった。付き合うよ」
夕食の片づけをして、雅親は充希と一緒にソファに座ってテレビを前にする。テレビを付けてBlu-rayディスクを入れると、注意書きが映って、続いて映画が始まる。
さらさらの黒髪長髪で長身で恋は目立つかと思ったら、高校生役のキャストの中に溶け込んでいる。
台詞の一つ、表情、演技、全てがさりげなく、大げさではなく、自然に映画の中で広がっていく。
『例え、お前がなんだとしても、俺の親友であることには変わりはないよ』
自分の性的なアイデンティティに悩んで打ち明ける親友の肩を恋が抱く。親友は恋に抱き締められて静かに頷く。
『だとしても、お前のことを好きになるのは絶対にない』
『なんだよ、それ。俺はこんなにいい男なのに』
『ないわー』
高校生同士の他愛のない会話が入って、シーンが切り替わる。
自分で書いた作品のはずなのに、映像になると全く印象が変わってくる。それでも恋は主人公のイメージを崩さずに役に向き合って演じてくれたし、雅親はこれが自分の書いた主人公だと思った。
「雅親、小説の中に恋愛が入ってくることあるけど、恋愛したことあるの?」
「そういうのをお兄ちゃんに聞く?」
「人生において大事なことじゃないか。雅親が俺のせいで恋愛もできなかったって思ってたら、俺はものすごく悲しい」
弟の充希にそう言われると雅親はますます答えにくくなる。
雅親に恋愛経験などない。恋愛などしなくても生きていけるし、恋愛を書くときには他の作者の本を読んで参考にした。恋愛は雅親にとって遠いものだった。
「みっくんはあるの?」
「俺の初恋から知ってるだろ、雅親は」
「小学校のときの前の席の女の子。バレンタインにチョコを女性から送るのはもう時代遅れだって、一緒にクッキーを作ったね」
「クッキーは喜んでもらえたけど、お互いに幼かったから、それ以上はなかった」
「中学のときに好きな子がいるって相談されたときには、いよいよ性教育をする時期が来たかと身構えたよ」
「やめてくれよ。雅親からそういう話は聞きたくない」
大事なことだと真面目な顔で言う雅親に、充希は片手で顔を押さえて天井を仰ぎ見ている。
「正直、逆島恋サンの映画は真面目に見たの初めてだけど、悪くなかった。雅親が原作だからだろうけど」
「お兄ちゃん、そういう褒められ方しても嬉しくない。ひとを貶めずに褒める方法を学びなさい」
素直になれない充希に苦言を呈すると、充希が話題を変える。
「俺の部屋に逆島恋サンを泊めたんだろ? シーツとか布団とかどうなってる?」
「シーツは洗ったし、布団は干して、包布を洗ったよ」
「それならいい。シャワー浴びて寝るわ」
映画が終わると充希はバスルームに行こうとしている。その背中に雅親はふと問いかけた。
「一人暮らししたかったのって、彼女が欲しかったとか?」
「そういうときだけ鋭いのやめてくれよな。いないからな? 俺、モテないんだよ」
「みっくん、いい子なのにね」
「やめてくれ!」
反抗期がまだ終わっていないような反応を見せるかと思えば、本気で雅親の人生を心配してくる。
二十歳という年齢は複雑なのだと雅親は思っていた。
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