あの日の青春をもう一度

Ramune

第1話

昔から、運に恵まれない人生だった。何をやってもうまくいかない、そんなありふれた人間の一人だった。

「……いつから、こんな風になっちゃったんだろうな」

 煙草の煙に揺れる夜の街並みを眺めながら、誰に言うでも無く呟く。

 社会人として馬車馬のように働きだしてから、十年と少し。もう何年も、会社の敷地から出られていない。

「もう疲れた……。本当にもう、疲れたなぁ……」

 煙草の火を消して、少しだけ雲の出ている空に目を細める。

 俺の働く会社は、俗にいうブラック企業だった。それも、超が付くほど真っ黒な会社。

 一日二十時間を超える過酷なデスクワーク。セクハラ、パワハラのオンパレードな上司に、無理やり納期を前倒ししてくる営業。

 極めつけに「プログラマーなんていくらでも替えが効くただの部品なんだから、口答えせず黙って働け」が口癖の社長。休みなんて当たり前のように無くて、入社二年目に一度取ったきりだ。

 だからといって逃げ出せば、教育部屋なんて名前の素敵な部屋に放り込まれ、上司の罵詈雑言の嵐を受けながら仕事をする羽目になる。何人かの同僚は、これのせいで自ら命を絶った。

 そして、そんな状態の現場を見て上司はこう言うのだ。「会社の迷惑も考えずに死ぬなんて、最後まで無能は無能のままだったな」と。

人の命すら、ゴミ同然の価値しかもたない。そんな、最低最悪な職場。そんな職場に長くいたせいか、ここ最近ではただでさえ壊れかけていた身体が、輪をかけるみたいにボロボロと崩れていくのを感じていた。

以前から食事は喉を通らなかったが、少し前から飲み物ですら喉を通らせるのに苦労するようになった。心臓の痛みや目眩、突然来る息苦しさを感じることが格段に増えた。血尿だって、ここ一ヶ月はずっとだ。

だが、こんな状態になってもなお、この職場から逃げだす勇気すら湧かないのだから、俺は本当に正真正銘のゴミなのだろう。

「……そろそろ行かねえと」

俺はひどく痛む首をさすりながら、残った仕事を片付ける為にオフィスへと向かう。死体みたいに寝袋にくるまって、床で倒れ込む同僚たちを縫って自分のデスクに座ると、錠剤のカフェインを嫌がる胃に無理やり珈琲で流し込んで、山積みの仕事に手を伸ばし、ふとその手が宙で止まる。

「ほんと、いつからこんなんになったんだろうな……」

蚊の鳴くような声が喉の奥から漏れ出た。

働き出してから、もう何度も味わってきた黒く濁った絶望の波。その波が打ち寄せるたびに、心が軋んで悲鳴を上げる。

心も、身体も、もう何もかもが限界だった。

視界を歪ませる涙が、嫌に胸を痛ませた。

本当は分かっていた。自分がすべて招いた結果が、目を逸らし続けてきたツケが、今の俺なのだ。

なにが運に恵まれない人生だ。どの口で何をやってもうまくいかないありふれた人間なんて事をほざくのだ。

昔から努力が嫌で、でも何かをしないといけないのは分かっているから、分かりやすく努力をしているように見える形だけを取って、周りを騙して、自分も騙して、そうして誤魔化し続けて、楽な方に流され続けた結果がこのざまだ。このありさまだ。

これが……水垣(みずがき)誠(まこと)という、つまらない男の成れの果てだ。

「分かっているさ……」

いつからこうなったのか、そんな被害者ぶった考えに意味なんてない。俺はずっとこうだった。逃げてばかりで誰かのせいにしたがる、どうしようもない他責思考の怪物。

全部愚かな自分が選んだ、当然の結末だ。

『水垣君は努力家だよね』

自らを責め続ける俺の頭に、不意に思い浮かんだ懐かしい声。俺はその声を否定するように、力なく首を横に振る。

「違う、俺は……俺は君みたいに何かをしてきた訳じゃなかった……」

高校生の時に出会った彼女はいつだって優しくて、俺なんかの事を肯定してくれた、ただ一人の少女。美人で、つかみどころのない不思議な人で、いつも俺なんかに寄り添ってくれた。

彼女は口数も少なかったし、きっと俺は大勢いる友人の一人にすぎなかったと思う。それでも、一緒に過ごす時間にはいつも救われていた。

大人になった今ですら、その思い出のおかげで折れることなく立っていられるくらいに。

「目を背けることなく、もっと努力していれば……何か変わったんだろうか……」

静まり返ったオフィスの中で、その問いに答える者はいない。

溢れ出る涙を拭うと、ディスプレイに反射した血色の悪い瘦せこけた自分の顔を見て、俺は思わず目を伏せる。

一度だけでいい。もう一度だけでいいから、あの頃に戻りたい。輝かしいとは言わないまでも、まだ生きていていいと思えたあの日々に。

「……それは傲慢か」

自嘲気味に短く乾いた笑いを上げると、頬に一筋の涙が滑り落ちた。

俺は静かに椅子から立ち上がり、数歩歩みを進めて窓を開ける。

「きっと俺のことなんて、最期には覚えてすらいなかっただろうけど、それでも俺は……嬉しかったんだ。……本当に」

秋の始まりを感じさせる、ほんのりと肌寒くもぬるい風が頬をなでる。

高校三年生の冬。自ら命を絶った彼女は、最期に何を思ったのだろうか。苦痛と葛藤の中で、何を思って身を投げたのだろうか。

理解を示すことで精一杯で、何も知らなかった俺には知る由もない。だから、残された俺には、彼女の事を忘れないよう生きていくことしか出来なかった。

それにすがることしか出来なかったのだ。

「ああ、でもよかった。最期に思い出すことができて、本当に」

手放しがたい思い出も、忘れたくない記憶も、いつかは擦り切れてなくなってしまう。そうなる前に、あの美しい思い出に触れられて、それだけで満足だ。

俺は窓枠に足を掛けると、そのまま秋の空へと飛び出す。彼女との思い出を胸に抱きしめながら濁った夜の空へ、ただひたすらに落ちていった。

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