むべ山風をあらしといふらむ

相良平一

【クリスマス特別編】「サンタさんって」「流石にもう信じてない」

(作者註)

 この小品は、本編の数年後の時間軸です。

 展開がだいぶ違っていますが、あなたが読み飛ばしたわけではありません。

 こんな題名ですが、知りすぎた人が消されるわけでもありません。まあいわば、ハッピーエンドの保証みたいなものです。

 お楽しみください。


 

 木が三本生えていたところで、それは森どころか林ですらないが、女は三人いなくても、何なら一人もいなくても、人が二人以上いれば、時と場合によっては、その場は十分に姦しい。

「いや、かしましい、って何。」

 滔々と意見を述べて悦に入っていると、享奈は炬燵の中で丸くなりながら、ボソリと茶々を入れた。

「うるさいとか、騒々しいとか、大体そういう意味。まあ、とにかく、漢字というのは、実態を伴っていないことがままあるの。と、いうのが私の持論。」

「漢字に、実態を持たせてどうすんの。『森』って書くのに、木を百回ぐらい書けって?」

 印刷したら潰れちゃうね、と私が笑うと、享奈も釣られて笑みを漏らした。

「はい、享奈、コーヒー。」

 私は、手に持っていたマグカップを、炬燵の上に置いた。彼女の淹れた方が、よっぽど美味しいとは思うのだが、しかし享奈は、毎度私にやらせては、満足気に飲み干すのだ。それが、彼女なりの愛情表現であることに、気が付いたのはつい最近のことだった。


 すれ違い、紆余曲折、すったもんだの末に、私たちは付き合うことになった。今では、私の無駄に広い家に、二人で同棲している。

 朝、目が覚めた瞬間から、享奈の声を聞くことができる。友達として、一緒にいられるだけでいいと思っていた頃には、考えることもできなかった僥倖だ。

 今でも時々、こんなに幸せでいていいのか、と思うことがある。全てが都合のいい夢か、マッチの灯りの中の幻なのではないかと。以前そう言ったところ、彼女はひどく哀しげな目をしながら、「私が、あなたにどれだけ幸せを貰っていると思ってるの?」と言った。それ以来、マイナスなことは言わないようにしている。


 享奈は体を起こし、コーヒーを一口飲んだ。彼女は表情の変化に乏しいが、今の享奈は、弛んだ表情をしているのがはっきりとわかる。

 私は、享奈の隣に潜り込んだ。歯の根が溶かされるような、じんわりとした温かさが脚を包む。

 人通りの絶えた窓の外は、三時過ぎとは思えないほど暗い。寒々しい街の中で、切り取られたように、私の周りだけが暖かだった。

「嵐、足冷たい」

 そう言って、享奈が私に寄りかかってくる。私は、両手で彼女の滑やかな肩を抱えた。

「そりゃあ、さっきまで台所にいたからね。」

「ありがと。コーヒー、美味しいよ。」

「享奈には敵わないって。」

 彼女の頭が、私の体に、やわらかく寄りかかっている。目の前にある顔を、私はじっと観察した。

 女神、と崇められたことがあるだけあって、彼女は全身に、古代ギリシャの彫刻のような美を湛えている。しかも、それでいて、大理石とは違って享奈は生きているのだ。

 感情が昂り、私は、ぐいと享奈を抱き寄せた。彼女の全身に、びくり、と力がこもり、だがすぐに再び脱力した。暫くごそごそと居心地の良い体勢を模索した後、私の膝の上で丸まる、という結論に至ったらしい。

「ふふ、嵐、ぷにぷに」

 その上、何を思ったか、享奈は私の頬で遊び始めた。

「ちょ、どうしたの?」

「嵐の直径を求めているのです」

 完全におふざけに入ったらしい。確かに私は丸顔だが、直径という言い草はないだろう。そこまで真円に近づいてはいない、はずだ。

「いるのです、って、享奈……。」

「暇なんだよね。……嵐、テレビつける?」

 何かドラマとか録れてたっけ、と言いながら、享奈は右手を伸ばし――届かずに諦めた。

「……嵐いける?」

「無理に決まってるでしょ、享奈の方が大きいのに。」

 一応、私も目一杯腕を伸ばしてみる。やはり、リモコンにはかすりもしなかった。

「いや、炬燵から出ればいいじゃん。享奈降りて。」

「私に凍えろと?」

 そう言って、寧ろしがみついてくる享奈。平均より少し小さなその胸が、私の胸で押し潰される。

「……もういいや。」

 どうでもよくなった。否、最初からどうでもよかったのだ。私は、享奈と一緒に寝転んだ。炬燵に潜り込むと、二人分の体積で、足が少し窮屈だ。私の求めていたものは、この窮屈さだった。

「そういえば、炬燵で寝ると風邪を引く、って言うよね。」

「そうなの?」

「らしいよ。」

 お父さんが言っていた、と、付け加えることはできず。私たちの前に、彼は未だ影を落としていた。

「どうしてだろう。上体が冷える、とか?」

 文明の利器に頼ろうと、享奈は辺りをまさぐった。彼女が頭を動かす度に、毛先が鼻の頭に擦れて、少しくすぐったい。

「……スマホないな。」

 炬燵から出るという発想は、ついに現れなかったらしい。彼女は、また小さく丸まった。炬燵の魔力、恐るべし。

 落ち着いてしまうと、私の目元にも睡魔が忍び寄ってきた。思わず、ふわぁ、とあくびをする。

「ここ過ぎて官能の愉楽のそのに――」

 享奈の双腕が、私の胸をぐわりと鷲掴みにした。あまりのことに、思わず「ひゃっ」と声を上げてしまう。

「ちょっと、いきなり何?」

「聖夜だし。世の恋人たちは、こういうことやらなきゃ、って聞いた。」

「まだ日は沈んでないって。誰? そんなこと吹き込んだの。」

「……しかし大きいよね。嵐の。」

 私の苦言もどこ吹く風で、享奈は手の中をしげしげと眺めた。いい加減離せ。

「私のも、もうちょい大きければよかったのに。」

「何でよ。」

 聞き捨てならなかった。私以外の誰かに、見せるつもりでもあるのか。

「そっちの方が嵐、触ってて楽しいでしょ。」

 どんな理屈だ。不安が杞憂に終わったことに、ついでに享奈の天然ボケに、私は少しの間、声が出なかった。

「心配しなくても、享奈のなら楽しい、というか幸せというか……。享奈、あんまりバカみたいなこと言わせないでよ。」

「恋は人を変える、らしいからね。」

 よくもまあ、悪びれもせずに。まったく恋は罪悪だ。

「もういい。蜜柑、持ってくるから。」

「炬燵といえば蜜柑、てこと?」

 悪いか。私は立ち上がった。

 睡魔は、もう暫く、暴れ出しそうになかった。


 いつの間にか、窓の外には白い影が踊っていた。景色を一面、塗りつぶして見えなくする勢いだ。この分だと、夜には積もるかもしれない。

「享奈、雪が降ってきた。」

「ホワイトクリスマスだね。」

 享奈は、興味なさげに蜜柑を剥いた。

「いや、雪が降ってるんだよ? もっとテンション上げなきゃ。名前にも、ユキって入ってるんだし。」

「音だけでしょ。私が寒いのは好きじゃないって、知ってるくせに。」

 蜜柑を、一房ずつ丁寧に食べながら、享奈はますます炬燵にしがみついた。やはり猫か。

「あんまりこっちじゃ、雪って降らないし。だからこそ、こういう時は楽しまなきゃ。」

 私も、再び炬燵に足を入れる。今度は、享奈と向かい合って。彼女が足を目一杯伸ばすものだから、私はほぼ、正座みたいにしなければならなかった。

「嵐は純粋だね、そこがいいところだけど。……それより、この蜜柑甘いよ。」

 享奈は、つまんでいた一房を私に差し出した。燕の雛みたいにするのは気恥ずかしいから、右手で受け取って口に運ぶ。うん、これは当たりだ。

「甘いね。」

 私は頷く。それを見て、享奈は何が不満だったのか、再び蜜柑の房を突きつけてきた。

「もう一個くれるの?」

「あげないけど。」

 どういうことだ? 私は首を傾げる。その口に、享奈が蜜柑を突っ込んでくる。驚いて固まる私の唇に、享奈は強引に、その唇を合わせた。

 つう、と滑らかな感触。リップの、薔薇のような香りがした。

 私が無抵抗でいると、享奈は舌を割り込ませてくる。彼女の舌が、私の舌先を軽く舐めた。温かく包み込まれるような刺激が、思考を麻酔する。陶然として、少し息が苦しくなってしまう。

 数秒の後、享奈が唇を離すと、どちらのものとも知れない唾液が、少し、唇の端に垂れた。

「……蜜柑の味しかしないんだけど。これ偽装表示でしょ。」

 それを拭い、享奈は、何でもないことのように軽口を飛ばす。

「私、食べ物じゃない」

「ま、聖夜だしね」

 そう言えば、何でも許されると思っているのか。

「ね、嵐、もう一回。」

 ゆるりと抱きつき、艶然と微笑む私の恋人。あまりにも煽情的すぎて、むしろ作為が感じられた。

「享奈……いつも、そんなにエロチックだったっけ。」

「こういう方がいい、って聞いたから。」

 練習した、と胸を張る享奈は、いつも通りの享奈で、いつもより誇らしげだった。

「誰に聞いたの……。そんな無理しなくても、私に必要なのは、享奈っていう人間そのものなんだから。いつも通りでもいいよ。というか、続けられると心臓がもたない、夜まで。」

「効果覿面じゃん。私に必要なのも、嵐っていう人間そのものだから。嵐には幸せになってほしいの。どんな些細な分野でもね。」

 ひとまず、性欲は私が握ってやる、と、享奈が笑う。享奈は、こんな馬鹿らしい台詞でも、よく笑うようになった。

 昔は、享奈はあまり破顔しなかった。この魅力的な笑顔が、私によって生まれたものなら、それだけで私は生きてゆける。

 この二人だけの、姦しくて何気ない日常が、私の手に入れたものの中で、最も価値のあるものだ。

 雪は、静かに街を覆っていく。

 その夜、私たちはひたすら、愛の最下点を求めあった。

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