馬鹿のお通り
dede
逆落とし
「九郎、連れてきたぞ」
「ご苦労。助かる」
九郎は馬上から降りて弁慶を労うと、連れてきた老人に目を向ける。すると九郎に目を向けられた老人は身を竦ませた。恐かった。目の前の男が恐かった。小柄で、顔の整った美丈夫。弁慶と名乗った厳つい顔の大男とは対照的だった。しかし、弁慶は恐くなかった。老人は昔は熊を狩ったこともあった。熊に比べれば、大抵の人間はマシに思えた。しかしそれでも目の前の男が恐かった。目が、恐かった。
そんな老人の様子に気を掛ける事もなく九郎はにこやかに語り掛ける。
「さて、ご老人。ご老人はこの近辺で狩りをされてるとか。なにぶん我々はこの山に不慣れでね。道案内を頼めぬだろうか」
目の前の男の態度はあくまで柔らかい。しかしどうして断れようか。口調は穏やかであった。口の端は上がっている。ただ目だけが笑っていない。
「へぇ。お話は伺っております。福原に向かいたいとか。夢野口ですか、塩屋口ですか」
何をしにとは、当然聞かない。分かり切った事だ。弓や刀、槍を持ち甲冑を身にまとって馬に乗った男たち。こんな山の中を夜にぞろぞろと身を隠すように。平家の人間であればわざわざ通らない。という事は源氏。これからこの地で戦となることを老人は悟った。ただ老人は怪訝にも思う。男たちは100人にも満たない。少なすぎではないだろうか。
そもそも福原(今の兵庫県神戸市)は、清盛の別荘があり最近まで都だった土地だ。源氏が挙兵したという話も、清盛が亡くなったという話も、ただの狩人でさえ聞き及んでいた。平家の兵が集まっている事も、海には船が集まっている事も。
六甲山と海で囲まれた土地で、あの船が大勢待ち構えてる中で海戦を挑むのは骨が折れる事だろう。残るは陸路しかないが一の谷に入るには夢野口、塩屋口、生田口のいずれかを通る必要がある。一番近いのは夢野口。敢えてそこを使わないのなら山道を越えて塩屋口であろう。
「一の谷だ」
九郎は簡潔に答えた。老人は頷く。
「わかりました。塩屋口の方ですな。山を大きく回り込むので……」
九郎は老人の言葉を遮った。
「一の谷だ。塩屋口には向かわん」
「しかし一の谷には回り込んで塩屋口から入るしかありません」
「塩屋口には行かん。真っすぐ一の谷に向かう道を案内せよ」
「そのような道はありません。崖があります」
一の谷の背には鉄拐山があった。傾斜が急であり地元の人間も通らない。乗馬してなど以ての外だった。
「ご老人、この辺りに鹿はいるか?」
急に話題が変わり、老人は戸惑う。
「鹿……でございますか。おりますが」
「ではその鹿はその崖を通りはせぬか」
「……冬に見掛けましたな。餌を求めてさまよっていたのでしょう」
「なら馬でも可能だろう。案内せよ」
目が、笑っていなかった。冗談ではなさそうだ。無茶苦茶な理屈だった。横に立つ弁慶という男の顔も伺う。こちらも表情を変えない。
老人は大きく息を吐く。別によいではないか。今あったばかりの人物だ、何の肩入れもないのだ。崖から転げ落ちて、良くて大怪我、恐らくは死ぬことになるだろう。しかしそれで良いではないか、本人が望んでいるのだから。そう思えた。
「わかりました。しかしこの年老いた身には荷が重い。代わりに息子をつけましょう」
「かたじけない。代わりに謝礼は弾ませてくれ」
老人は顔を綻ばせた。
「ええ、期待させて頂きます」
「すまんな、役目を駄目にしてしまって」
老人の表情が固まった。
「何の事でしょう」
「斥候役だったのだろう。源氏の者が通ればお前か息子のいずれかが案内し、いずれかが連絡する手はずだった筈だ」
横に控えていた弁慶が、刀の柄に手を掛けた。金属のかち合う冷たい音が微かに鳴る。
九郎の目は笑っていない。その昏い目で、老人の内面を覗き込んでるかのようだった。弁慶が聞く。
「斬りますか」
「斬らぬ。平家の土地に住まうのだ。平家に与して当然だろう。しかし平家ではない。斬らぬ」
九郎は老人に近づく。そして目は笑っていないが、口の端を二っと歪ませた。
「我らは最短の道のりを行く。馬の我々の方が早く着くだろう。すまんな、平家からの報酬を貰い損なった代わりに、少し色をつけてやろう」
「何の事だか分かりませぬが、報酬が増えるのは嬉しいですね」
「そうか。ところで平家に知人はおるか」
「幾人か」
「そうか。すまぬな。全て斬る。いっさい残す気はない」
「そうですか」
「それだけか」
「わかりましたから。あなた様の様な方を産み出してしまったのが平家の運の尽きです」
その言葉に初めて九郎は表情が動いた。少年のように、年相応に屈託なく。笑った。
「ありがとう」
母の常盤御前は美しい人だった。九郎達が住まう屋敷に通う父に母は始め冷たかったが、徐々に笑顔を向ける事が増えていった。両親の仲が良くなったと、九郎は嬉しく思っていた。
その父だと思っていた者の名は清盛といい、九郎の実の父の仇であった。
その事実を知った時、九郎は吐いた。父の仇を父だと思って慕っていた自分に。父の仇に笑顔を向けるようになった母に。
吐き気が止まらなかった。涙が止まなかった。無知であった事を呪った。何より清盛を、平家を呪った。
やがて母は嫁ぐことになった。清盛ではない。別の男だ。それを機に寺に預けられるようになった。女というものが到底信じられなくなった。正直あの女の顔を見なくて済んで安堵した。きっと静に出会わなければ、今も女というものを信用しなかっただろう。
寺では坊主の目を盗んでは鍛錬を重ねた。ひたすら清盛の首を刎ねることを夢見ていた。
九郎は九郎の名を気に入っていた。仇と同じ、九の字がある。それだけの事だったが九郎にとっては大事な事であった。名前を呼ばれる度に思い出す事ができる。それが大事な事だった。母のような無様はけして晒したくなかった。
やがて兄の頼朝が打倒平家で挙兵したと聞いた時は歓喜した。平家を滅ぼす機会が巡ってきたのだと。清盛の首を取る機会もあるかもしれない。そんな期待に胸を膨らませ、九郎は初めて会う兄の元へ急いだ。
そんな清盛は病気で死んだ。
怨みは忘れなかった。しかし望みは果たせなかった。九郎は思った。遅すぎたのだと。力がつくのを待ってしまった。機が熟すのを待ってしまった。あの時。幼少の頃、最後に私を抱き上げた、幸福そうな表情で私を抱き上げたあの時に隠し持った小刀を首に突き立てれば良かったのだ。失敗したかもしれない。でもあれが最後の機会だった。また次があると思ったのが過ちだった。
「本当に行くのですか、義経様」
あの狩人の息子が崖下を覗き込みながら九郎に確認した。九郎は部下に「馬を連れてこい」と指示した。部下が2頭の馬を連れてくる。
「突き落せ」
馬は大層嫌がったが、強引に崖に落とした。すると、一頭は足を滑らせると横転し崖を転がり落ちていった。もう一頭は、崖を左右に跳び回りながら少ない足場を利用してなんとか下まで降り立った。
「よし、問題ないな」
「半分失敗してますが」
「成功例が一つあればいい。馬の邪魔をしなければ大丈夫だろう」
そう言うと、九郎は乗馬している太夫黒の脇腹を軽く蹴ると崖の間際まで近寄る。誰も反論はしなかった。ここまできて怖気づくような腰抜けは精鋭七十騎にはいなかった。九郎は振り向いて言う。
「良いか! これより崖を下る。下った後は簡単だ、家屋に火を点けよ! 目に入る平家を斬れっ! 奴らを混乱の渦に引きずり込んでやれっ!!」
『おおっ!!』
精鋭七十騎の怒号が挙がった。
「続けっ!!」
九郎が太夫黒の脇を強く蹴ると、太夫黒は崖に飛び込んだ。真っ先に飛び込んだ主を追って、他の武士たちも崖に飛び込んでいった。集団で身投げしてるようだ、と狩人の息子は思った。正気の沙汰ではない。やがて崖の上には狩人の息子以外いなくなった。崖の淵に立ち、ガラガラと音がする崖下を覗き込む。器用なもので本当にほとんどの武士たちは下まで降りたようだった。仕方なく、狩人の息子も崖をずりずりと降りて行った。
一方九郎達は崖下まで降りると、家屋の見えた方角へ馬を走らせた。やがて建物が見える。
前以て火矢を用意していた仲間に目配せすると、馬を走らせながら弓を構えた。的はでかい。外す事はないだろう。
「放てっ!!」
先端の火を揺らしながら、風を切る音をたてて木造の家屋に突き刺さった。やがて燃え広がるだろう。
ピーッ
「敵襲っ!!敵襲だ!!奴ら、東の方から来やがった!!」
甲高く鳴り響く笛の音と、困惑しながらも敵襲を知らせる怒鳴り声。しかしだいぶ気づくのが遅い。慌てて弓矢の準備をしているようだがもうすぐ街中に進入する。街中では弓矢も半減だ。
街中はすっかり混乱していた。想像だにしていなかった場所からの奇襲。おまけに家屋から火の手が上がっている。そして見知らぬ武装した集団の来襲だ。民衆は逃げ回ろうにも、逃げるはずだった方角からの敵が現れたのだ、逃げる先を見失っていた。平家武士も、刀を構えている者もいたが状況が掴めず迷いがあった。狙い通り過ぎて九郎は口の端を上げる。後は楽な仕事になりそうだった。
「斬れっ!!目に映る平家は全て斬れっ!!」
九郎は嬉しそうに叫んでいた。嬉しくて仕方がなかった。あの平家を遂に斬る事が出来る。血が湧いた。手始めに近くにいた武士に斬りかかった。
ギィンッ。
腐ってても武士だったらしく、雑に振るった刀は刀で受け止められた。そのままギリギリと鍔迫り合いとなる。ただ。ただそれだけだ。徐々に九郎の刀に押されていく。脂汗を垂らしながら、必死の形相だが。それでも九郎に押し負けて、遂に片膝をついた。(命がけでこれか)圧倒的な鍛錬不足だった。手の込んだ装飾の甲冑に、綺麗に髭が剃られた顔。首は白く、脂が乗って柔らかそうだ。
「な、名を何というかっ」
この状況下でその男は九郎に聞いた。それはこの命の掛かっている状況で必要な事かと九郎は半ば呆れた。
「義経。九郎義経だ」
「そうか、義経。我が名はっ」
「それは興味がない」
九郎は刀に力を一層の込める。がくんと刀が押しやられ、刃が彼の首に斬り込みを入れる。血が彼の衣服を濡らした。
「ぐあああっ!?」
痛みに喘ぐ。そして彼は刀から意識を一瞬外してしまう。その隙を九郎が逃すはずもなく、更に力を込めると、刀を鋭く引いた。
その所作は彼の首に致命的な傷をつける。呆然とした表情で九郎の顔を一瞥すると彼はぐらりと揺れて地面に倒れ込んだ。地面が吸い切らなかった血は土の上に広がっていく。
事が切れた彼を九郎は一瞥した後、次の相手を探す。初めて平家武士を殺したが、何の感慨もなかった。やはりと内心思う。誰であるか気にならない。どうせこの後何人も斬るのだ、平家であること以外に何の価値もない。あの男以外は平家であれば誰でも良い。大事なことは滅ぼすことだ。平家を滅ぼすこと。それまではこの餓えは止まらぬらしい。一刻も早く。手遅れにならぬうちに。
「斬れっ!!平家を斬れっ!!一人でも多くっ!!」
そう仲間に指示を出しつつ、九郎自身もまた次の平家武士を探して走り出していた。
馬鹿のお通り dede @dede2
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