月とイカロス

四季オリオーリ・オーリオ

月とイカロス

「今夜の月は綺麗ですね」


僕がそう言うと彼女は決まって鼻で笑うのだ。


「馬鹿じゃないの」


彼女の愛想のない横顔を見て、僕は思わず吹き出してしまう。


満月の夜、僕らは人気のない公園に集まるのだ。いつものようにブランコを椅子代わりに横並びに座る。月光に照らされた彼女の顔はまるで月の女神のように神々しい。


「執筆活動は順調かしら」


「ぼちぼちだよ」


「読ませてくれる?」


「もちろん」


僕はブリーフケースから原稿用紙を取り出して彼女に渡す。彼女は受け取ると黙々と読み始め、公園には虫の音しか響かない。僕はこの沈黙の時間が苦手だ。頭の中を無数の言い訳が駆け巡る。『時間がなかった』『万人受けを狙った』『手を抜いた』


彼女は最後のページを読み終え、僕に原稿用紙を返した。


「驚くほど陳腐で、退屈で、凡庸。読者のほとんどは80点くらいは出すけど、満点は決して出ない。誰の記憶にも残らない」


あまりに辛辣な感想に、僕は目を見開く。用意していた言い訳を吐き出そうとする僕の口を、彼女の人差し指が先んじて制止する。


「どうせ大衆受けで書いたとか言うんでしょうね。あなたは自分が本当におもしろいと思うものを否定されることを恐れてるだけよ」


「……流石は僕のファン第1号だ。的確な指摘だよ」


ショックで失神しそうになる僕は、かろうじて効いていないフリをする。


「昔書いた人魚のやつとか最高だったじゃないの。あれの続きが読みたいわ」


そういうと彼女は突然寂しそうな顔をした。僕は驚いた。いつも自信に満ち溢れた彼女のセンチメンタルな一面を、見たことがなかったからだ。


「本当に綺麗な月ね」


「今日はスーパームーンと言って、1年で最も月が地球に近づく日なんだ」


「あなたは本当に月が好きなのね」


彼女はクスリと笑う。


君と見る月が好きなんだ。そんな言葉が喉元で止まる。


「私も月が好きだった」


彼女の言葉に胸騒ぎがする。


「宵闇を照らす一条の光。でも太陽の輝きには遠く及ばない。なぜ?」


「……月は太陽の反射で光っているから」


「そう。孤高に輝き続け、いつかは太陽を越えようともがいても、そんな日は永遠に来ない。滑稽だわ」


彼女は立ち上がる。その目はもう月も、僕も見てはいない。


「私は太陽になりたい。月ではなく太陽に。自らの力で光り輝ける存在に」


その顔は決意に満ち溢れていた。


「もう会えないのかな」


「月に焦がれてるままのあなたじゃダメ。太陽を目指して羽ばたきなさい。イカロスのように」


「イカロスは太陽に焼かれて死んだ。彼は月を目指すべきだったんだ」


目から涙が溢れでてきた。彼女を見ようとしたが、滲む視界で何も見えない。


「イカロスが堕ちたのは、彼の翼が偽物だったからよ。あなたは本物の翼を持ってるのに、飛べないのは臆病だから。イカロスから勇気を学びなさい」


彼女は歩き出した。


行かないで。ここにいて。本当に言いたかった言葉は、臆病者の口からは決して出てこない。漏れるのは嗚咽だけだ。


「次会う時は、の当たる場所で」


それが彼女の、別れの言葉だった。


彼女が去った後も、僕はしばらく泣き続けた。彼女がここに戻ってくることは、もう永遠にないことを確信した。それが悲しくて仕方がなかった。









「本当に綺麗な月だ」


泣き疲れた僕は、ぼんやり月を眺めた。


僕がイカロスなら太陽に向かって飛ぶなんて愚かなことはしない。夜を待って、月を目印に飛ぶだろう。でもイカロスはそうしなかった。無謀にも太陽に挑んだ。だから彼は神話に刻まれたんだ。


僕は立ち上がり、歩き出す。陽の当たる場所を目指して。


「次、会ったらちゃんと伝えるよ。君が好きだって」


月を愛したイカロスは、それでも太陽に向かい羽ばたき始める。再会の日を夢見て。





-完-

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