十六

「おぬしはな、…―――まったく、警護の者達が追い付けぬような足で歩くな!…まったく、本当に、」

小煩く先程から、小田原を過ぎ、宿として手配されていた寺に着き、人払いをしてからというもの文句ばかりをいっている家康に。

 燭台に灯を灯し、氏政は経文を台にはらはらと広げて。

文句を云い続けている家康に構わず、氏政は経文を目で追い黙読を続けている。

「…少しは構ってはくれぬのか」

それに漸く飽きたのか、右頬を手で支え、行儀悪く脇息に肘をついて氏政の黙読を眺めていた家康が云うのに。

「…そなたこそ、ようやくあきたか。大の男が文句ばかり、それも小さいことをくどくどと繰り返すのはみっともないぞ?」

平然と家康を見ていう氏政に、ぐっとつまる。

「あ、のな?…――だが、危ない真似はよしてほしいぞ?本当に」

「まあ、おぬしが執心しているとの設定の僧なら、それほど警護をしっかりと行わせるのも仕方が無いというものだろうが、あまりに遣り過ぎては、却って目立つというものだぞ?家康、おぬしは徳川家の主なのだ。わしに構いすぎて、御家を危うくするのでは、本末転倒にもすぎるというものだぞ?」

淡々と怒る訳でもなく指摘する氏政に家康がつまる。

「あ、あのな?…それはその、…――だがしかし、だな、…」

「家康」

「…うむ」

不承不承、つまりながらも視線を向ける家康に。

 不意に穏やかに慈しむような黒瞳に、氏政をみて家康が。

「…う、氏政、だから、つまり、…―――」

「わしは、おぬしに滅んではほしくない」

きっぱりと黒瞳で真直ぐに見つめて告げる氏政に家康が言葉を失う。

 驚いて見開いた瞳のまま言葉を失くして見ている家康に。

氏政が僅かに眉をあげて、微苦笑に近く微笑んで告げる。

「わしは間違ったのだ。何を間違ったのか、おぬしはわしから学ぶ必要がある。…そうして、これから」

「…氏政?」

家康の見つめる先で、確かに不敵な笑みを黒瞳に乗せて。

「おぬしは、天下を獲れ」

「…――――氏政、」

家康が氏政の両手を取り、黒瞳を真直ぐに見つめる。

無言で強く手を握ってくる家康に。

氏政がその手を握り返すのを感じて、家康は言葉を失くしていた。

 言葉にならずに、そうして唯肩に涙を堪えられず俯いて額を預け、涙を零す。

歯を食い縛り、くちびるを噛みながら、無言で涙を流す家康に、肩を濡らす家康に。

「おぬしをたすける」

「…――氏政」

しずかな面持ちで氏政が告げるのを、嗚咽が堪え切れなくなって、大声で童のように泣きたいのを我慢して肩を震わせながら泣きながら、思わずも泣き笑いに笑みが零れる家康に。

 しずかに面白がりながら、あきれて笑んでみせて氏政が云う。

「わしは、そなたに力を貸す坊主なのだろう?」

ふい、と皮肉に微笑み、黒瞳に鮮やかに光を見せて。

「…そなたが、天下を獲り、天下を執る為に、知恵を貸すのが役目であるのだろう?南光坊天海」

「―――…」

言葉に詰まり、なにか云おうかとひらきかけて、言葉にできないでいる家康に。

 氏政が黒瞳に穏やかに鋭い光を乗せて。

「この愚かものより学べ、家康」

「…――――氏政」

また言葉無く、無言で腕に引き寄せて強く抱きしめる家康に。

 胸の内に抱いた氏照と。

 命を散らせた諸将の面影を心の懊に抱いて。…

氏政は瞳を閉じ、そのひとりひとりの魂を数えようとでもいうように。

 淡く微笑みをくちもとに。

家康の熱さを、淡々と受け止めながら。

 行く先を見据えていた。

 遥かに光を抱き、海原の光に抱かれていた小田原城。

 幾多の魂達をまた、その死を無駄にせぬために。

 氏政の瞳を伏せる肩に家康は幾度もぐいとくちをへの字にして、涙を堪えて衣を握り締めている。

 本気で泣いている家康にあきれを多少とも抱きながら氏政が云う。

「南光坊天海、―――おぬしの、…――よ」

「…―――!」

氏政、と家康が瞳を見開き、氏政の黒瞳を正面から見詰めてくる。それに、微笑んで。

「天下を統べる」

「うむ」

家康がうなずき、明るい黒瞳に笑みを零す。

肩を叩き、両の腕を握り、うれしげに確信と笑みと、涙を堪えるようにくちをへの字にして。

「…――氏政、…―」

「天海でよい。おぬしに、天下を獲らせる。おぬしがそして、天下を執る。地を治め、民を護り、…――天下を統べる」

確信を持ち、しずかに強い瞳で云う氏政を、正面から見詰めて家康が座を正す。

「…教えを請いたい。…わしは、まだまだ学ばねばならぬことがあるのだ」

真摯に見返して云う家康に、氏政が肯く。

「…――――氏政」

抱きしめてまた泣き出す家康を、あきれた顔で氏政がみる。

「貴公はな、…」

「…いいではないか、泣かせろ!」

「あきれて物もいえん」

「いっておるだろう!」

「確かにな」

「うるさいぞ」

泣き声を堪えながら云う家康に、氏政があきれを隠さぬ声で云う。

「…そのうるさいのを師と仰いだのはそなただぞ」

冷たい氏政の視線に家康がつまる。

「…それはだな、…――」

「だから物好きだというのだ。ついでに云えば、趣味もわるい」

云い捨てる氏政に家康が詰まりながら抗議しようと。

「確かに、趣味は悪いが、…!」

「認めたか」

しまった、という顔をする家康に、氏政が得たりと笑む。

「…お、おぬし、根性が悪いぞ!」

「そのようなこと、もとよりのことだ」

「…―――た、たすけたのは何でだ、まったく!」

「それはおぬしの趣味が悪いからだ」

家康がつまりながら怒っていうのに、さらりと氏政が。

 思わずも、家康が氏政としばし見合って。

「…―――――――そ、そなたはな、…?」

「おぬしもよ」

云い合いながらお互いに思わずも吹き出して、盛大に笑い声を大きく響かせて。

 外で宿直をしている護衛の者達が思わずもびくりと驚いて顔を見合すほどには響く大きな声で笑いあって。

 暫し、笑い声が堂に響いて。

「…おぬし、―――」

家康が穏やかな暖かく芯からよろこんでいると解る微笑みで氏政を正面からみて。

「…――氏政、…天海、これより、たのむ」

確信をもって暖かく太い笑みで云う家康に。

氏政が一つ無言で、しずかに肯う。

「…―――うむ、」

「…そこでまた泣くな!家康!」

「すまんな、…!これは泣いておるのではなくて、…―――目から潮が吹いておるのだ!」

「そなたは童か、…童でもそのような屁理屈はいわぬぞ?」

「うるさい、…!よいだろう、泣かせておけ!」

ぐい、と赤くなった目尻を拳で拭い、家康がぐっとくちを結ぶ。

「良いのだ、…。わしはうれしいのだから!」

「怒りながらいうな」

家康の熱い声に淡々と氏政が冷めた瞳で返す。

それにつまる家康と。

 二人がそうして、ふいにまた同じく笑みを堪え切れずに。

 堂の宵はさらに更けて夜は深くなっていく。―――








 南光坊天海。

 後に徳川家康を援け、その知恵と膨大な知識で江戸幕府開府を支えたといわれる僧が、この刻誕生したのである。




 徳川家康を影のように支え続けたこの素性の知れぬ謎の僧、南光坊天海は、この後、家康を支え幕府を開く礎をともに築くこととなる。

 江戸の町を形造ることとなる開拓や、膨大な知識による施政や戦に関する指南。

 だが、その生涯は謎に包まれており、後の世にも出生もその正体も秘されたままであり続けたのである。

 いずれにしても、それはまた後の話。




 いまは、多少あきれて氏政――天海は、開き直って泣いて何が悪い!と主張している家康を流している。

「…おい!聞いておるのか?読経を始めるのか?」

「拙僧は僧であるからには経を読むのが仕事でな」

「もう少しわしを構え!」

「おぬしは我儘な坊主、いや、童か」

冷たい氏政の視線にめげずに主張する家康。

「わしはな、…?おぬしが、…だから、うれしいのだから、泣かせろ!」

「好きなだけ泣け、わしは経を読む」

「…―――氏政!天海!…」

「知らぬ」

淡々と経を繰り、さらに滔々と流れるように経を声に読み始める氏政、天海僧正に。

 む、と家康が強情にくちをむすんで。

 それから。

 ふと、和むようにして瞳を和らげ、読経を始める氏政を見つめていた。

 何ともいえぬうれしさと穏やかさと安堵と涙と。

 穏やかなうれしさと、泣きたいようなよろこびがまた涙を溢れさせそうで。

 ひとつ無言でくちを結んで、氏政の読経する声を家康は耳に受けとめていた。

 誇り高く、関東の覇者として北条を支え民を護ることを役目として生きてきたそのままに。

 強く誇りある黒瞳で、蘇ったことに。

「…――――っ」

つまって泣きそうになって天井をみる。

 うれしいのだから、仕方無かろう?

そうして、横を向いてこっそり泣いているつもりになっている家康の気配に。

 あきれながらも、読経する声を途切れさせることなく、氏政が続ける。

 この関八州の民を護り。

 或いは、天下という何物かを。

 天下を統べるとは、何であるかを。

 それは、唯、護ることであるのだと。

 天下も関八州も、また。


 その天下を統べる為の長い道程を。

 泣きながら目尻を赤くして困りながら天井を睨む家康と。

 読経を続けて朗々と響く声で読む氏政とが。

 ともにどのようにして天下を執る為の戦を始めていくのかは、また後の話となる。

 いかにしても、そうして。

 いまは困りながらも泣くのを誤魔化そうとする家康と、知りながら読経を続ける氏政である。





 徳川家康が江戸幕府を開府するのは、まだ随分と先のこと。

 氏政の読経がいまは堂宇に響き、家康は右手に頬杖をついて、いつしかその天海の読経を聴き惚れている。






                        了


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