第4話


 ぶらぶらと雪村よるが風に揺られている。

 その姿は、まるで不出来なマリオネットのようだった。夜の風が枝を揺らすたび、彼女の青白い顔も左右に揺れ、沈黙が支配する舞台で奇妙なダンスを披露している。


 幽霊の首つり。


 こんなものいったい誰が予想できただろう。もはや素人が手を出せる領域を軽く超えている。俺は自分の覚悟がガラガラと崩れていく音を聞きながら、固唾かたずを飲んで状況を見守ることしかできない。


 ――ブツン。


 突然、ロープが切れた。雪村よるの体は唯一の支えを失い、地面へ落下する。そして――


「は? 消え、た……?」


 俺はとっさに駆け寄るも、その場にいるはずのよるがいない。慌てて枝を見上げると、あれほど明確に見えていたロープの痕跡こんせきすら残っていなかった。まるで最初から何もなかったように、彼女の姿は跡形もなく消えている。


 ……これは、ヤバい。何かもの凄く嫌な予感がする。


 狐につままれるような体験に妙な悪寒を覚えた時、ふと気づく。なぜか、全身が鉛のように重い。例えるなら悪夢を見たとき、体の自由が利かない感覚。


 まさか、金縛り?


「う、うしろ……ね、ねぇ、後ろから来てるわ……」


 ザッ、ザッ、と背後から足音が聞こえた。

 まだ春だというのに汗でシャツが濡れていく。くいくいとめろんに袖を引かれるが、背後から迫るプレッシャーも相まって、指先一つ動かせない。

 

『……ない、と。あ、しの――せいで……ゆとが――死ぬ』


 おそらく、真後ろに雪村よるが立っている。

 耳元で囁く声は、壊れたテープレコーダーのように不明瞭で、意味は判然としない。ただ、その声を聞いていると猛烈な目眩と耳鳴りに襲われ、急速に意識が遠のいていく。


 ――誰かの意思が、朦朧もうろうとしている俺に流れ込んできた。今にも飛びそうな意識の中、俺は確かに奴と深い部分で重なっていく。


 “猛烈に死にたい。いや、あたしは死ななければいけない”


 唐突に、自分のすべきことを悟った。

 気分がいい。嘘のように体が軽くなる。思考は霧が晴れたようにクリアで、やることも明確だ。

 背中に翼でも生えたような解放感に自然と笑みが浮かぶ。いったいあたしは何を悩んでいたのだろう? 今なら何だってできる気がする。


「良かった。これで死ねる」


 あたしはこの日のために準備したロープの具合を確かめながら、手頃で頑丈そうな枝を探した。隣で何かが必死に叫んでいるが、気にしている暇はない。一刻も早く死なないと、あの子に被害が及ぶかもしれない。

 万が一にもほどけないよう、念入りに枝にロープを結ぶ。輪っかの部分に首をかけ、最後の一歩を踏み出そうとした瞬間――


「え?」


 ――ペチン、と。頬に軽い衝撃が走っていた。


「もう私から大切な人を奪わないでっ!」


 首にロープをかけたまま、呆然と肩を見た。ぐしゃぐしゃに涙で顔ぬらしためろんが、俺を見つめている。


 ――――まさか俺、取り憑かれていた?


「っ!?」


 ぞくりと冷たい恐怖が全身を貫いた。俺は、首に掛かったロープを放り投げ、慌てて老木から飛び退く。


「あ、あ、危っねぇ!? ――あ、あいつは! あいつはどうなった!?」


 まるで、催眠術に掛かったようだったが、記憶ははっきりしている。めろんが止めてくれなかったら、本当に死んでいたかもしれない。


「ひっく、ぐすっ」


 めろんが涙を流して震えている。

 彼女が指さす方向を見ると、雪村よるは宙で苦悶くもんの表情を浮かべ、足をばたつかせていた。

 哀れなよるの姿に一瞬恐怖が過るが、その恐怖はすぐに強い感情にかき消される。


「……あんの、大馬鹿やろうっ」


 雪村よるに取り憑かれたことで、俺は瞬間的に彼女の過去を“体験”した。


 突然、理不尽に奪われた命を見た。

 バラバラに崩壊していく繋がりを見た。

 奇跡にすがって、足掻く彼女の戦いの結末を――見た。


 彼女が俺にしか見えない本当の理由をようやく理解する。俺たちは、考え方がとてもよく似ていた。

 今、この心に渦巻くのは、深い共感と、やり場のない怒りだけだ。


「こんなの、あまりに悲しすぎるだろ……」


 あまりの無力さに打ちひしがれていると、鼻をすするめろんが声を掛けてきた。


「……くすん。あ、あなたはもう帰って。ま、巻き込んで、悪かったわね」

「どうするつもりだ?」

「こ、ここからは私が一人でやってみるわ。だ、大丈夫! 私、これでも神さまになったんだからっ」

「っ! お前が責任を感じる必要はない!」


 強がって健気に微笑むめろんを見て、腸が煮えくりかえってくる。

 この子が何か悪いことをしたか? ただ、誰かを思って嘘をつく、それがそんなに罪なのか?

 理不尽に奪っていくだけの世界に、俺たちは抵抗することも許されないのか?


「ふざけんなよ」

 

 ――認めない。誰かを思った嘘の結末がこんなものだなんて、俺は絶対に認めない。


「い、いきなりどうしたの?」

「……俺に考えがある。とりあえず、あいつを正気に戻そう」

「え? 何か方法があるの!?」

「任せろ。嘘つきの気持ちは、嘘つきが一番理解している」

「な、何をするつもり……?」


「決まってんだろ? 嘘つきが一番嫌がることをしてやんだよ」


 あいつの嘘はある意味“半分しか”成立していない。だから、彼の名前を出せば、彼女は間違いなく乗ってくる。

 俺は、よるがぶら下がっている老木に向かって声を張りあげた。



「“一年前の弟の交通事故をなかったことにしたい” “――いや、歩人の死ぬような事故なんて、最初から存在しなかった!”」



 俺は彼女の嘘を大声で暴露した。

 次の瞬間、風さえ止んだ静けさの中――ブツン。ロープが切れる渇いた音が響き渡る。


「……」


 そして、気がつけば、首を吊っていた彼女が目の前に立っていた。

 その瞳は、何を映しているのか。恐怖か、怒りか、それとも……諦めか。


「お前に、雪村歩人は救えない」

「…………じゃ、あ、あたシは、どう、すればイいの?」


 悪霊になり果て、理性を失いそうになる度……大切な人に被害を及ぼさないように、自分を殺し続ける女は項垂うなだれる。


「嘘を誤魔化すには、新たな嘘を重ねるしかない。だから――」


 俺は深く息を吸い込み、決意を込めて告げた。


「今度こそ、お前の嘘を俺が本当に変えてやる」


 心を救える優しい嘘はきっとある。

 俺は、一時的に正気を取り戻しつつあるよるに、自分のプランを語り出した。


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