十一


 寺の堂宇を今夜の宿として、家康は人払いをした後に氏政の許を訊ねていた。

 昏い宵闇に薄く霞む中に法灯を灯し、読経をしている黒衣の姿に、驚いて家康が歩み寄る。

「まるで、僧のようだの」

目を丸くして近寄る家康が隣にどさりと胡坐を掻くのを、あきれた目線で氏政がみあげる。

「おぬしはの、…いいあきた。愚僧が経を読む、当り前であろう」

「まあ、…――まて、氏政、聞きたいことがあるのだ」

家康に構わず読経に入ろうという氏政に慌ててくちを挟むのを迷惑そうに見返る。

「何か」

「いや、…おぬし、小田原では連日評定がひらかれていたと訊くが、何を聞いていた?」

訊きたいことを真直ぐに訊く家康に、無言で氏政が視線を向ける。

「…何をと?」

「そうだ、…。おぬし、四月から、六月まで、どうしていた」

好奇心だけとも違う熱心さでみる家康に、ふと息を吐く。

「評定は常に開くものだ。戦があろうとなかろうと、同じことよ。領民達の訴えをきき、或いは刻に戦があれば、その仔細を訊ねる。他に何か」

「…普段は、それだけか?いつも、他には」

「常にか、…作柄と雨風の様子を訊ねる」

「そうか」

得心したように頷く家康に、氏政が眉根を僅かに寄せる。

それに気付かぬように腕組みをして頷いて。

「うむ、…。おぬし、開城を引き延ばしたのは、民の実りを護る為か」

顔をあげて真直ぐ訊いてくる家康に、氏政が何と応えるかという貌を瞬時して。

 ふと、苦く想い出し微笑むようにして、それに答える。

「それだけではない、…―――」

いいながら想い出していた。民より常に知らされる実りの穂が良く伸びたこと。或いは、堤の水量がどのようであるかについての諍いを、調べさせ判定させたこと。

 戦の運びと共に、それらは常のこととして裁かねばならぬ幾つもの地を治める為の北条に代々課せられた勤めでもあった。

 ふと想う。黄金に実るであろう穂が、良く伸びておりますと戦の勝利を疑わぬ領民よりのその便りを。

「…氏政」

「今年は、特に良い実りがあるであろうと報せを受けていた」

黒瞳を伏せ、それらが臣と民との寄託を叶えられずに、こうして落ちてある身をおもう氏政に。

 肩を不意に家康に叩かれて、しっかりと肩に手をおかれて氏政が仰ぎみる。

「氏政、御陰で、おぬしの民達はいま飢えてはおらん」

明るく確信を持つ瞳で云う家康に。

 何と言葉を返す術も持たず、氏政がしばし見詰める。

 言葉を持たず、暫しして。

 ふいと、視線を読経の為の経文を乗せた経台に。

「…それは、当り前のことだ」

唯、それは当然とせねばならぬことにしかすぎぬのだと。頑なな顔になり、経をくる氏政の手に。

 ふと、家康は笑んでいた。

「…気味が悪いぞ」

「すまぬ、…。だが、確かにそうよの。…民が飢えずにおるのが、当り前か」

「当然のことよ」

云うと、もう家康に構わず経を読み始める氏政の声を聞きながら。片頬を右手にあずけて、その経を読む声に聴き入る家康である。



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