かつてないほど幸せな

日曜日夕

不幸な奴隷

第1話 異世界と川

「Oh~Yeah~Ahaan♪」



 大好きなロックバンドの歌を歌いながら、俺は河川敷を自転車で疾走する。「Foo♪」日の暮れた川縁に、どうせ自分以外に人は居ない。短い髪を撫ぜる風に、ご機嫌な歌声を乗せる。



 こんなにも俺が調子に乗っているのには、しっかりと理由がある。つい半日前、第一志望大学の合格が決まったのだ。試験の当日は、持ち込んだシャーペンが5本全て折れるというトラブルもあった。それでも努力は実を結んでくれたようで春からは晴れて大学生だ。



 水泳が好きだからサークルはスポーツ系にしようかな。ここは文化系サークルに入ってみるのもいいな。初めての一人暮らしは友達を気軽に呼べる駅近の部屋にしよう。いや、呼ぶのは友達だけじゃないか。大学生だもの、彼女を作って……俺の頭は華の大学生活への希望と妄想でいっぱいだった。入学前には卒業旅行もある。もちろん行き先は夢と魔法の国。



「La La La La~Lu Lu Lu Lu~♪イェーイイェー!!!」



 俺は今、人生における幸せ・・の絶頂に居る。誇張ではない。苦節18年、俺はひたすらに運が悪かった・・・・・・



 初めての不幸は、物心がついて間もなく家が全焼したこと。これで自分の運気も燃え尽きてしまったのだろう。小学校入学式の前日に父親がFXで有り金を全て溶かし、小学校の半分は橋の下で暮らした。中学校に上がる頃にはアパート暮らしに戻ったが、父親が今度は仮想通貨に失敗して再び資産をリセット。母親は謎の宗教に入信した。



 もちろんこれが全てではない、俺の人生には大小様々な不幸が五月雨の如く降り続いている。しかし、俺は雨が止むのをただ待っているなんて真っ平だった。食べ物が無ければ川で魚を獲ればいい。ゲームもスマホも無い環境ならば教科書を娯楽に勉強に励めばいいのだ。



 高校2年生の春、そんな灰色の人生に一筋の光が差した。父親の事業が少し成功して、大学進学の道がひらけたのだ。俺は──試験日に熱を出して高校受験に失敗していたので──少し迷ったが進学を選んだ。幸せ・・を掴む為、というより不幸に負けたくなかったのだ。



「オイェェーアハァーンイェイェーッ!!!オホッゴホッ!!」



 そして今日、俺は遂に不幸に勝った!この絶唱は、ときの声だ!もう友人には「クソザコ運ちっち」とか「大凶しか引けない男」とは呼ばせない。このいただきからの展望は薔薇色ばらいろ一色だ!



 チリンチリン♪



 しかし、その時背後から聞こえてきた鈴の音が、有頂天に居た俺を一気に現実に引きずり下ろした。すぐに自転車に乗った女子高校生が俺を追い越し、大声で歌っていたアホを一瞥することもなく、立ち漕ぎで颯爽と去っていった。



 歌を聞かれた恥ずかしさで、頬がかぁっと赤くなる。動揺でしばらく自転車を止めて呆然としていると、先程まで晴れていた空を雲が覆い、ポツポツと雨が降り始めてきた。



 焦りと羞恥心をかき消すように俺は全速力で自転車を走らせた。だが、俺は赤っ恥への後悔で頭がいっぱいで、2つのことを忘れていた。一つは、焦りもまた幸せと同じく人の注意を散漫にするということ。



 そしてもう一つは、二輪車は雨に濡れたアスファルトでとても滑りやすいこと。



「あっ」普段はなんてことも無い河川敷のカーブで運悪く・・・スリップ。自転車は跳ね馬のように河川敷の土手を駆け下りてゆく。



「オ゛いえ゛あ゛ッッハァンッ!!」



 ドボォッ!自転車と共に春先の川へとダイブ!



 凍えるような水温に気を失いかける。あまりにもフルスロットルな幸せからの急転直下、どうやら俺はまだ不幸に勝ってなどいなかったようだ。しかし、この程度の不幸は蚊に刺されたようなものだ。一年前には逃走中の強盗に脚を銃で撃ち抜かれているんだ。それに比べれば川に落ちたくらい、どうってことはない。俺は元水泳部だぞ!



 負けてたまるか。俺は川面へと浮かぶ為に体勢を取り直す。だが、意思に反して身体はどんどん水底へ沈んでいく。どういうことかと薄目を開けると、脚に何かが絡まっている。



「ガボッ!?ゴボボッ!?」



 自転車の車輪だ。冷たさで感覚が無くなっていたので気が付かなかった。俺はすぐに車輪を掴もうとするが、思うように腕が動かない。身を刺すような低温と、無情な川の流れが、抗う俺の体力を容赦なく奪っていく。



(負けて、たまる……か……)



 薄れゆく意識の中で最期に感じたものは、力の抜けた自分の身体を運んでいく川の流れだった──



──さて、日本から遠く離れた、運河沿いの広場に処刑人の号令が響く。



「この魔女まじょは、神と王に仇なし、王国に不幸をもたらす異端者である!」



 彼の前には、ボロ布のような服を着、手枷てかせと目隠しを付けられた、一人の少女が跪いている。



 まさに今、この広場で彼女の死刑が執行されようとしているのだ。集まった野次馬達は処刑人の口上を聞きながら、彼女に憐憫れんびんと好奇の眼差しを向ける。



「異端者は最も罪深き存在の一つであり、この者はこれより火炙ひあぶりに処せられる!」



 群衆は処刑方法にどよめいた。無理もない、火炙りなど想像しただけで凄惨な光景だ。そんな重い刑罰に処せられるなんて、眼前の少女は一体どれほどの事をしでかしたのだろう。群衆の視線が一斉に少女に集まる。彼女は祈るように両手を折り重ね、処刑人の言葉にじっと耳を傾けていた。



 処刑人は群衆と少女を交互に見やり、声を張り上げる。「だが、しかし!導師どうしゲマラ様は、なんとこの異端者に最後の御慈悲を与え給うた!」そう言うと彼は剣を抜き、その切っ先を少女に突き付けると、彼女を川縁かわべりへと立たせた。立った彼女の足には鈍く光る鉄球が繋がれているのが見えた。



「今から、この者の身を運河に投げ入れる。この運河は我らの王が造った聖なる川である。もし聖なる川が罪を赦すならば、この者は再び川面に姿を現すだろう。なれば、この者を無罪放免とする」



「ああ、なんと慈悲深い」



 一部の信心深い見物人からはそのような声が上がるが、いやいや、なんとも馬鹿馬鹿しい神明裁判しんめいさいばんだ。手を縛られ、足に鉄球を繋がれた状態で、どうやって水面に浮かぶことなどできるだろう。



「魔女よ。これが最期になるやも知れぬ。遺す言葉はあるか?」処刑人は少女の耳元で囁いた。「ゲマラ様の慈悲である。もし伝えたい者が居れば、その者に伝えてやろう」



「それでは、孤児院の皆に伝えて下さい」少女は口元に微笑みをたたえた。「今までありがとう。私は幸せでした、と」



 そうして、彼女はその身を川に投げ入れた。まるで階段を下るように、一切の躊躇ためらいなく。



 しかし、目隠しをされた彼女は気付いていなかった──遺言を述べる彼女に、処刑人が卑しい笑みを向けていたことに。



(ふん……遺言など伝わらないがな。貴様が居た孤児院の連中は、既に追放されているのだ)



 すぐに群衆が川縁に寄るが、川面かわもには波一つ立っておらず、ただ何事も無かったかのように青緑に染まっていた。やがて目隠しの布切れがゆっくりと浮かんできたが、最後まで彼女が再び彼らの前に姿を現すことは無かった。運河は何事もなかったかのように穏やかに流れるばかり。



「ああ!やはり聖なる川は魔女の大罪を赦さなかったようだ!しかし、これで一人の罪人がこの王国から消え去り、一つの罪が洗われた!安寧なるヘドニア王国に幸あらんことを!」



 処刑人が高らかにそう宣言すると、群衆も久々の見世物ショーの幕引きを拍手で迎える。こうして、この日の公開処刑は全て滞りなく執行された……かに見えた。



 自らを覗き込む群衆に素知らぬ顔を向けていた聖なる川だが、その腹の中では想像を超える出来事が起こっていた。



(神様かみさま。これより私も永遠の安息に入ります)



 身を投げた少女は川の底で最期の祈りを捧げていた。孤児院では、死とは安らかな眠りと同じようなもので、いたずらに恐怖するものではないと教わっていたので、彼女はその死を受け入れていたのだ。



 するとその時、目隠しが川の流れに押されて外れた。薄れゆく意識の中、不意に瞼の裏が赤くなり、反射的に薄ら目を開いた彼女のぼんやりとした視界に、黒い影が映る。それは、魚ではない。神様でもない。人間だ、男だ!



川上から男が勢いよく流れてくる!このままではぶつかってしまう!



「ッ!?」



 少女は咄嗟に避けようとするが、鉄球が重くて身動きが取れない。遂に二人が衝突しようという時、なんとも奇妙な事が起きた──男の身体が、彼女を川底に繋ぎ止める鎖に引っかかり、強引に鎖を砕いたのだ。壊れた鎖は彼の身体に絡みつき、一瞬の内に少女は鉄球の代わりに男の身体と繋がれた。何が何だか分からぬまま、少女は未だ勢いの衰えぬ男に引っ張られながら、川下へと流されてしまったのだ。



 まさか上に居る処刑人や群衆も、川の中でこのような珍事が起きているなど、思いもよらないだろう。彼らが死刑は執行されたと思い込み、ぞろぞろと広場を後にする頃、死を免れた少女は謎の男と共に、広場から離れた水路の船着場に打ち上げられていた……。



「私、生きてるんですか?なんで?」



 少女は乱れた呼吸を落ち着かせながら、横たわっている男に目をやった。彼は全裸で気絶している。骨格が大きく筋肉質な、やや色黒の男。髪は短く刈ってある。その顔は薄く面長で、この国の人間らしからぬ顔立ちだ。



「どちら様?」彼女が不審感と興味の入り混じった声を漏らしたその時、男の目がパチリと開いた。



「ひっ……」



「ここどこ?天国?」身を起こした男だが、どうやら彼も事態を飲み込めていないようで、しきりに辺りを見回したり、目をぱちくりさせている。「川に溺れて……えっと、君は誰?君が助けてくれたの?」



「いや、あの助けたというか、助けられたというか……というか、あの、服は?」



 うつむいた男は、世界に露わにされた自身の肉体に首を傾げる。



「いや、こうはならんだろ」

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