青いさかな、逃げた

なぎさ

青いさかな、逃げた

覚えているのは、手のひらに感じるかたい温もりと耳を突き刺すような靴音だ。あのとき小さな波瑠の手を握っていた姉の横顔は夜に紛れていたのか、どうしても思い出すことができない。たしかに見上げていたはずなのに。

「青い」

姉の声を聞いて、波瑠は急いで頭の中の辞書をめくる。青い、につづく言葉をさがさないと。慌てるほどに辞書からは適切なワードが消えていくようで焦る。

「さかな」

自分の声を聞いた。どうだろう、と姉をうかがう。かつかつとリズムよく刻まれるヒールの音。ややあって、姉が言った。

「……逃げた」

姉の声の調子はどこか不自然なほど茫洋としていた。夢からさめたばかりのような、ぼんやりと焦点を結ばない声。青いさかな、逃げた。波瑠は童話を思い出す。せっかく見つけた青い鳥を逃がしてしまう、子供らのお話。あの時、逃げた小鳥を見上げて、彼らはこんな調子で「逃げた」と言ったのではないか。


母親の命日がめぐりくるたび、波瑠は遠い夜に聞いた姉の声を思い出す。青いさかな、逃げた。


物心ついた時から、14歳年上の姉が波瑠の母親がわりだった。実の母は波瑠が3歳のころからずっと重度の消化器疾患のために寝たきりで、父親はそのずいぶん以前、波瑠の誕生とともに家に寄り付かなくなっていたから。あたりまえのように姉は、家事や波瑠の保育園への送り迎えや身の回りの世話、父親に与えられる生活費のやりくり、母親の介護といった生活のすべてを取り仕切ってこなしていた。

あたりまえという言葉は便利な思考停止の呪文であることを、おそらく姉でさえ知らなかったのだろう。いまから思えばずいぶんな辛酸を、それしかないからと受け入れているようだった。肺を持たない生き物が、水のなかで生きていくように。「家」を支えるにはあまりにも頼りない背は受け入れた重みに耐えかねるみたいな猫背だった。

痩せた肩に古いシャツを引っ掛けて保育園に迎えにくる姉が、波瑠はいやだった。ほかの園児の母親たちはそろっていい香りを漂わせて、きれいな服を身につけていた。だから、シンプルを通り越してみすぼらしい格好の姉が園の入り口で波瑠の名を呼ぶたびに、敗者のレッテルが貼られる心地がして。

いちど、頼んだことがある。春の淡い夕方、山あいの町の日暮れが穏やかにきょうだいを包んでいた。

「おねえちゃん」

なあにー、という姉は波瑠を見ない。波瑠の手を引いているけれど、前だけを見て。

「あのね、おむかえのときに……おけしょう、して、きてほしいの」

足を止めた姉は、おさない弟の肩のあたりに視線をさまよわせた。困ったような沈黙が漂う。波瑠がはっと肩を強ばらせるのと同時に、姉がゆっくりと言った。

「……わたし、だって口紅も持っていないのに」

一音ずつ、波瑠に刻み込むような言い方が怖かった。だから、そのあとは一度も姉の服装や容姿に言及したことはない。言わないだけで、姉を見るたびに恥ずかしさに捻れる心地がするのは変わらなかったけれど。


波瑠の言語発達が遅れていることが姉に通達されたのは、保育園年長の年の夏だった。姉は図鑑を見せたり読み聞かせをしたり、ずいぶん努力してくれたようで、言葉をつないでいく遊びもそのなかで生まれた。

「優しい」「おもちゃ」「笑う」

「しずかな」「うさぎ」 「家に」「かえる」

姉の口調はたんたんとしていた。ただ、波瑠がつかえるときにひっそりひそめられる眉だけが雄弁に不安を伝えた。姉の不安を察すると、波瑠の胸もくもって苦しい。ゆっくりと語彙が増えていったけれど、姉は波瑠が保育園を卒園するまで、繰り返す不安を拭うように同じ遊びをつづけた。

青いさかな、逃げた。

あのとき、姉は濃いグレーのパンプスを履いていた。スニーカー以外の靴音は珍しく、姉のつま先のうごきばかりを耳で追いかけた。

「……逃げた」

ぽかんとした声で言った姉は、はっとしたように弟を見ると、ゆうるらとしゃがみぎゅうっと波瑠を抱きしめて言う。

「卒園おめでとうね」


母親が長年の患いを悪化させて亡くなったのは、それからずいぶん経ち、波瑠が高校生になった矢先のことだった。買い与えられたばかりの制服に、葬儀の朝にはじめて腕を通した。鏡の前でしげしげと自分を見ていたら、父親の怒声が聞こえた。

「由乃、なんなんだそれは、その格好は」

名を呼ばれ、叱責された姉が波瑠の部屋のドアを開けた。

「波瑠、見て」

名を呼ぶ声に目をあげた波瑠は呆気にとられた。

戸口に立った姉は青く裾の長いドレス姿で、化粧をし、短い髪に銀の髪飾りを挿していた。

「……姉ちゃん?」

「似合うでしょ」

ふふん、と笑うのは姉であってまるで別人だった。

「由乃!」

一喝する声に身じろぎもせずに「なあに?」と問い返す。あまりにも、堂々としていた。


結局は、父方の祖母が泣き落としにかかって姉を喪服に着替えさせた。

すべての葬儀の過程を終えたあと黒い背中を見ながら、波瑠は途方に暮れる。大人たちは別室にいて、香がかおってくることが奇妙に空間を歪ませるようだった。

「なんなんだよ……」

全感情をのせたため息をつく。鴨居に吊った青いドレスを見つめたままだった背中が振り返った。

「あれを、ずっと着たかったの」

波瑠は、姉の調子に口を塞がれる。いつものたんたんとした口調が、今夜はぶきみだった。

「わたし、成人式にあれを着たかったの。だけど出席さえできなかった。思い残すのはいやなの、だからきょう着ようと思ったのに」

色のない瞳で波瑠を見つめ、歌うように姉は続ける。

「いくつ諦めるのかしらね、わたし。だれが悪いのかしら」

波瑠の背中を悪寒が這い上がる。母さん、死んだんだよ。悲しくないの。たったふたことが、喉から先に出ない。声に瞳に、姉がみじんも悲しいなどとは思っていないと、わからされていく。

「恋をしたかった、男の人に愛されて、抱きしめられてみたかった」

何なのかしら、と言うとふいっと背を向けてつぶやいた。むかし、あなたが言ったわ。青いさかな、逃げた。

肩ごしに、ゆらっと右手が揺れた。

「波瑠」

「なに」

「……おやすみなさい」


夜中に、玄関ドアが開く音が聞こえて、波瑠は胸のうちで繰り返す。青いさかな、逃げた。

翌朝、おそるおそる居間を覗くと喪服でも青いシフォンドレスでもなく、襟元の伸びたシャツを着た姉がいた。いつも通りで、得体がしれない。胸のうちにひろがる感情がなんなのかもわからない。


諦めつづけた日々は少しずつ姉の青いさかなを奪っていっていたのだと、いまさら気づいて何になるだろう。だれも、なにも悪くないのに、一人の人間がとりかえしのつかないほどに壊れてしまうなんて。どうしようもなかったと言い聞かせるたびに、突き刺さるのは自分の声なのだ。

「おけしょう、して、きてほしいの」

崖っぷちぎりぎりで留まっていた、姉の矜持の背中をついたのは自分じゃないのか。波瑠にもだれにもこたえのわからない疑問を抱えることが罰だった。

そして、波瑠の青いさかなももういない。

弟の幸福を壊すように、姉は決して消えない後悔を刻んだ。無邪気に伸ばされた幼い手のひらを容易に払ってしまえる腕で、振り返らない横顔で。

だれのせいでもなくすり抜けていったさかなを、きょうだいはずっと探している。いまでも、ずっと探しつづけている。

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青いさかな、逃げた なぎさ @sui_miya_1208

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