14.雅親の家を出る恋

 雅親に「まさくんは、僕と暮らすのは嫌?」とか縋っておきながら、仕事の電話が来たときには恋は完全にそのことしか考えられなくなっていた。

 雅親の書いた小説が原作で、舞台が行われる。舞台監督も恋の尊敬するひとで、いい仕事をするという話を聞いている。


『まだ早すぎるかもしれないけれど、いつまでもスキャンダルに捉われてたら一歩も動けないですから。あっちの女優様は何事もなかったかのようにテレビ出演していらっしゃるし』

「僕は平気。叩かれようと、マスコミに何を書かれようと、その仕事はしたい」

『やる気ですね。安心しました。マスコミを怖がってちゃ、仕事ができません。まず、世間への謝罪会見から始めましょう』

「僕が愚かだったから世間を騒がせたこと、他人の家庭にご迷惑をおかけしたこと、誠実に謝るよ」

『そうね。前に授賞式で着ようと思ってたスーツあったでしょう? あれ、結局別のを着たけど、今回はあれを着て謝罪会見に出るのがいいと思います。深い青で、あなたによく似合うし、誠実な逆島恋を演出できるんじゃないでしょうか』

「誠実な演技は得意。任せてよ」


 どうしても雅親の舞台の役が欲しいのだったら、謝罪会見も乗り越えられる。

 実のところ恋は自分が悪いとも思っていなかったし、不倫と知らずにしてしまったのだから、仕掛けてきた有名女優の方が悪いと思っている。

 それでも、世間を騒がせたことと、他人様の家庭に迷惑をかけたことは変わりない。この不倫で恋のイメージがどれだけ落ちたか分からないが、それを立て直すだけの努力はしなければいけなかった。


『役が欲しいなら、弟の部屋はできるだけ早く出ましょうね。謝罪会見が終わったら、自分の部屋に帰りましょう』

「分かってる」


 そのことについては、未練がないわけではなかった。

 一緒に暮らすのが心地よくて、雅親のそばにずっといたいという気持ちは本当のものだ。しかし、雅親の原作の舞台をやるとなると、それがマイナスになってくるのも分かっている。

 原作者と一緒に暮らしているから役をもらえたなどと言われたら、恋は自分のことを許せないだろう。


 演技には常に誠実でありたい。

 謝罪会見で作る見せかけの誠実ではなくて、本当の心からの誠実だ。

 演技をするためならば何でもする気持ちはあるが、原作者に忖度してもらったと思われたらどうしようもない。


 雅親のマンションを出る決意をした恋に、雅親はビールとコーラを買ってきた。

 エールのような香りのいいビールは恋の好きな銘柄だった。雅親はコーラをグラスに注いで、二人で何に乾杯しているか分からないながらに乾杯して夕食にした。


 翌朝、朝食を食べ終わったら、天音から連絡が入って、恋はこの部屋に来たときと同じスーツケースに持ってきた荷物を全部詰めて雅親の家を出ることになった。


「お世話になりました」

「もうこんなことがないといいですね」

「本当はもっと一緒に暮らしたかった。舞台が終わったら帰ってきたい」


 請うような恋の言葉に、雅親は何も言わなかった。

 ただ、恋の荷物の上に本を一冊乗せた。

 年季が入った、いくつもの付箋が貼られたレシピ本。


「僕が料理を始めたころに買ったものです。よければ参考にしてください」

「雅親さんの作っていた料理の基礎がここに書いてあるんだね。大事にする。ありがとう」


 最後まで雅親が心配したのは恋の食事の事情だった。

 マンションのエレベーターを降りて、裏口に回ると天音が車を回してくれている。

 運転免許証については、恋も撮影で車を運転するために取ったのだが、運転に自分が向いていないということが分かって公道は走っていない。撮影のときだけ運転できるようにはしているが、それも道を封鎖して安全が確保されているときだけだった。


「太ってはいないようですね。弟のご飯は美味しかったでしょう?」

「必死でストレッチと筋トレをした。それとラジオ体操って意外といい運動になるんだね」

「弟とラジオ体操してたんですか?」

「してたよ。でも、かなりなまらせちゃったから、鍛え直さないと。ボイトレも行きたいし、ジムにも行きたい」

「スケジュールに組み込みましょう。まずは謝罪会見ですね。部屋に戻ってあの深い青のスーツ着てきてください。ネクタイは無地で」

「了解」


 車の中で天音に指示されて、自分のマンションの裏手に車を停めてもらって、荷物を持って急いでマンションの中に入ってエレベーターで自分の部屋に上がる。

 殺風景な部屋は、恋がいない間に埃っぽくなっている気がした。

 クローゼットからスーツを取り出して着替えて、ネクタイも結ぶ。

 指定された通りの格好になってから車に戻ると、天音がミラーで恋を確認している。


「顔色が艶々してますね。これじゃ駄目です。もっと隈とか描いてもらって、いかにもやつれましたみたいなメイクにしてもらってください」

「雅親さんのおかげで生活がすっかり整っちゃったからなぁ」


 頬を撫でて、艶々していると言われる顔を確かめていると、天音がため息をつく。


「まさか弟に惚れたとかないでしょうね? これ以上のスキャンダルは困りますよ」

「僕、そんな風に見える? 雅親さんに惚れてそう?」

「そういう風に見えないと言えば嘘になります」

「そんなに僕、分かりやすいかなぁ」


 苦笑して見せると天音は複雑そうな顔で恋を見ていた。

 涙でも見せて、雅親に縋り付いたら、雅親はほだされてくれないだろうか。それくらいの演技ならば恋は得意なものだったし、雅親がそれで手に入るなら安いものだ。

 こんなことを考えるから天音に釘を刺されてしまうのだ。


「もし、雅親さんのことが好きだって言ったら?」

「本気なら止めますね。それ、本当に『もし』の話ですか?」


 突っ込まれてしまったが、恋は誤魔化すように言う。


「雅親さん、三十歳だよね? 恋愛は自由じゃない?」

「それはそうですね。それに、弟の方が相手にしないでしょうけどね」


 相手にされていないのは恋も感じている。

 閉じた狭い世界で生きている雅親の中に、結局恋は入ることもできなかった。同居したが、部屋を出てしまえばまた雅親は世界を閉じてその中で過ごす。それが悪いことではないとは分かっているが、恋は雅親に自分を見てほしい。


「話が脱線しましたね。謝罪会見に集中してください」

「分かってるよ」


 連れて行かれたテレビ局の控室で艶々だと言われた顔色を調整するメイクをして、恋は記者たちの前に出た。

 天音の作った原稿は頭の中に入っている。


「自分が愚かなことをしたとは思っています。知らなかったとはいえ、不倫をしてしまい、相手の家族にとても迷惑をかけました。僕と彼女との関係は、とても不適切なものでした。もっと周囲を見て、事前に情報を得ておけば、こんなことにはならなかったと反省しています。私は無知で、愚かでした。世間をお騒がせしたことを心から謝罪します」


 深々と頭を下げると、シャッターを切る音が会見場に響く。

 相手の有名女優は「いつものこと」とでも言うように、さっさと復帰している。恋が復帰していけない理由はなかった。


「謹慎の期間、他の女性宅にいたという噂ですが、それは本当ですか?」

「事実無根です」

「相手が既婚者だったと知らなかったというのは、無理がありすぎませんか?」

「それに関しては、私が本当に無知だった、演技以外のことに目を向けていなかった結果です。二度とこんなことはないようにしたいと思っています」

「相手は有名女優ですよ、知らなかったはないでしょう」

「そう思われても仕方がないことは分かっています」


 ちくちくと嫌味な質問も受け流して、謝罪会見を終えると、恋は久しぶりにスマートフォンでSNSをチェックした。恋の不倫スキャンダルから約二週間、様々な意見が飛び交っている。

 その中でもファンクラブの意見は温かいものが多かった。


『恋様は演技命の世間知らずだから、本当に知らなかったんだと思う』

『恋様に恋人がいたのはショックだったけれど、不倫は相手の家族と話し合えばいいことだと思う』

『演技命なのに仕事ができなくて恋様が死んでしまうんじゃないだろうか』


 演技をして生きて、演技をして死んでいきたい。

 それ以外のことは全く考えていなかったし、できなかった恋という人物をファンはよく理解している。

 酷い意見もあったが、それも恋は今回の反省として心に刻んだ。


 謝罪会見の後で、着替えてジムに行くのも、ボイストレーニングに久しぶりに行くのも、恋にとっては楽しいことしかない。演技には体力がいる。声も常に鍛えておかなければいけない。

 三時間の上映時間中ずっと踊りっぱなし、歌いっぱなしということもあるのだ。それに耐えられるだけの体作りは必要だった。


「しっかり鍛えて、役をもぎ取ってくださいね。狙うは主役ですよ」


 天音に言われて、恋は雅親の原作を思い出す。

 蔵に閉じ込められて神託を下す神様と、その神様に捧げられた花嫁の物語。

 恋が狙っているのは神様役だ。

 原作でも長い髪が美しい男性として描かれていたから、恋のイメージに合う。


「雅親さんに僕の演技を見てもらう」


 最初に会ったときが映画のインタビューで、そのときも雅親は恋の演技を見ていたはずだが、スクリーン越しで編集された演技と、毎回一度きりしかない通して行う舞台の演技は全く違う。

 恋は雅親に自分の舞台を見てほしかった。

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