第14話
そうして少しばかり歩いて階段を降りると、ボロボロになった扉の前に躍り出た。上には黄ばんだ紙に「用務員室」と掠れた文字で書かれていて、俺はその扉に慣れた素振りで手を伸ばす。
中に入って最初に感じるのは、濃い埃の匂い。そして、物置みたいに乱雑に積み上げられた教材や掃除用具。
近くにあった椅子に文乃さんを座らせると、持っていたお茶を彼女に手渡す。
「これでも飲め。少しは気分がマシになるはずだ」
「……ここは?」
「昔、用務員の休憩室として使われていた場所らしい。今は御覧の通り、ほとんど物置と変わらないがな」
それだけ言って、壁とロッカーの隙間に置かれた椅子に腰掛けると、そのまま寄りかかって目を閉じる。
「少し休んでから戻った方がいい。酷い顔をしているから。俺は寝る」
「あの」
「なんだ」
「もしかして、聞いていましたか?」
「……ああ」
「……その、あれは……」
一向に返ってこない返事を不思議に思って僅かに目を開けてみれば、彼女は視線を迷わせながら、何度もなにか言いかけるように口を開いては、静かに閉じるを繰り返す。
そんな文乃さんを見ていると、無性に胸の内から苛立ちが湧きたつのを感じた。
らしくない。
俺の知る文乃さんは、いつも迷いなんてなくて、ぶれることのない確かな芯を持っていた。迷うようなことがあっても、おくびにもそれは出さず、しっかりとした足取りで答えを出す。そんな人だった。
だから、らしくない。彼女にそんな顔は、どうやったって似合わない。
「言っておくが、俺は何も知らない。連れ出したのも、ただなんとなく困ってるように見えたからだ」
「……そう、ですか」
「そうだ」
そう言うと文乃さんは、何だか複雑そうな顔で笑う。
「……何も聞かないんですね」
「聞くほど長い付き合いって訳でもないだろう」
「そう、ですね……」
「ああ」
俺は壁に背を預けると、困り顔の彼女を見つめる。
自分でも、何故こんなにも苛立っているのか分からない。筋違いだとも理解している。文乃さんに非が無い事も、もちろん分かってはいる。なのに、この騒めきが一向に収まる気配はしなかった。
「何があったのかは知らないが、そんな顔はするな」
「……ごめんなさい」
「謝るな」
「っ……」
ビクリと彼女が肩を震わす。自分でも驚くほど強い語気だった。俺は少し声を落として、なるべく穏やかに口を開く。
「すまない、声を荒げる気はなかったんだ。ただ、苦しそうに耐えている人間を見るのは、あまり好きじゃない」
ふと、彼女と過ごした、いつぞやの記憶が頭をよぎる。どこか寂しそうで、苦しそうな表情。
ああ、そうか。
ようやく理解する。同じだったんだ、今の文乃さんと同じ顔だった。
溢れ出してしまいそうな感情を押し殺すように、全てを笑顔で蓋をするその姿が、命を絶つ前の彼女と腹立たしいほどに重なった。
『水垣君、心だけが全てだよ。心を形に出来る言葉だけが、人に触れられる。いつだって、寄り添えるのは心だけだよ』
頭の中で走り出す思い出が、心臓を酷く軋ませる。
心に価値が宿るのなら、きっとそれを伝える言葉にも同じだけの価値がある。それを教えてくれたのは、他でもない。文乃さん、貴方だ。
貴方が心をぞんざいに扱うのなら、一体何に価値が宿るのだろう。俺みたいな人間は、何に価値を見出せばいい?
「俺は、文乃さんの事情は何も知らない。だが、全てを投げ出して、最後に残るのは心だ。文乃さんには、それをないがしろにして欲しくはない」
噛みしめるようにして吐き出した言葉だった。きっと、彼女からしてみれば、何のことだか全く分からないだろう。気持ち悪いと思われるかもしれない。それでも、貴方からもらった心に、嘘偽りを並べたくはなかった。
彼女は一瞬だけポカンとした表情を浮かべて、それから彼女は気が抜けたようにクスクスと笑う。
「……やっぱり水垣君って、ちょっと変わっていますね」
「そうかもな」
「はい、そうです」
一呼吸の間の後、文乃さんはさっきまでとは違い、ごく自然に柔らかな笑みを浮かべる。
「……でも、そういうのも、悪くないなって思います」
「……そうか」
俺は陰の無くなった彼女の表情に内心ほっと胸を撫で下ろすと、安心から微かに頬が緩む。
そうだ、文乃さんには笑顔が一番似合う。強がる姿なんて、そんなつまらないものは必要なかった。
そんなことを考えながら、俺は再び目を閉じる。心の奥底で軋んでいたあの痛みは、いつの間にか無くなっていた。
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