第一章 -3- 京都市北区のケットシー

 机に刻まれた罵倒の言葉を踏みつけて、まん丸の黄色い瞳で私を見上げている。

 もしかして公園で出会った猫ちゃんかな。思い至ると不思議と教室の景色は霧のように視界から溶けていく。


「すまんな。人間の女の子よ。謝罪としてこれを受け取ってくれないか?この夏に私が見つけた宝物だ」


 なんだろう?と私が首をかしげると猫又が右手をちょこんと前に出し、そこにはセミの抜け殻がポツリと置かれていた。それもまたひどく大きい。ヒャァ!と悲鳴を開けて飛び上がると、こにはもう教室で私をいじめる人や無関心な教師にクラスメートの姿はなくなっていた。


 辺りを見渡すとそこは一瞬誰かの家に見えた。しかし私はグレーのソファーで横になっていて、赤と白色のチェックの入ったブランケットが足元に落ちている。飛び起きた時に落としたらしい。

 グレーのソファーは他にも背の低いテーブルに合わせたように四脚ほど並んでいる。奥には私の胸ほどもある背の高いテーブルがポツリと置かれていた。明るい木目をしたカウンターの前には五脚のカウンターチェアーが並び、その左端にはいろんな語りをした白いお皿が積み上げられている。

 右端には極彩飾をちりばめたお酒が並んでいて、その上にはワイングラスが逆さ向きに吊られていた。

 厨房には大きなオーブンとコンロが並び木べら銀色のトング、細い大きな筒状のザルみたいな調理器具が整然と吊り下げられている。


 夢の中で夢を見ていたのかな。それにどこからが夢なのだろう。


 私はくしゃくしゃになった髪を整えながら目の前のテーブルに目をやると、夢の中でみた巨大なセミの抜け殻が目に入り、ひゃぁ!と飛び上がる。


 こればっかりは虫が苦手だから仕方がない。虫さんには申し訳ないのだけど!


「あらあら。お目覚め?そんなに若いのに夜遊びはダメだよー」


 カウンターの死角からのんびりとした声が聞こえる。それは気を失う前に聞いた魔女の声によく似ていた。その女性は真っ黒なエプロンを脱ぎながら私へと歩みよる。

 黒い髪はまっすぐと間接照明の灯りを浴びてつやつやと光っている。ふわりとした黒いシャツの首には大きな白い襟があり、藍色にも見えるロングスカートからは脚を進めるたびに細い足首が見えた。

 折れそうなほどに華奢な腕で髪をまとめながらその女性は静かに笑みを浮かべる。

 細い顎の上には小ぶりな薄い唇が乗っていて、細く通った鼻筋に不釣り合いなほどの大きな瞳で私を眺めていた。まるで極彩飾ごくさいしょくの鳥を思わせるようなその瞳にまつげの作る影が落ちている。どこか外国の人みたいな顔立ちだなと私は思った。

 すごい美人さんだな。私が見惚れているとクスクスとその女性は笑っている。


「どうしたの?驚いた?近くの公園で気を失っていたから私のお店に連れてきたの覚えて・・・ないよね?」


 すみません!と反射的に私は頭を下げる。きっと公園で見かけた猫の集会は私の夢で、見間違いだったのだ。私のの見間違いのせいで私は気を失って彼女に助けられたという訳だ。

 しかし紺色のジャケットにやたらと猫の毛がくっついていることが不思議に感じる。

 ワタワタと何度も頭を下げる私にその女性は困ったように目を細める。


「大丈夫だよ。私はミーナ・フォーゲルって言います。呼びにくいからミーナさんとかそんな感じで呼んでね」


 やっぱり外国の人だったんだ。と私はミーナさん・・・と口元でその言葉をこぼすと、はーい。と右手を揺らしてミーナさんはそう返事をする。


「私は秋葉琴音といいます。ご迷惑をかけちゃって申し訳ありません」


「いい名前だねー。琴音、琴の音、静かに心の中に響く音色だから私は琴の音は好きよ」


 ありがとうございます。と不思議と私の頬は上気する。なんとも独特な雰囲気と間があるなぁと思いつつ日本語が本当に上手だとも思った。違和感がないほどにその言葉が心の中に流れてくる。


「まぁこのまま帰すのもアレだから軽いご飯でも食べていく?」


 そんな・・・と遠慮しようとする私に意思に反して私のお腹はグゥと音を立てて反抗した。

 ふふふ。とミーナさんは真っ黒なエプロンを身にまといながら、カウンターの奥にあるキッチンへと足を進める。そして一度しゃがんで足元に備え付けられた業務用の冷蔵庫からゴソゴソと食材を取り出し調理を始める。


「ふふーん。まずは玉ねぎさんを細切りに、火が入りすぎては大変だけど生のままでは今の気分でないからねー。作り置いたブイヨンさんはまだ隣に置いておきましょう」


 鼻歌と共にミーナさんは楽しそうに、歌うように包丁で玉ねぎを千切りにしている。コンコンと細長い包丁がまな板をたたく音がした。


「今日は女の子が相手だからニンニクさんはとっても少なめに、オリーブオイルに疲れを癒す香りが残ったら退場してもらいましょう。さてさてここからは玉ねぎさんの出番です。ここは焦らず焦げ付かないように飴色あめいろになるまで炒めましょう」


 なんだか楽しそうだなと私は思いつつ、暖かな料理への気持ちが私にまで流れてくるような気がした。私は身を乗り出してその料理を眺めていた。じゅうじゅうと玉ねぎの炒められる音がして、火が通る度にその色を変えていく。 すっかりと飴色に変わった玉ねぎに隣で温められていた琥珀色のスープが注がれると一気に沸騰ふっとうする。それを見届けたミーナさんは火をろうそくよりもずっと小さくして蓋を閉じる。


「大きな火は水を温めてくれるけど、それも度がすぎれば水が消えていっちゃうからね。それはちょっとご勘弁かんべん。その間にパゲットにオリーブオイルと少しのお塩。焼き色をつけてトマトをのせましょう」


 手際よく進む料理にすっかりと私は目を奪われて言葉もまた奪われていた。焼かれたパゲットはふた切れほど小さな白い平たいお皿に盛られる。


「さてさてこれからが本番ね。オニオンスープと名前をマグカップに注いでチーズをたんまり!美味しいものはなんでこうカロリーが高いのかしらね・・・そしてバーナーさんで焼き色をつけたら・・・はい!オニオンスープとプルスケッタ!冷えた体を温めて玉ねぎの香りは食欲を我慢することは許さないわ!ね?そうでしょう?」


「はい!」


 私は目の前に現れたその料理と、用意されたフォークとスプーンをにぎる。焼かれたチーズはトロトロとスプーンで触れると溶けていき、オニオンスープと一緒に口に含む。

 玉ねぎの甘さと焼かれたチーズの香ばしい甘さになんてかなう人なんていないと私は思う。続けて私は隣の焼かれたパゲットにチーズの乗ったプルスケッタを口に含む。トマトの酸味がオリーブオイルの香りに当てられてシンプルながら豪華な気持ちになる。

 本当に美味しいと思った。どこでもある食材なのにちょっと手を加えるだけでこんなにも違う。それは魔法のようだと私は思う。

 言葉を忘れ、夢中にミーナさんの料理を口に運ぶ私をミーナさんは満足そうに眺めていた。いつの間にか右手には大きめなワイングラスが握られていて深い赤色をしたワインが揺れている。ワイングラスの飲み口は空気との境界が曖昧になるほど薄かった。


「ふふーん。そんなに美味しかった?」


「はい!大変美味しかったです!」


 それはよかった。とミーナさんはやわらかい笑みを浮かべてワインを口に含む。完成された仕草になんとも大人な女性だと私は思った。しかし高校二年生の私は、ほどなくしたら大人になってしまう。いつかはこんな大人になれるのだろうか。きっとそれは難しいだろうな。考えると胸の奥がキュンとしぼむ。


「さてさて。お腹も体も温まったらそろそろお家に帰らないと。もうすっかり遅いから。きっと今日は空腹のあまり

倒れてしまったのね」


「ええ。ありがとうございます」


 軽く頭を下げても公園で見た景色がやっぱり夢だったとは思えない。夢と思えるには肌に触れる草木の感触が生々しくて踏みしめる砂利は足元でその感触をまだ残しているから。


 カウンターの向こうには細い通路があって、そこからは階下に向かう階段が見える。そこで初めて私はこのお店が建物の二階にあることを知った。その階段からかつかつと硬い靴音が聞こえてきた。


 お客さんかなと思って眺めているとまず三角にピンと立った耳が見えて私は目を疑った。

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