第伍章 -6- マッチ箱と燃え盛る日常
私は男が右手に持つマッチ箱を取り上げて、白蛇のキセルで強く叩く。相手は箱のはずなのに、金属同士のぶつかるような硬い音がした。マッチ箱からは熱が奪われ、私は強く握りつぶす。
クシャリと乾いた音がして、男は影の中へと突っ伏した。
「この男は死んだのか? 八代がマッチ箱を砕いたから」
ヤハズの問いが聞こえた。無機質な声が影の中に響いている。
「わからねえな。付喪之人であった時間に比例して、人の想いは物に侵食される。わずかな時間であれば気がつくこともある。しかしこいつは違う。利用されていたんだよ。マッチ箱は作られて間もないはずなのに、付喪となっていた。人の想いが注がれて、自ら意思を持つことなく人の想いに塗り染められて、操られるがまま持ち主の五感と形を奪ったのだよ。どうなるかはわからん」
「そうやってお前は付喪を払うのだな。付喪の因果を覗き、暴いて、言葉で惑わす。虚実を混じえて見たくもない真実を突きつける。気に入らなければ砕いて物の命を、想いを消し去る」
ヤハズの声は冷たかった。立ち上がり視線を合わせると光が降り注いでいる。姫が街を包んだ影は頭上から崩れ始めて、黒い湿った断片が頭上から溢れていた。空間が砕け、街は本来の色を取り戻している。
ヤハズは続けた。
「私はお前がどうやった付喪を祓うのか、それとも払うのかを確かめたかった。つまりはお前の判断で物の意思を奪うのだな。時には想いを晴らし、時には形を砕く。まるで神だな」
「何が言いたいんだ? 少なくともこいつは狗鷲を殺した。すべてを燃やしたいという、人に仇なす想いに包まれている。放っておいてもろくなことにならねぇ」
「それはお前の判断だろう? 審判を下せるほど、お前は偉いのか? 神のように」
やはりお前は
「もしお前の気まぐれで、私と姫の中を裂こうとしたら、お前は殺すよ」
「そのつもりなら、最初に出会った時に払っている。もしお前たちが望むなら砕いてやってもいい」
口が減らぬ。とヤハズは男から踵を返す。私の気まぐれ。という言葉が耳の奥で反響している。私は狗鷲に言われるままに付喪を祓っていた。人に仇なす付喪は物自体を砕き、二度と意思を持てないようにした。
クシャリと潰れたマッチ箱のように。壊した。
しかしそれは・・・人の都合ではないのか。神気取りで審判を下し、人ではないからと命を奪う。吐き気がした。
人種や国が違うからと言って
祓うことができないと決めつけて、真に悪いのは蛇の目傘であるのにもかかわらず、壊した。
ひどく吐き気がした。
正しいと信じていた自分の役割が、心の中で音を立てて崩れていく。
あたりの影はすっかりと砕け、いつしか姫がヤハズの隣に並んでいる。一度だけ私に目を伏せて、ヤハズと並んで私に背を向けた。
「おいヤハズ。お前はなぜ俺に協力するんだ? そんな因果はないだろう?」
ふん。とヤハズは首を横に向ける。横顔には笑みはなく目尻が怪しく
「話してしまっては面白くないのだろう? それに八代はたいして強くないようだ。死に場所を探すのはいいが、私の目的が達成された後にしてくれ。それまでは協力してやろう。紫煙に頼らずともわかることはあるのだ」
ヤハズは歩き出す。姫は黙ってヤハズへ続いた。あたりはすっかりと影が伸びていて、顔が隠れた人の往来は視界の中に復活している。
ふたりは影に溶け込み消えた。
死に場所を探している。嫌な響きだった。ともかく疲れた。千鳥にどう説明しようか。
私が振り向くとそこには開襟シャツの男がいた。腰の革ベルトには新聞紙に包まれた包丁が無造作に刺されていた。背筋が総毛立つ。人の想いに包まれてしまえば、付喪の気配はわからない。男は癖の強い長い髪を左手ですいた。
こりゃぁ死ぬな。そう考えた時に体から力が抜けるのがわかった。そして生暖かい
「蛇の目傘には気をつけろ。もう知ったのだろう?」
開襟シャツの男は低く、くぐもった声で言った。そして足を進めて私とすれ違うと人混みに消えていく。
まったくの無関係ではなかったのだ。視界がぐらりと揺れた。何よりも心を乱したのは死を覚悟して、安堵してしまった心のせいだ。
ざわざわと交わされる人の会話の中で、私はたったひとりの人だった。せめて物言わぬ物であったのならどれほど幸せだろうか。
ほどなくして手足から力が抜けた。糸の切れた人形のように。
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