九
墨染の衣に黒絹の錦を重く織らせた紋様の法衣を纏い数珠を持つ氏政の姿に家康が見惚れる。
「…見事なものだな」
「…―――」
それにあきれはててもう言葉もなく氏政が視線だけを軽く投げると、傍らに控える江雪斎を見る。
「は、御支度は、整っております」
頭を垂れて促す氏政に答える江雪斎に、家康もまた一つ肯う。
「関八州へ、な」
「…――」
無言で氏政が家康をみる。それに頷いて。
「戻れるぞ。…いや、これから新しく始めるのじゃ。ともにな」
確信を持ち明るい瞳で云う家康に、言葉を持たず氏政が、す、と歩を進める。
身を此の屋敷に隠して以来、縁へと踏み出しはしなかった氏政が、其処へと立つのに。
向き合う家康の肩に触れるほどの近くに立ち、外の光を見つめる氏政に。
傍らに家康が僅かに視線を伏せて言葉を探す。
「…わしの、傍に輿を用意させてある。下げものだが」
「贅沢にすぎるぞ、家康」
「いうな、わしも輿なのだ。…馬が良いというたのだがな、…。近くに行けば乗れるかもしれん。それまでは同じように下げものよ。贅沢をしてもいかん。おぬしも我慢しろ。旅の道中、顔をみられる訳にもいかぬからな」
道中位階を持つものは、国入りなどであれば特に許されてある身分であれば輿に乗るが、この際は簡略にして掲げ上げずに座を下げて乗る輿を使うという家康に。
「馬でいけば晴ればれとするのじゃが」
「贅沢をいうな」
青空を仰いでいう家康に、氏政が切り捨てる。
それに、困ったと顔を作って。
「ふむ、まあ、…。そなたは輿でずっと我慢しろ。何か用があるときは、ほれ、その頭巾じゃ」
楽しげにいってみせる家康にあきれて江雪斎が前に奉げ台に於いて頭を垂れてある黒絹の錦で織られた法衣と同じ布にて造られた頭巾をあきれてみる。
「…ぬしはな」
「おぬしの黒髪をわしは気に入っておるのでな。よく艶が似ておるであろう」
得意気にいう家康に、視線を伏せて氏政が息を吐く。
江雪斎が差し出す頭巾を手に取り、歩を先に縁へと進めて。
「行くぞ」
すらり、と黒絹の頭巾に面を隠し、無造作に縁を下りる氏政に家康が慌てる。
「まて、…わしもいく」
慌てて後を追う家康に、氏政はその控えさせた輿を見つけて、さらに呆れることとなる。
担ぎ手の担う棒さえ黒塗りの漆で飾り、御簾はいうに及ばず中に入れば、金襴の漆に淡雲の紋様。瑞雲にこれより龍が出でようと云うさまを彫刻に巻き漆で仕上げた四柱。
端然と黒絹の法衣で輿に座し、御簾越しに景色が映ろうのをみながら、無言でいると。
隣を行く輿から、家康の声が聞こえる。
「なあ、乗り心地もそれなりであろう」
「…後で、おぬしの紋を入れておけ」
瞳を眇め、視線を声のする方へ向けながら、気付いたことを家康に指摘する。
「そうか?まあ、…忘れたかな、職人達が」
「おぬしの紋だぞ?後で刻ませよ」
不機嫌に云う氏政の声に、家康が莞爾と笑む。
「…わかった、忘れぬようにしよう」
それきり、輿が離れ先を急ぎ出すのに息を吐く。
家康が輿に己の徳川の紋を刻まなかったのは、己に対しての気遣いとわかる。
徳川の紋に囲まれて関八州へ戻り入るのではなく。
「…―――余計なことよ」
僅かに小さく呟く声が輿を担ぐ誰にも届かぬようにして。
北条の紋など、無論刻ませる訳にはいかぬ。
無紋であるのは、家康の気遣いではあるが。
このように豪華な輿が、無紋では却って怪しかろうに。
苦く眉を寄せ、忘れぬように徳川の紋を刻ませておかなければ、と思う。
おそらく、此のまま云わねば、忘れた振りをするであろうな、あの狸は。
飄々と懐こく笑顔で肯っておきながら、己の要望を通すことにかけては実に強情なものよ。
これまで、家康の元に落ちて望まぬながら生き永らえて幾足りか。その事の運びようが、幾らか解ってもきた氏政である。
されど、と。
己が治めていた関八州に。
密やかに影の身として僧衣を纏い誠このように足を踏み入れることになろうとは。
その折りに。
愚かなことではあるが、無紋の輿などと。
家康のみせた、この僅かなことにも見える気遣いが。
輿に揺られ、御簾越しにみる山脈の景色は、いかにも見覚えのあるものに、氏政の心を揺さぶるものに替わろうとしている。
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